2010年12月23日木曜日

時間哲学(4)

1.ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』(岩波文庫)

1 世界は成立していることがらの総体である。
1.1 世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。

1.13 論理空間の中にある諸事実、それが世界である。

2.04 成立している事態の総体が世界である。
2.05 成立している事態の総体はまた、どの事態が成立していないかをも規定する。
2.06 諸事態の成立・不成立が現実である。

2.063 現実の全体が世界である。

2.1 われわれは事実の像を作る。
2.11 像は、論理空間において、状況を、すなわち諸事態の成立・不成立を表す。

2.181 その写像形式が論理的であるとき、その像は論理像と呼ばれる。
2.182 すべての像は論理像でもある。(それに対して、たとえば、すべての像が空間的な像であるわけではない。)
2.19 世界を写しとることができるのは、論理像である。

3 事実の論理像が思考である。
3.001 「ある事態が思考可能である」とは、われわれがその事態の像を作りうるということにほかならない。
3.01 真なる思考の総体が世界の像である。
3.02 思考は、思考される状況が可能であることを含んでいる。思考しうることはまた可能なことでもある。
3.03 非論理的なものなど、考えることはできない。なぜなら、それができると言うのであれば、そのときわれわれは非論理的に思考しなければならなくなるからである。
3.031 かつてひとはこう言った。神はすべてを創造しうる。ただ論理法則に反することを除いては、と。――つまり、「非論理的」な世界について、それがどのようであるかなど、われわれには語りえないのである。

4.003 哲学的なことがらについて書かれてきた命題や問いのほとんどは、誤っているのではなく、ナンセンスなのである。それゆえ、この種の問いに答えを与えることなどおよそ不可能であり、われわれはただそれがナンセンスであると確かめることしかできない。哲学者たちの発するほとんどの問いと命題は、われわれが自分の言語の論理を理解していないことに基づいている。

4.12 哲学の目的は思考の論理的明晰化である。哲学は学説ではなく、活動である。哲学の仕事の本質は解明することにある。哲学の成果は「哲学的命題」ではない。諸命題の明確化である。思考は、そのままではいわば不透明でぼやけている。哲学はそれを明晰にし、限界をはっきりさせねばならない。

5.6 私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。
5.61 論理は世界を満たす。世界の限界は論理の限界である。

5.63 私は私の世界である。(ミクロコスモス。)
5.631 思考し表象する主体は存在しない。「私が見出した世界」という本を私が書くとすれば、そこでは私の身体についても報告が為され、また、どの部分が私の医師に従いどの部分が従わないか等が語られねばならないだろう。これはすなわち主体を孤立させる方法、というよりむしろある重要な意味において主体が存在しないことを示す方法である。つまり、この本の中で論じることのできない唯一のもの、それが主体なのである。
5.632 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。

6.13 論理学は学説ではなく、世界の鏡像である。論理は超越論的である。

6.375 論理的必然性のみが存在するように、ただ論理的不可能性のみが存在する。
6.3751 たとえば二つの色が同時に視野の同じ場所を占めることは不可能であるが、それは実際、色の論理的構造によって排除されており、それゆえ論理的に不可能である。

6.52 たとえ可能な科学の問いがすべて答えられたとしても、生の問題は依然としてまったく手つかずのまま残されるだろう。これがわれわれの直感である。もちろん、そのときもはや問われるべき何も残されてはいない。そしてまさにそれが答えなのである。
6.521 生の問題の解決を、ひとは問題の消滅によって気づく。
6.522 だがもちろん言い表わしえぬものは存在する。それは示される。それは神秘である。
6.53 語りうること以外は何も語らぬこと。自然科学の命題以外は――それゆえ哲学とは関係のないこと以外は――何も語らぬこと。そして誰か形而上学的なことを語ろうとするひとがいれば、そのたびに、あなたはその命題のこれこれの記号にいかなる意味も与えていないと指摘する。これが、本来の正しい哲学の方法にほかならない。この方法はそのひとを満足させないだろう。――しかし、これこそが、唯一厳格に正しい方法なのである。


2.

 言語/論理と時間、言語/論理と知覚の関係を考えなければいけない。言語は常に時間の「依り代」であったはず。次々に音を発する、あるいは文字を連ねる行為として、言葉の単線性が時間の表象と時間の知覚に大きく関わっているのは確実だ。

 言語が混乱すると時間が混乱する。言語の経験としての時間。

0 件のコメント:

コメントを投稿