2010年12月24日金曜日

時間科学(4)

1.

 アリストテレスにおいて時間は「数」である。したがって均質あるいは等質といったことさえ問題にならない。むしろ「質」などないのである。「数」に「質」はないのだから。

 時間は質をもたない。だから時間自体が速い遅いということは言えないし、濃い薄いということも言えない。時間を経験することはできない。数を経験することができないのと同じように。

 この時間理解は、天球の運動から導き出されている。ニュートンやライプニッツにおいて時間の理解が宗教と結びついていたように、アリストテレスは時間を『自然学』の中で論じ、「自然」と結びつけている。

 時間はそれ自体で知覚可能な存在ではない。したがって時間の知覚あるいは理解は常に何かしらの「依り代」を必要とする。天体、四季、潮の満ち引き、あるいは神のように。現代における時間の「依り代」とはなにか? 時間の在り方に最大の影響を与えているものはなにか? なにがわたしたちの時間を司っているのか? インターネットだ。インターネットが時間理解のモデルになるのはその意味で当然なのである。


2.アリストテレス『自然学』(前345年頃、岩波書店)

時間をわれわれが認知するのは、ただわれわれが運動を、その前と後で限定しながら、限定するときにである。そしてまた、われわれが「時がたった」と言うのは、われわれが運動における前と後の知覚をもつときにである。ところで、われわれが前と後を識別するのは、それをお互いに他のものであると判断し、それらの中間にそれらとは異なる或るものがあると判断することによってである。すなわち、われわれがこれら両端の項を中間項とは異なるものどもであると思惟し、「今」が前の今と後の今との二つであるとわれわれの霊魂が語るとき、そのときにまた、われわれは、これが時間であると言うのである。[…]前と後を知覚する場合には、われわれはそこに時間があると言う。というのは、時間とはまさにこれ、すなわち、前と後に関しての運動の数であるから。[原文改行]だから、時間は、ただの運動なのではなくて、数をもつものとしてのかぎりにおける運動なのである。[…]われわれは、ものの多い少ないを判断するのに数をもってするが、運動の多い少ないは時間で判別している、だから、時間は或る種の数である。 [170頁]

時間は速いあるいは遅いとは言われないもので、多いあるいは少ない、または長いあるいは短いと言われるものであるということも、明白である。すなわち、時間は、連続的なものとしては、長くあるいは短くあり、数としては、多くあるいは少なくある。だが、時間が速くありあるいは遅くあるということはない、というのは、それは、われわれがものを数えるのに使う数に速い遅いがないのと同様だからである。 [174頁]

変化は、また成長増大や生成も、均等的ではないが、この移動は規則的である。それゆえにまた、時間はすなわち天球の運動である、とも思われるのである。そのわけは、この天球の運動でその他の種類の運動が測られ、また時間もこの運動で測られているからである。またこのゆえに、つぎのような慣習的な言い方も生じてくるのである、すなわち、人間的な諸事象は円環をなしており、またその他の自然的な運動や生成消滅をもつ諸事象にも円環がある、と人は言う。それは、これらすべての事象が、時間によって判定され、そしてその終りと始めとが、あたかもある周期的循環路における終りと始めとのように解されているからである。そしてまた、人のこう言うのも、時間それ自らが或る種の円環であると考えられるからである。そして、このように考えられるのは、さらにまた、時間がこのような移動(天球の円環的運行)の尺度であるとともに、この時間それ自らがこのような移動によって測られるがゆえにである。したがって、「生成する諸事象は円環をなしている」と人の言うのは、「時間に或る円環がある」と言うのに等しい。そしてこのことは、時間が円環的運行によって測られるということである。 [188頁]

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