2010年12月2日木曜日

時間哲学(1)

1.イマヌエル・カント『純粋理性批判』(1781年、1巻、光文社古典新訳文庫)

時間は内的な感覚能力の形式にほかならないのであり、わたしたちは時間という形式において自己自身と、自己の内的な状態を直観するのである。なぜなら時間は外的な現象のいかなる規定でもありえないからである。時間は[事物の]形態にも、位置などにも属するものではない。そうではなく時間は、さまざまな像がわたしたちの内的な状態において、たがいにどのような関係にあるかを規定するのである。この内的な直観そのものは、どのような形態も作りださないため、この欠陥を補うためにわたしたちは、アナロジーに頼ることになる。そして時間の継起を無限に続く一本の直線のアナロジーで考えようとするのである。 [102頁]

時間はすべての現象一般にそなわるアプリオリな形式的な条件である。空間もまたすべての外的な[事物のための]直観の純粋な形式であるが、[時間とは違って、人間の]外部の現象だけにそなわるアプリオリな条件であるという制限がある。ところで人間が心で思い描く像はすべて、それが外部の物を対象とするかどうかを問わず、すべて人間の心の規定であるために、心の内的な状態に属する。しかし[すでに述べたように]この心の内的な状態というものは、内的な直観の形式的な条件にしたがうものであり、そのため時間[という条件]にしたがうのである。こうして、時間はすべての現象一般にそなわるアプリオリな形式的条件である[と結論することができる]。さらに時間は、(わたしたちの魂の)内的な現象の直接的な条件であり、そのことによって、外的な現象の間接的な条件でもある。 [103-104頁]

わたしがアプリオリに、すべての外的な現象は空間のうちにあり、空間の諸関係によってアプリオリに規定されていると語ることができるならば、同じように内的な感覚能力の原理にしたがって一般的に、すべての現象一般、すなわち感覚能力のすべての対象は時間のうちにあり、必然的に時間との関係のうちにあると語ることができるのである。 [105頁]

わたしたちのすべての直観は、現象についてわたしたちが心に描いた像にほかならない。わたしたちが直観する事物は[現象であって]、わたしたちがそのように直観している事物そのものではない。わたしたちが直観する事物のあいだの関係は、わたしたちにはそのようなものとして現れるとしても、[事物において存在している]関係そのものではない。[…]対象そのものがどのようなものであるか、またそれがわたしたちの感性のこれらのすべての受容性と切り離された場合にどのような状態でありうるかについては、わたしたちはまったく知るところがない。わたしたちが知っているのは、わたしたちにそなわった対象を知覚する方法だけであり、これはわたしたち人間に固有のものである。 [117-118頁]

空間と時間は、わたしたちが[対象を]知覚するためのこうした方法の純粋な〈形式〉であり、感覚一般がその〈素材〉である。わたしたちは空間と時間だけはアプリオリに、すなわちすべての現実の知覚に先立って認識することができるのであり、そのために空間と時間は純粋な直観と呼ばれる。しかし感覚一般はわたしたちの認識のうちに存在するものであり、アポステリオリな認識、すなわち経験的な直観と呼ばれるものを作りだす。 [119頁]


2.

 空間は人間の外部、時間は人間の内部において、現象の形式的な条件である。事物のイメージを抱き、現象を把握するために必要なアプリオリな形式が、空間と時間である。人間にはこうした形式を通じての経験しか可能でないため、「物自体」は認識不可能であるとされる。

 時間が「自己自身と自己の内的な状態」を直観する形式であるというのが興味深い。時間と自己、時間と意識の関係。「自己」を直観するためには時間という形式が不可欠であるということ。木村敏『時間と自己』と『自己・あいだ・時間』を読みたい。

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