2010年12月8日水曜日

社会理論(2)

1.

 もはや私的な領域と公的な領域は対立しない。両者は互いを排除しない。むしろパブリックであることとプライベートであることは同時に達成される。私的領域の公共性、政治性は高まってきているし、今後も高まり続けるだろう。

 その際、個人が私的領域において「一貫した政治性」を示す必要は全くない。是々非々で、一つ一つのトピックに対して個人的な嗜好をもとに判断するしかないし、それでいい。ただし、それが単に私的判断であるのみならず、公的・政治的判断でもあり、いつかその責任を負わされるかもしれない、という前提の上で。問題Aに関しては右寄りで問題Bに関しては左寄りの人間がいても何もおかしなことはない。

 私的領域の特性は、それが「近い」ことだ。そこで政治は、今や「大小」を問うことから「遠近」を問うことへとシフトすべきだろう。大きい政府か小さい政府かといった議論はもはや無意味だ。政府は個々の課題に応じて同時に大きくも小さくもならねばならないのだから。それよりもむしろ、「遠い政治」か「近い政治」かを問題にした方がいい。

 「近い政治」とは、私的領域との関わりを明確にすることによって、個々人の「自己組織化」を促進する政治だ。政治家と官僚が全てを決定し、それから国民に「下賜」するモデルはもはや限界である。官僚は全能ではないし、政治家の権威も揺らいでいる。むしろ国家は、国民のあいだで「自己組織化」が進むような「場」をつくることに注力すべきではないか。「観客」と「観客席」を適切に組織し、「観客」たちが自らの問題として解決策を探る=自己組織化を深めるよう、デザインを試みることが重要なのだ。

 しかもその際、ゼロからデザインする必要はない。すでに社会のなか、個々人の生活(私的領域)のなかで浮上してきている問題をベースに「自己組織化」の促進を図った方がよい。個々人の利害に満ちた私的領域を政治の場とすること。求められるのは、機動力、適切な情報の提供、合理的な決定方式の提案、政策への迅速な反映などだろう。


2.ウルリッヒ・ベック「政治の再創造」(1994年、『再帰的近代化』、而立書房)

集合的な、集団に固有な意味供給源(たとえば、階級意識や進歩にたいする信仰)は枯渇し、解体し、魔力を失いはじめている。これらの意味供給源は、20世紀に至るまで西側の民主制と経済社会を支えてきたが、そうした意味供給源の喪失は、結果的にすべての意思決定作業を個人に委ねるようになる。このことがまた、「個人化過程」という概念の意味している問題である。 [20頁]

「不確実性の、社会への再来」とは、何よりまず社会的対立を、もはや体制の問題ではなく、ますますリスクの問題として見なしていかなければならないことを意味している。[…]リスク問題に見いだす両義性は、リスク問題と体制問題とを区別していく。なぜなら、体制問題は、当然のことながら一義性と決定可能性を志向しているからである。一義性が次第に失われていくなかで――また、そのことはますます強まる傾向にあるが―—社会の科学技術的操作可能性にたいする信仰は、ほぼ必然的に姿を消していくのである。 [22−23頁]

政治的対立や利害関心の個人化は、政治的権利の放棄や「世論調査民主主義」、政治にたいする倦怠を意味するのではない。しかし、政治の古典的対立項を混ぜ合わせたような、矛盾にみちた、多様な政治参加が生じているのである。したがって、論理的に考えれば、誰もが、右派でもあり同時に左派でもある、急進派でもあり同時に保守派でもある、エコロジストでもあり同時に反エコロジストでもある、政治的でもあり同時に非政治的でもあるような、そうしたかたちで思考し、行動していくのである。誰もが、その人の自己の構成要素の一部として、悲観論者であり、消極論者であり、理想主義者であり、積極的行動主義者なのである。とはいえ、このことは、今日の政治の透明性――右派と左派、保守主義と社会主義、政治離れと政治参加――というとらえ方が、もはや正しくないし、有効性をもたなくなっていることを意味しているに過ぎないのである。 [43−44頁]

再帰的近代化とはまた、みずからが用いる秩序カテゴリーを撤廃しだしているモダニティのなかで、両義性の歴史的《所与性》を正当に評価できるような、そうした「合理性の刷新」を、本質的に意味している。 [65頁]

今日の政治の核心は、自己組織性の能力にある……そのとっかかりは、教育問題とか、家賃、交通規則といった、もっと日常的なことがらにある……いまでは、可能性のあるすべてのグループが、つまりあらゆる種類の少数派集団が、国家に対立しています。この意味での「市民運動」は、労働組合や教会やマスコミのような古い組織だけではない。スポーツ選手たちもまた高度に組織化されている。それに同性愛者、武器商人、ドライヴァー、障害者、子をもつ親、脱税者、離婚者、自然保護派、テロリストなどなど……かれらはこの社会のなかで無数の権力機関をつくり出すことができるのです。[…]かつてのヨーロッパでは、人びとは[…]共同体を、いつも人体をモデルに描き出してきた。政府は首脳、つまり頭だった。この比喩はあくまでも過去のものです。すべてを予見し、操作し、決定する中枢は、もはや存在しない。社会の頭脳をひとつの地域に限定することは、もうできないのです。 [エンツェンスベルガー、75頁]

単純的モダニティにおける政治概念は、ある中心軸のシステムにもとづいており、その中心軸の座標のひとつが、左派と右派、公的なものと私的なものとの二つの極の間を貫いている。この場合、政治的になるということは、私的領域を離れて公的領域の方向に進むこと、逆に言えば、政党なり政党政治、行政府の要求が私生活の隅々にまで拡散していくことを意味している。かりに市民が政治に向かわなければ、政治が市民のところにやってくるのである。[…]ギデンズの場合、政治的なものが、私的領域を介して達成されたり、私的生活領域の推移のなかに、いわば裏を回るかたちで侵入していく[…]政治的なものの考えうる最小の単位である私生活が、世界社会を包含していく。政治的なものは、私生活の中心部にぬくぬくと身を落ち着け、われわれをうるさく苦しめているのである。 [86−87頁]


3.アンソニー・ギデンズ「ポスト伝統社会に生きること」(1994年、『再帰的近代化』、而立書房)

過去は、保存されるのではなく、現在という基盤をもとに再構成されていく、と言うのである。こうした過去の再構成は、一面では個人的なことがらであるが、基本的には《社会的》ないし集合的なことがらである。[…]したがって、記憶とは、能動的な社会過程であり、その過程をたんに覚えたことがらの想起と同一視することはできない。われわれは、過去の出来事なり状態についての記憶を絶えず再生産しており、したがって、こうした繰り返しは経験に連続性を与えていく。[…]それゆえ、伝統とは、《集合的記憶を組成する媒体》であると言うこともできよう。 [120頁]

ポスト伝統の状況では、われわれは、どのように生き、どのように振る舞うのかを自分で決める以外他に選択の余地がない。こうした視点からみれば、嗜癖でさえもひとつの選択である。つまり、嗜癖とは、毎日の生活のほとんどすべての側面が適切なかたちで見ていった場合に提供する数多くの可能性と、折り合いをつけるための方式である。 [141頁]

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