ハインリヒ・フォン・クライスト「人形劇について」(1)
1801年の冬をM市で過ごしていたときのこと、わたしはある晩ある公共の庭園でC氏に出会った。最近オペラ座の主席舞踊家に迎えられ、観客のもと尋常でない幸福を築いた人物である。
わたしは彼に言った、「あなたをもう何度もあやつり人形劇場で見て驚いていました。」劇場は広場に仮設され、歌や踊りを織り交ぜた他愛無い道化芝居で下層民を楽しませていた。
彼は断言した、「人形たちの身振りはとても楽しませてくれます。そしてはっきり気付かせてくれます、自己形成を望む舞踊家は、人形から学べることがいくつもあると。」
彼の言い方から、この発言は単なる思い付きでないと思われたので、わたしはそばに腰をおろし、何を根拠にそんな奇妙な主張ができるのか、詳細に聞き取ることにした。
彼はわたしに尋ねた、「実際あなたは、人形たち、特に小さな人形たちが踊るときのいくつかの運動をとても優雅だと思ったことはありませんか。」この事情は否認できなかった。速い拍子に合わせてロンドを踊る四人の農夫の一団など、テニールスでもあれほど魅力的に描くことはできなかっただろう。
わたしは人形のメカニズムについて尋ねた、「無数のあやつり糸を指につけもせず、どうして手足のひとつひとつや関節を、運動あるいは舞踊のリズムの要求どおりに統治することができるのでしょう?」
彼は答えた、「舞踊の様々な時点に合わせて、機械操作員が手足のそれぞれを個別に止めたり引いたりしていると想像する必要はありません。」
「運動はどれも」と彼は言った、「ひとつの重心をもちます。人形の内部にあるこの重心を統治することができれば、それで十分です。手足は振り子にすぎません。それ以上なにを付け加えなくとも、機械的に、おのずから、つき従って動きます。」
<メモ>
・「聞き取る」=vernehmen=尋問する、審問する、聴取する → Vernunft=理性
・「事情」=Umstand=情状
・理性が「尋問(審問)する能力」を意味するなら、理性(認識)の批判は裁判に関係した形態をとるとき真に批判的でありうるのかもしれない。「人形劇について」は一種の「尋問劇」「裁判劇」なのか。
・人形「たち」が踊る → はじめから個人でなく集合が問題になっている。
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