2010年12月7日火曜日

生活(1)

1.

 生活における「時間」の取り扱いは難しい。すぐ情報が手に入る、すぐお腹が満たされる、すぐ話せる、すぐ会える、すぐ読める、すぐ書ける、すぐやり直せる。それはとても素晴らしいことに思えるし、実際素晴らしい。しかしひとつの事実に複数の意味を読む必要がある。ドイツ語では「時間をつぶす」ことを"Zeit totschlagen"というが、これは直訳すれば「時間を殴り殺す」という意味だ。生活における「時間」は、これまでまさに「殴り殺されるべきもの」として扱われてきたのかもしれない。「原因」(お腹が空いた)と「結果」(お腹いっぱい)を直結させ、両者の「あいだ」をできる限り「殴り殺し」、消去することを、ひとは技術、進歩、便利と呼んできたように思われるのである。

 しかしこれからは、「プロセス」を経てしか手に入らないものがあることを認識した上で、自分の時間をどこにどれだけ割り振るか、個々人が偏った選択・編集・カスタマイズをすることが当然になるだろう。

 いま、「時間」を貨幣のように考えてみよう。コンビニ弁当を買うとき、あるいは情報収集をテレビのニュースで済ませるとき、わたしたちは「時間」を節約できる。自分で料理したらあっという間に消えてしまったであろう1時間、その「支出」を避け、弁当で間に合わす。今日一日世界中で起きた出来事から本当に重要な情報を探したら瞬く間に過ぎたはずの2時間、その「支出」を避け、テレビで間に合わす。しかしたくさんのお金を払わなければ得られない利得があるのと同様に、どちらも「時間」を節約できたというポジティブな結果に代償が伴う。「時間」を節約したからこそ得られない利益、「時間」を節約したからこそ被る損害がある。もはや単純に「時間」の節約を讃美できる時代ではない。「時間」の節約は代償を伴う。それを自覚した上で「時間の配分」を「設計」し続ける必要がある。

 人間は日々の生活において、「時間」を貨幣として経済行動をしている。貨幣とは違って、各人が保有する「時間」の絶対量は等しく、それは有限な資源である。この条件下、個々人が自分にとっての「時間」の「最適配分」を実現しなければならない。この「時間の経済学」こそ、現代生活に必須の技芸ではなかろうか。自分(たち)にとって、たとえば食事は、情報収集は、情報発信は、どれだけ重要なものか。どれだけの時間を割り振るのか。どれだけの時間を割り振らなければ自分にとって満足できる結果が得られないのか。

 時間が有限である以上、あらゆる「プロセス」を充実させることは不可能である。したがって「時間の経済学」は「古き良き時代の復興」とは無縁だ。損得勘定を踏まえ、主観的合理性に即して決定したのであれば、コンビニ弁当を食べながら徹底的に仕事をする「偏った生活」でもいいではないか。しかしながら、そこにいたるための損得勘定、主観的合理性の算出、個人としての決定、それらを通じての「時間の設計」、それらができるような情報環境、技術、そしてエートス(行為態度)を整える必要があるのである。


2.上杉隆『ジャーナリズム崩壊』(幻冬舎新書、2008年)

われわれ新聞の仕事は、ハイジャック自体にどういった背景があるのか、それは政治的なものなのか、単に金銭目当てのものなのか、あるいは無事に解決したのか、悲惨な結果に終わったのか、そういったものをすべて見極めた上で初めて、取材をスタートするかどうか判断を下すべきなのだ。その上で、本当にニューヨーク市民や米国の読者にとって、それが有益なニュースなのかどうかよく吟味したのちに記事にするのかどうかを決める。 [NYTニコラス・クリストフ、21頁]

EUは、日本の記者クラブは情報を寡占し、非関税の貿易保護政策に当たる閉鎖的な組織だとして、毎年のように、「非難決議」を採択している。また日本外国特派員協会(FCJJ)も、30年以上前から再三にわたって相互主義に基づく、記者クラブの開放を求めて抗議を続けている。[原文改行]しかし、日本のメディアがそうした動きに反応することはなく、ほとんど無視してきた。理由は、単に既得権益を手放したくないからという官僚的な考えがあるからに過ぎない。また、公平な競争では海外や雑誌メディアに敗れることが目に見えているからだ。 [84頁]

米国のメディアで働く者は、報道機関の社員である前に、ひとりのジャーナリストであるという考え方が強い。 [115頁]

アフガニスタン・ルールとは、取材対象が新聞発行地に近ければ近いほど、取材や記事執筆に困難が伴うということをいうのである。 [197頁]

私はミスを嫌う。しかしもっと忌み嫌うべきはそうしたミスを隠そうとする誘惑に負けることだ。 [NYTハワード・フレンチ、206頁]


3.石原結實『空腹力』(PHP新書、2008年)

人間が過食に弱いのは、人類のこれまでの歴史からも明らかです。人類は300万年前に類人猿から枝分かれして、人間になったとされています。それ以降、人類の歴史は、氷河期、洪水、地震など天変地異や戦争で食糧確保に苦労してきたのです。私たち日本人が飢餓の心配から解放されたのは、つい50〜60年ほど前からといっていいくらいです。[原文改行]つまり人間は、299万9950年間は絶えず飢餓の危険にさらされていたのです。[…]人間はこのような飢餓の時代を乗り越えて生き延びてきたので、お腹のすいた状態のほうが普通でした。ですから、人体の機能は食料不足でも生きながらえる機能をたくさん備えています。[…]それだけ、人間はお腹のすいた状態には強いのです。[…]しかし、いまの日本では、まず食べられないということはありません。[…]問題は、人間が飽食に対処する機能をほとんど持ち合わせていないことです。 [19−20頁]


4.安部司『食品の裏側』(東洋経済新報社、2005年)

何も知らされていない消費者は完全に被害者かというと、繰り返しになりますが、必ずしもそうではないのです。安くて便利ならばと、なんの問題意識も持たずに食品を買う消費者の側にも責任はあるのです。消費者が少しでも「安いもの」「便利なもの」「見かけがきれいなもの」を求めるからこそ、つくり手はそれに応じるしかないという現実もあるのです。 [50頁]

AとBという2つの添加物を同時にとった場合、あるいは30種類前後の添加物を同時にとった場合、いったい人間の体にどんな影響があるのか――そんな「複合摂取」の問題は完全に盲点になっています。残念ながら、そんなデータもない。しかし実際には、これまで見てきたように、ひとつの添加物を単品でとるということはまずありません。「複合摂取」が当然のはずなのに、その「毒性」は誰も明らかにしていないのです。 [182頁]

手間をとるか、添加物をとるか――それを心に留めておいてほしいのです。 [197頁]


5.安部司『なにを食べたらいいの?』(新潮社、2009年)

添加物の入った食品は、手軽に手に入れることができます。[原文改行]24時間、いつでも買えます。[…]自分で作れば一時間はかかる弁当がいつでも買える。[…]自分で作ったおかずはすぐ腐るのに、売っているものは日持ちする。[…]これらの利便性を陰で支えているのが多くの添加物なのです。 [131頁]

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