2010年12月15日水曜日

社会理論(3)

1.ロバート・ノージック『アナーキー・国家・ユートピア』(1974年、木鐸社)

人はなぜ、より大きな社会的善のために人々を侵害することが許されないのか。個人としてはわれわれは各々時によって、より大きな利益のためまたはより大きな害を避けるため、痛みや犠牲をあえて受けることがある。[…]なぜ同じように、社会全体の善のために、ある人々が他の人々により多くの利益を与えるような何らかのコストを負担すべきだ、と主張しないのか。しかし、自身の善のためにある犠牲を忍ぶというような、善を伴う社会的実体などというものは存在しない。存在するのは個々の人々、彼ら自身の個々の生命をもった、各々異なった個々の人々のみである。これらの人々のうちの一人を他の人々の利益のために利用するということは、彼を利用することと、そして他に利益を与えることとである。何もそれ以上はない。起ることは、他人のために彼に何かが行われるということである。社会全体の善を論じることは、このことを隠蔽する。(意図的に?)一個人をこのように使うことは、彼が別の人格であり、彼の命が彼のもっている唯一の命であるという事実を、十分に尊重し考慮に入れているとはいえない。彼の犠牲によって、彼が何かそれ以上の善を得るわけではないし、誰もこれを彼に強制する資格をもつわけではない。特に国家や政府は、彼の忠誠を要求し(国家以外の個人はこれを要求しない)、それゆえその個々の市民の間では注意深く中立性を保たねばならぬのだから、とりわけこのような資格をもたないのである。 [51−52頁]

社会には、利益がコストよりも大きいかどうかを判定する方法がなければならない。次に社会は、コストの分配をどうするかを決めなければならない。 [124頁]

我々は、自然状態から誰の権利を害することもなしに国家がいかにして成立するのかを説明するという、我々の課題を果した。個人主義的無政府主義者による最小国家に対する道徳上の異議は克服される。これは不正なやり方で独占を押しつけたのではない。見えざる手過程を通して道徳的に許容しうる方法により、誰の権利をも侵すことなくまた他の者の有しない特別の権利を何ら僭称することもなしに、事実上の独占が生成するのである。 [180−181頁]

導くべき結論は、ユートピアにおいては、一種類の社会が存在し一種類の生が営まれることはないだろう、というものである。ユートピアは、複数のユートピアから、つまり、人々が異なる制度の下で異なる生を送る多数の異なった多様なコミュニティーからなっているだろう。一部の種類のコミュニティーは、ほとんどの人々にとって、他の種類のものよりも魅力的だろう。コミュニティーには盛衰があるだろう。人々はあるものから別のものへと移ったり、一つの中で一生を送ったりするだろう。ユートピアは、複数のユートピアのための枠であって、そこで人々は自由に随意的に結合して理想的コミュニティーの中で自分自身の善き生のヴィジョンを追求しそれを実現しようとするが、そこでは誰も自分のユートピアのヴィジョンを他人に押し付けることはできない、そういう場所なのである。 [505−506頁]

何らかの中央当局(または保護協会)が果たす役割(がもしあるとすれば)に関する諸問題があるだろう。この当局はどのようにして選ばれるのか、また、当局が行うと期待されていることをそしてそれだけを行う、ということをどのようにして確保するのか。私の考えでは、主要な役割は枠の機能を実行すること、たとえば、一部のコミュニティーが他のコミュニティーやその個人や資産を侵略したり征服したりするのを防止すること、であろう。さらにそれは、平和的手段で解決することのできないコミュニティー間の紛争を、何らかの理に適うやり方で裁定するだろう。そのような中央当局の最善の形態は何か、をここで検討したいとは私は思わない。それは、恒久的に固定されてはおらず細部の改善の余地が残されている、のが望ましいように思われる。 [533−534頁]

枠が設立されてから10分間でユートピアになる、などと誰が信じられるだろうか。今と何も変わらないだろう。雄弁に語るに価するのは、長い時間を経る内に多数の人々の個々の選択の中から自生的に成長してくるものについてである。(この過程のどこかの段階が、我々のすべての願望の目標となる結果状態なのではない。ユートピアの過程が、他の静的ユートピア論のユートピア的結果状態に代わるのである。)多数のコミュニティーが多数の性格を実現するだろう。この枠がたとえば150年機能した後の様々なコミュニティーのもつ性格について、その範囲と限界を予言しようと試みるのは、愚か者か預言者だけである。 [537−538頁]


2.

 静的状態ではなく、過程としてのユートピア。そのなかではあらゆる「コミュニティー」が可能で、どの「コミュニティー」で生きるかは自由な選択に委ねられている。その枠組みとしてのユートピア。流動性としてのユートピア。どこへでも行ける「条件」としてのユートピア。

 その流動性を確保し、条件を維持するために、「コミュニティー」の相互調整をする国家(「中央当局」)は「最小国家」であることが求められる。本書を読むと、アメリカにおいてなぜ州レベルでは死刑や同性婚が認められるにもかかわらず国家レベルでは国民皆保険制度でさえ強烈な反発にあうのかよくわかる。州=コミュニティーはいくらでも移動できるため、気に入らない政策が実施されるなら引っ越せばよい。しかし国家はそうはいかないのだ。流動性が担保されないところでは、権利の制限は最小限でなければならないと考えられているのである。論理はよく理解できる。

 それにしても、自生的なコミュニティの生成と秩序の形成の「プロセス」自体をユートピアととらえる一方で、そのなかでの「中央当局」の役割を考察した本書は、今後ネット社会に応用してさらに発展させることができるだろう。

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