2011年3月30日水曜日

3/30 リズムについて考える

 友人たちと運営している「くそ勉強」というブログで、一昨日から「リズムのつくり方」について議論を始めた。このテーマを設定し、問題提起したのはぼく自身。

 今日、少し補足を付け加えた際に、この問題はこれまで自分が論じてきた別のことともつながることに気付いた。それは「時間」という問題系である。少し長いが、まずは今日書いた文章を全文引用する。

 わたしは特に宗教的な生活を送っていないし、いかなる宗教についてもきちんと勉強したことがないのですが、リズムを崩すといつも、宗教に従って生活しているひとのことを考えます。

 たとえば、ストレスやら何やらで暴飲暴食してしまったあと。わたしは、後悔しつつ、「もし『暴飲暴食すべからず』みたいな戒律に従って生きていたら、こんな無駄なことしなくて済んだのかな」と思います。以前、ユダヤ教の「十分の一税」のことを本で読みました。彼らは全財産の十分の一を喜捨しなければならないそうです。そしてどんなに金銭的に苦しんでいても、「今回はこっそりなしにしちゃう」とか「半年延ばしてもらう」ということをしないらしい。その理由に驚きました。「自分の財産の十分の一は、もともと神様のものなのだ。だから、もし納めなければ、自分は神様から泥棒をしたことになる」というロジックなのだそうです。

 「リズム」と深い関係をもっているのは、「わたし」の量ではないでしょうか。あらゆることをその都度「わたし」が決定すると、リズムはなかなか安定しません。「わたし」の状態は不安定で、場当たりの対応をしてしまうからです。たとえば、ユダヤ教の「十分の一税」と同じように、「毎月給料の十分の一を貯金しよう」と「わたし」だけで決めても、月末にお金が足りなくなったら、「今月だけは例外」といってやっぱり使ってしまうでしょう。同じ行為でも「わたし」の量が多いときにはリズムになりづらい。あるいは、お腹が空いているときにはたくさん食べ、空かないときには食べない、その判断は常に「わたし」がする、という生活はなかなかリズムを生まない。他方で、毎日7時・12時・19時に必ずお茶碗2杯食べなければいけないと決まっていたら、それはリズムを生むでしょう。

 宗教は、生活のリズムを部分的に「わたし」から切り離し、誰か・何かに移譲することではないでしょうか。あるいは農業者と比較してもいいかもしれません。一日中いつしてもよいオフィスワークと違って、朝にしかできないこと、午後にしかできないことがある農業者の生活は、仕事のリズムづくりが、「わたし」から自然へと移譲されていると捉えることができるでしょう。

 要するにシステムです。システムがリズムを生む。しかし「わたし」にしか通用しないシステムというのは非常に脆弱で(よく言えばあまりに柔軟で)、「わたし」だけでは強固なシステムをつくることが難しい。ここにポイントがあるのではないでしょうか。宗教に関してわたしが感心するのは、それが「考えなくていいことを考えない」ためのシステムであると思えることです。「生活の知恵」みたいなものを体系化して、「それはもう答えあるんだ。こうすればいい。考える必要ない。リズムにしてしまえ。ほかにもっと大事なことがあるから、思考と行動はそっちに集中させろ」と言ってるように思えるのです。

 この議論の流れからいうと、可能性としては、1)システムの構築を工夫する。特に「わたし」の減らし方、という観点から。2)上記の議論はそもそも間違っている。問題はシステムではない。という二つが見えてくると思います。どちらにしてもわたしにはまだ名案は浮かんでませんが…。

 具体的な「リズムのつくり方」を書くつもりだったのに、ふたたび理論的な話になってしまいました。これに反応をもらえても嬉しいし、引き続き太田くんのように具体例を挙げるのもいいと思います。わたしもあとでもっと具体的なことも書きます。


 「わたし」の量を減らすことが必要なのではないか、というのがこの発言の核だ。ところで、わたしは以前このブログで、「時間の複数化」なるものについて文章を書いた。その冒頭は以下の通りである。

 現代生活の課題は、「時間」を複数化することである。それは「わたし」を複数化することでもある。

 もしも「わたし」が一人なら、その一人において全てが始まり、全てが終わる。成功は「わたし」の完全な勝利であり、失敗は「わたし」の全身を痛めつけるだろう。

 それは単純にリスクが高い。可能なら一人の「わたし」に全てを賭けてよいだろう。しかしそれができるかできないか、それを望むか否かを自覚的に選択するプロセスはあってよい。

 仕事、家族、友人、趣味など、「戦線」を複数化することが「わたし」を複数化することである。「戦線」を分散したうえで、一部で受けたダメージをほかで補填し、一部で得た成功をほかに伝播させる。他方、重複させない部分は決して重複させない。

「わたし」のこの複数化が、「時間」を複数化することでもある。「時間」の分割と言ってもよい。一つの大きな「時間」を生きているという前提を停止させ、仕事の時間、家族の時間、趣味の時間など、複数の小さな「時間」を渡り歩く。

 数が多く、種類が豊富で、質が多様なことを楽しむのが20世紀の消費文化だった。必要充分な数と種類を、できるだけ良い質で楽しむのが21世紀の消費文化だろう。いずれにせよ、いまだに一つの、単一の、均質な「わたし」の「時間」を生きなければならない理由は何もない。豊かな消費生活を楽しむように「わたし」とその「時間」に手を入れて楽しめばよいのだ。


 引用した二つの文章は、両方とも、「たったひとりの巨大なわたし」をどうするか、ということを問題にしている。「たったひとりの巨大なわたし」に手を入れることがどうしても必要だと思うのだ。「わたし」を複数化するという二つ目の引用の問題提起は、「わたし」の量を減らすという一つ目のそれと矛盾しないかもしれない。矛盾しないどころか、ひとつのものをちがう角度から説明しているだけなのかもしれない。それは宗教にも自然にも寄り添って生活できない者にとっての、ひとつのチャンスなのだろうか。「時間の複数化」。その複数化された時間たちを軽やかに渡っていくことを、「リズム」と呼ぶことはできるだろうか。

 かっこつけただけの文章でたいへん申し訳ない。まだ中身を詰めておらず、ただの思いつきで二つを並べただけなので、どうしても予感的な言い方になってしまう。「くそ勉強」ブログの議論は日曜まで続くので、これからもっとはっきりさせたいと思っている。

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