2011年3月3日木曜日

クライストのコロス

 仕事のためにレーマンのハイナー・ミュラー論「モノローグとコロスのあいだで ハイナー・ミュラーのドラマトゥルギー」を読み進め、次のクライスト論でも「コロス」は重要なポイントになるなとヒントを得た。

 クライストの作中に出てくるコロスもしくは民衆は、アリストテレスやシラーやシュレーゲルの定義するコロスとはだいぶ違う。クライストのデビュー作『シュロッフェンシュタイン一族』はコロスの場面から始まるが、それは少年少女からなるコロスで、しかも呪詛の言葉で復讐を誓う。戯曲の冒頭から少年たちが「復讐だ! 復讐だ! 復讐だ!」とか言う。これはいわゆる「客観的審級」とも「理想的観客」ともだいぶ違う。

 それにしてもコロスに関する日本語の研究書がないことに驚いた。日本のギリシア劇研究がどうなっているのか全然知らないが、大丈夫なのだろうか。他方、ドイツ語に関しては、ここ何十年かの演劇がテクストにおいても上演においてもコロスを重視してきたためだと思われるが、いくつかあるようだ。『アイナー・シュレーフのコロス演劇』とか。

 コロスに関する基礎的な知識さえあやういので判断がつかないのだが、わたしがすでに知っている演劇理論でコロスに関してもっとも興味深いのは、ベンヤミンの『ドイツ悲劇の根源』における以下の部分だ。

古典古代の訴訟――とりわけ刑事訴訟――は、原告と被告という二つの役割だけに立脚し、裁判官による審理手続きを欠いていたがゆえに、対話である。古典古代の訴訟は合唱隊をもっていて、これは、一部は誓言保証人のなかに[…]、また一部は裁判に対して慈悲を嘆願する被告の盟友たちの一団のなかに、そして最後の一部は、裁きを下す人民集会のなかにあった。[…]ギリシア悲劇は、訴訟手続きのこのイメージのなかに入ってくる。ギリシア悲劇においても、ひとつの調停審理が行われるのである。[…]劇作家の意識において神話が審理なのだとするなら、彼の作品は、その審理の写しであると同時に再審でもある。そして、この訴訟全体が、円形劇場の広がりの分だけ膨らんだ、この再審には、共同体が監督機関として、いやそれどころか、裁きを司る機関として臨席する。共同体の側では、和解について裁定しようとし、この和解の説明のなかで劇作家は、英雄たちの事蹟の記憶を更新するのである。だが、ギリシア悲劇の結末にはつねに、<証拠不十分>という響きがまじっている。[…]悲劇のまえかあとに演じられるサテュロス劇は、上演された訴訟のこの<証拠不十分>の結末に対する準備もしくは応答をなしうるのはただ喜劇による感情の高揚だけである、ということの典型的な現われなのだ。 [ちくま学芸文庫、上巻248-250頁]

クライストが取り組んだのはまさに「裁判としての演劇」だった。その中でのコロスの役割については、一つの定義を見つけようとするよりも、ベンヤミンに倣って複数の「あらわれ方」を記録しながら考えたほうがいいのかもしれない。実際、コロスを構成するひとびとも様々だし、発言や行動の内容も場合によって違うから、無理矢理まとめようとするとクライストを貧しくしてしまいそうだ。

 演劇、裁判、声、民衆、秩序の動揺と再構築。このあたりが論文では問題になるのだが、どこからどう取り組んだらいいのか、まださっぱりわからない。しかしクライストがわたしにとってfood for thoughtの塊であることはたしかだ。実際のところ、民衆の声が法的秩序を揺るがすことを、わたしたちはどう考えたらいいのだろう?

1 件のコメント:

  1.  自分で書いてから気付いたけど、「秩序を脅かすコロス」って演劇史上にどれだけ存在するのだろうか? ハイナー・ミュラーやアイナー・シュレーフはそういうものに取り組んだけど、20世紀以前だとどうだろう? 

     クライストに関しては、演劇史の参照よりもフランス革命をどう考えるかという問題であることはたしかだ。そういう意味ではクライストが描いたのはコロスではなく「群衆」だという議論になるのかもしれないが、「群衆」を扱うことのできない演劇および演劇理論などもはや無意味なので、「演劇学」の範囲に留まる必要はない。

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