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2011年3月19日土曜日

翻訳「チリの地震」

 今回の地震に関連してのことだと思う。数日前から、このブログに掲載してあったクライストの小説「チリの地震」の拙訳にアクセスが増えてきた。

 わたしとしては、「今こそクライストの『チリの地震』を読むべき」とは特に思っていない。「チリの地震」については翻訳もしたし論文も書いたが、今回の地震でこの作品を思い出すことは、なぜかなかった。むしろ先日翻訳したエッセイ「考えることについて」や「語るにつれて思考が完成していくことについて」のことが気になったし、よくわかるようになってきた。

 ただ、それはそれとして、翻訳を読んでいただけるのはとてもありがたいことなので、2010年12月につくった改訳版を読みやすいかたちで置いておきたいと思う。以下、全訳です。

ーーーーー

ハインリヒ・フォン・クライスト「チリの地震」

1.

 チリ王国の首都サンティアゴ、1647年に大きく大地が揺れたその瞬間、幾千人が地に落ちたなか、ある犯罪の被告人、若いスペイン人ヘロニモ・ルヘラは、牢獄の柱のそばに立ち、収監されていたが、首を吊ろうとしていた。町有数の富裕な貴族ドン・エンリコ・アステロンは、1年ほど前、彼を家から、家庭教師に雇っていたが、遠ざけた。一人娘のドニャ・ホセフェと心の合意を結んだからである。あるとき秘密の逢引の約束が、この年老いたドンに、娘に厳しく警告したあとにもかかわらず、高慢な息子の陰険な注意深さから密告され、彼は怒り、娘を山中のカルメル派修道院に入れた。

 幸運な偶然でヘロニモは、ここでも交わりを結ぶことができ、ひとけのないある夜、修道院の庭を彼の全身を満たす幸福の舞台とした。聖体祭の日、修道女とあとに従う修練女の厳かな行列がはじまると、不幸なホセフェは、鐘が響くなか、教会の階段で陣痛に倒れた。

 この事件でひとびとの目は異常なほど上向いた。罪深い女は状態もかまわず投獄され、出産が済むやいなや、大司教の命令で厳しい裁判が開かれた。町では憤然とこのスキャンダルが語られ、舌鋒は事件が起こった修道院に向けられたため、アステロン家の嘆願も、院長自身の願いでさえも、普段は非難の余地ない態度の娘を好んでいたが、迫り来る修道院の厳格な法をやわらげることができなかった。起こりえたすべては、一旦宣告された火刑が副王の権力の一声で斬首刑に変えられただけだったが、この変更にサンティアゴの婦人と乙女は激怒した。

 引き回しの行列が通る道では賃料をとって窓が貸し出され、家々の屋根は取り払われ、町の敬虔な娘たちは神の復讐に捧げられたこの演劇を仲良しと鑑賞しようと友人たちを招待した。

 ヘロニモはこの間同様に収監され、意識を失いそうになったのは、事態が恐ろしく向きを変えたのを知ったときである。救出策を練っても無駄だった。どんなに大胆に思考の翼を広げても、つねに閂と壁にぶつかり、鉄格子を切ろうとしたが発見され、さらに狭い房へ閉じ込められた。彼は聖母マリアの肖像画の前にひざまずき、無限の情熱で祈った。今なお救いを求めうる、唯一の相手と思って。

 しかし恐れていた日になり、胸中、彼は自身の状況に少しの希望もないことを確信した。鐘が刑場へ向かうホセフェに連れ添って鳴り響き、絶望が彼の魂を支配した。彼には人生が厭わしく思われ、偶然が残してくれた一本の縄でみずからに死を与えようと決心した。まさに彼が、すでに述べたように、壁面の柱のそばに立ち、蛇腹に嵌め込まれたかすがいに、嘆かわしい世界から連れ去ってくれるはずの縄を固定したそのときだった。突然町の大部分が、空が落ちたような轟音とともに沈み、生を呼吸していたすべてのものが瓦礫に埋まった。ヘロニモ・ルヘラは恐怖にからだが固まった。そして意識が潰れたかのように、今度は柱にしがみついた。そこで死のうとしていた柱に、倒れないように。大地が足下で揺れた。牢獄の壁がすべて裂けた。建物が傾き通りの方へ倒れた。そのゆっくりとした落下に、向かいの建物の落下が出会い、偶然のアーチができたため、完全に地面に叩きつけられはしなかった。震え、髪を逆立て、ひざを震わせ、ヘロニモは斜めになった床を滑り下り、開口部へ向かった。二つの建物の衝突で牢獄の前壁が裂けたのである。

 外に出るやいなや、すでに一度揺れを受けていたこの通りは、大地の二度目の振動で完全に崩れ落ちた。みなが共有するこの破滅からいかにわが身を救うか意識もせず、彼は瓦礫と残骸を越えて急ぎ、その間にも死が全方位から攻撃を仕掛けてきたが、一番近い市門の一つへ向かった。ここでは家が崩れ、瓦礫を撒き散らして彼を狩り立て脇道へ追い込み、ここでは建物から炎が噴き出し、煙の中で光り彼を恐怖させまた別の道へ連れ込み、ここではマポチョ川が溢れて水が押し寄せ、うなりを上げて彼を第三の道へ引きずり込んだ。ここでは死者が山のように積み重なり、ここでは瓦礫の下で声がうめき、ここでは燃える家からひとびとが叫び、ここでは人間と動物が波と戦い、ここでは勇敢な男が懸命に救助し、ここでは死のように蒼ざめた別の男が立ちつくし、言葉もなく、震える両手を天に向かって伸ばしていた。ヘロニモは門に辿り着き、門を出た先の丘に登ると、その上で気絶し、沈んだ。

 十五分ほど極めて深く意識をなくしていたかもしれない。彼はようやく目を覚ますと、町に背を向けたまま地面に上半身を起こした。額や胸に触れてみても、なにがどうなっているのかわからなかったが、海からの西風が次第に戻ってくる生に吹き寄せ、目がサンティアゴの花盛りの地方を見渡すと、言いようのない恍惚感に襲われた。心乱したひとびとのかたまりがいたるところに見られたが、それだけが彼の心を締め付けた。何が自分と彼らをここへ導いたのか、彼にはわからなかった。ようやく振り返り、背後に広がる町が沈んでいるのを目にしてはじめて、彼はみずからの体験した恐ろしい瞬間を思い出した。彼は額が地面に触れるほど深く沈み込み、奇跡的に救ってくれたことを神に感謝した。そしてただ一つの恐ろしい印象が心に刻み込まれ、それ以前のすべての印象を追い払ったかのように、彼は嬉しくて泣いた、自分は多彩な出来事に溢れたこの愛しい人生をこれからも楽しむことができるのだ、と思って。

 そのあと、手にはめた指輪を目にすると、彼は突然ホセフェのことも思い出した。それとともに牢獄も、そこで聴いた鐘の音も、崩壊直前の瞬間も思い出した。深い憂いがふたたび胸を満たした。彼は祈りを捧げたことを後悔しはじめ、雲の上で支配する存在が恐ろしく思われた。彼は民衆の中へ混じって行った。ひとびとはいたるところ、所有物を救出しながら市門から飛び出していて、彼はおそるおそるアステロン家の娘のことを、その死刑執行がなされたかどうかをたずねたが、一人として詳細を聞かせる者はなかった。ある女が、うなじが地面につくほど恐ろしい量の食器を背負い、子供を二人胸にぶら下げながら、通りすがりに、まるで見て来たかのように言った、あの娘は首を刎ねられたよ。ヘロニモは振り返った。時間を考えれば刑の執行は疑えなかったので、ひとけのない森に腰をおろすと、全身を満たす苦痛に身をゆだねた。彼は自然の破壊的暴力がもう一度自分に襲いかかってきてほしいと願った。彼自身わからなかった、なぜ自分は死を、苦悩に満ちた魂が求めていた死を、まさにそれが全方位から救いに来てくれた瞬間に、みずから逃れてしまったのか。彼は今この樫の木が根を失い梢が倒れてきても決して揺らぐまいと決意した。さてその後、泣き尽くすうちに、熱い涙のただ中から希望がまた生まれたので、彼は立ち上がり、あらゆる方角に野原を歩きまわった。ひとが集まる山の頂はどれでも訪れ、避難の大河がなお動くすべての道でひとびとに近づいた。女の服が風に揺れれば震える足で向かったが、どれ一つ愛するアステロン家の娘を包んでいなかった。太陽が傾き、太陽とともに希望もまた落ちかけたころ、ある岩のへりを歩いていくと、わずかなひとしかいない広い谷への視界が開けた。どうするか決めかねたまま、ひとつひとつの集団のあいだを歩き抜け、ふたたび別の方へ向かおうとしたまさにそのとき、渓谷を潤す湧水のそばに突然一人の若い女が見えた。女は子供を水で洗い清めていた。彼の心はこの光景に躍り上がった。期待に満ちて岩を飛び降り、彼は叫んだ、ああ神の母なる聖母、聖なるあなた! それがホセフェであるとわかったのは、彼女が物音におそるおそる振り向いたときだった。どんなに幸福に二人は抱き合ったことだろう、天の奇跡が救ってくれたこの不幸な二人は!

 ホセフェは死へ向かい、すでに刑場の近くにいたが、轟音とともに建物が崩れ、突然引き回しの行列は四散した。彼女は恐ろしさにまず直近の市門へ走ったものの、すぐに意識を取り戻すと、向きを変え修道院へ急いだ。小さな、頼る者もないわが子が残されていた。彼女は修道院全体がすでに炎に包まれているのを目にした。そしてあの修道院長が、ホセフェとの最後の瞬間、赤子の世話を約束していたのだが、今まさに叫んでいた、門の前に立ち、助けを求めて、誰か赤子を救い出してくれと。ホセフェは飛び込み、向かってくる煙にも怯まず、全方位から崩れてくる建物の中へ進んだ。そして天使の庇護を受けたかのごとく、赤子と一緒に無傷で正面から出てきた。驚く修道院長の腕に抱きつこうとしたそのとき、修道院の前壁が倒れてきて、修道院長は修道女ほぼ全員とともに不名誉なかたちで打ち殺された。ホセフェはこの恐ろしい光景に震えた。修道院長の目をさっと閉じると、彼女は逃げた。恐怖に全身を満たされ、大事な男の子を、天がふたたび贈ってくれたのだから、この破滅から逃れさせようと。

 数歩も行かないうちに大司教の死体にも出会った、潰れた死体が教会の瓦礫の中から引きずり出されたところだった。副王の宮殿は沈んでいた。判決の下った裁判所は燃えていた。かつての父の家は湖となって煮え立ち、赤い湯気を上げていた。ホセフェは力をふりしぼって正気を保った。嘆きを胸から払いのけ、勇気をもって収穫物とともに通りから通りへと進んだ。すでに市門に近づいたそのとき、彼女はヘロニモが悲嘆に暮れた監獄が瓦礫に埋まっているのを目にした。この光景によろめき、意識を失い町角に倒れそうだったが、まさにその瞬間、背後の建物が倒れてきて、数度の揺れですでにもろくなっていたのだが、恐怖が力を与えてくれたので、また狩り立てられた。彼女は子供にキスをし、目から涙を拭うと、もはや周囲の惨状を気にもとめず、市門に辿り着いた。外へ出て振り向き、すぐに結論付けた、瓦礫になった建物の住人が潰されたとは限らない、と。

 彼女は最初の分かれ道で立ち止まり、この世で小さなフィリップの次に愛しいあの人があらわれはしないかと待った。彼女は進んだ、誰も来ず、ごった返すひとびとが増えたからである。先まで行き、また振り向き、待った。その後たくさんの涙を流しながら、松が影をつくっている暗い谷へと入り、消えたと信じた彼の魂に祈りを捧げた。その谷で恋人を見つけ、ふたたび幸福を見出したのだから、ここはまるでエデンの谷かと思われた。

 こうしたすべてを、彼女は感動に満たされながらヘロニモに物語り、彼に、彼女はし終えていたので、キスしてあげるよう男の子をさし出した。――ヘロニモは受け取ると、言いようもない父の喜びを感じつつ男の子を撫で、見知らぬ顔に泣き出した口を終わりない愛撫で閉じさせた。そのあいだに実に美しい夜が降りた。優しい香りに満ち溢れ、銀色に輝いて、ひっそりとして、詩人しかみられない夢のようだった。いたるところ、谷の湧水沿いに、かすかな月明かりの中、ひとびとが場所を決め、苔と葉でやわらかい寝床をつくり、苦しみに満ちた一日を休もうとしていた。あわれな人たちはなお嘆いていて、ここの男は家を、あちらは妻子を、三番目はすべてを失ったと言うので、ヘロニモとホセフェは濃いめの茂みに忍び入り、自分たちの魂がひそかに歓喜の声を上げても誰も悲しませないようにした。彼らは見事な石榴の木を見つけた。香る果実をいっぱいにつけた枝を大きく広げていた。ナイチンゲールが梢の中で淫らな歌をさえずった。ヘロニモとホセフェはこの幹にもたれることにして、ホセフェはヘロニモのふところに、フィリップはホセフェのふところにもたれ、ヘロニモの外套をかけて休んだ。木の影が伸びていった、月光を散らしつつ、三人の向こうへ。月が朝焼けに白むころ、彼らはようやく眠りに落ちた。話は無限にあった。修道院の庭のこと、監獄のこと、互いを思ってつらかったこと。そして思えばとても心動かされるのだった、どれだけの悲惨がこの世界を襲わねばならなかったことだろう、わたしたちが幸せになるために!

 彼らは決心した、大地の揺れが止み次第、ラ・コンセプシオンに行き、そこでホセフェの信頼する女友達に少し資金を借りられるだろうから、そのままヘロニモの母方の親戚がいるスペインに渡り、かの地で幸福な人生を終えよう、と。こうしてたくさんのキスに埋もれ、二人は眠りに落ちた。


2.

 目覚めると太陽はすでに高く、彼らは近くにほかの家族がいくらかいるのに気がついた。ひとびとは火をおこし、簡単な朝食を用意していた。ちょうどヘロニモも、どうやって自分の家族に食べ物を調達しようか考えていたが、そのとききちんとした服装の若い男が、腕に子供を一人抱き、ホセフェのもとまでやってきて、慎み深くたずねた、この可哀そうな子に、母親は怪我をしてあの木の下で横になっていますから、少しのあいだお乳をあげてもらえませんか。ホセフェはやや混乱した。彼が知人だとわかったからだったが、相手はこの混乱を誤って解釈し、さらに続けた、ほんの瞬間です、ドニャ・ホセフェ、この子はわたしたち全員を不幸にしたあの時刻から何も口にしていません。そこで彼女は言った、「わたしが黙ってしまったのは――別の理由からです、ドン・フェルナンド。こんな恐ろしいときですから、何を所有していようと、それを分け与えることを拒む人などいません。」そしてこの小さなよその子を受け取ると、自分の子は父親に与え、胸に寄せた。ドン・フェルナンドは善意に感謝してたずねた、みなさんもわたしと一緒にあちらの社会に加わりませんか、ちょうど火のそばで簡単な朝食を用意していますから。ホセフェは、お申し出、わたしは喜んでお受けしますと答え、あとに従い、ヘロニモも異議はなかったので、彼の家族のもとへ向かった。そこでホセフェは、心から温かく、ドン・フェルナンド夫人の二人の妹に、とても気品ある若い婦人で知り合いではあったが、迎えられたのである。

 ドン・フェルナンドの奥方ドニャ・エルビーレは、両足に大怪我をして大地に横たわっていたものの、栄養不足の息子がその胸に抱かれているのを目にして、ホセフェを愛想良く招き寄せ、腰を下ろさせた。ドン・フェルナンドの義理の父ドン・ペドロも肩に怪我をしていたが、ホセフェに心をこめて会釈した。

 ヘロニモとホセフェの胸の中で奇妙な考えがうごめきだした。これほど親しみと善意をもって扱われるのを目にすると、過去のことをどう考えたらいいのかわからなかった。刑場を、牢獄を、鐘の音をどう考えたらいいのかわからなかった。夢を見ていただけなのだろうか? それはまるでひとびとの心が、あの恐ろしい衝撃の轟音に満たされることで、すべて和解したかのようだった。彼らはあの衝撃以前の記憶に遡ることができなかった。ただドニャ・エリサベスだけは、友人に昨日の朝のあの演劇に招かれ、その招待を受けなかったが、ときおり夢見るような視線をホセフェのうえにとめていた。だがまた何か新たに恐ろしい不幸が報告されたので、現在からほとんど逃れてなかった彼女の魂は、すぐまた現在へ引き戻された。

 ひとが物語るところによればこうだった、町は最初の大揺れの直後、男たちの目の前で子を産み落とす女たちでいっぱいでした。修道僧たちはキリスト像を手に町中を走りまわり、叫んでいました、世界の終わりが到来した! 副王の命令で番兵がある教会を明け渡すよう求めても、こう答えが返ってきました、チリの副王などもはや存在しない! 副王が恐ろしい瞬間のただ中で絞首台を建てる必要があったのは、略奪に歯止めをかけるためだったのですが。ある無実の男は、一軒の燃え盛る家を裏口から走り抜けて助かったにもかかわらず、所有者の早合点で捕えられ、すぐに首を吊るし上げられてしまったのです。

 ドニャ・エルビーレは、彼女の怪我をホセフェが世話していたのだが、物語がまさにもっとも活き活きと交差した瞬間に機をとらえ、ホセフェにたずねた、この恐ろしい日にあなたのほうはいかがでしたか。ホセフェが彼女に、締め付けられた心でいくつか主要なところを述べると、この夫人の目に涙が溢れるのを見て、ホセフェは嬉しかった。ドニャ・エルビーレは彼女の手を掴み、握り締め、目で合図した、もう黙っていいと。ホセフェは聖人たちのなかにいるような気がした。抑えられない感情が、流れ去った昨日という日を、どれだけの悲惨を世界にもたらしたにせよ、救いと名付けた。天がこれまで彼女にもたらしたことのなかったほどの救いと。実際、この恐ろしい瞬間に、人間たちの現世の財産はすべて地に落ち、自然は瓦礫に埋め尽くされかけたが、人間精神そのものは、美しい花のように咲き上がるかと思われた。野を見渡すとあらゆる階級の人間が混ざり合って横になっていた、領主と乞食、貴婦人と農婦、官吏と日雇、修道士と修道女。互いに同情し、相互に助け、自分の命をつなぐために救いだしたものを喜んで分け合い、まるでみなが共有する不幸が、それを逃れたすべての者をひとつの家族にしたかのようだった。

 これまで世界は、何も言ったことにならないお茶会の雑談のために素材を寄こしてきたが、今や途轍もない行為の実例が物語られた。これまで社会であまり尊敬されなかったひとびとがローマ人のような偉大さを示した。山のような実例が、恐れなさ、嬉々とした危険の軽視、自己否定、神々しいまでの自己犠牲、そして何の価値もない財産のように、もう一歩歩けばまた見つかるもののように、躊躇なく命を投げ出す行為を伝えた。それどころか、この日その身に心動かされることが起こらなかった者、もしくはみずから高潔なことを行わなかった者は一人もいなかったので、各人の胸中の苦痛は甘い歓喜と混じり合い、ひとびとは胸の内では、みなが共有する幸福の総和は、一方で減ったのと同じ分だけ他方で増したと言えなくもないと思った。
 
 二人はこうした考察を黙ったままでし疲れたので、ヘロニモがホセフェの手をとって、口にできない明るい気持ちで、柘榴の森の葉陰の中を上へ下へと導いた。彼は言った、ひとびとの心のこうした雰囲気とあらゆる関係の変革を考慮して、わたしはヨーロッパに渡る決意を放棄したい。ご存命なら、わたしはわたしの件で常に好意的に振る舞ってくださった副王の前に跪く。希望はある(彼は彼女にキスをした)、きみと一緒にチリに残れると思う。ホセフェは答えた、似たような考えがわたしにも上ってきていた。わたしももう、父が生きていれば和解できることを疑わない。ただわたしは、跪くよりもラ・コンセプシオンに行き、そこから文書で副王と和解手続きをとることを提案したい。そうすればどんな場合にも港の近くにいられるし、最善の場合、つまり手続きが望み通りに向きを変えたら、すぐサンティアゴに戻ることができるから。しばし熟考して、ヘロニモは賢明なこの手段に喝采を与えた。そして彼女を導いてまた少し、明るい未来のときの上を飛び回りつつ小道をうろつき、彼女とともに社会へ戻った。


3.

 この間に午後が近づき、群がり動いていた避難民たちの心が、大地の震動がひいてやや静まるやいなや、ある知らせが広まってきた。地震が被害を与えなかった唯一の教会であるドミニコ会教会で、修道院長自身によって特別なミサが執り行われ、これ以上の不幸から守ってくれるよう天に願いを捧げるという。

 民衆はすでにあらゆる方面から飛び出し、幾筋かの流れとなって町へ急いでいた。ドン・フェルナンドの社会では、この聖祭に参加し、みなが共有する行列に加わるべきではないかという問いが提起された。ドニャ・エリサベスはいくらか心を締め付けられ、思い出してほしいと言った、どんな災厄が昨日教会で生じたことでしょう。こうした感謝の式典は繰り返し行われ、あとになるほど危機はより遠くへ過ぎ去り、その分明るく穏やかに感情に身をゆだねることができるはずです。ホセフェはいくらか興奮してすぐに立ち上がり、意見を述べた、わたしはこの顔を造物主の前の土に押しあてたい衝動を今ほど活き活きと感じたことはありません、彼が理解不能で崇高な力を示されている今ほど。ドニャ・エルビーレはホセフェの意見に盛んに賛意を表した。彼女はミサを聴くべきだという考えにこだわり、社会を導くようドン・フェルナンドを促したので、ドニャ・エリサベスを含め全員が立ち上がった。ただドニャ・エリサベスは、胸を激しく動悸させ、ささいな出発の準備もためらいがちで、どうしたのかとたずねても、わたしにも自分の中にどんな不幸の予感があるのかわからないと答えるので、ドニャ・エルビーレは彼女を落ち着かせ、自分と具合の悪い父のもとに残るよう求めた。ホセフェは言った、ではドニャ・エリサベス、この小さな男の子を引き取ってもらえますか。もうまたこうしてわたしのところに来てしまったのです。喜んで、とドニャ・エリサベスは答え、彼を捕まえようとしたが、子供は自分に生じた不正に悲痛な叫びを上げ、決して承諾しなかったので、ホセフェは微笑みながら言った、わたしがこの子を手元におきます。そして彼女はキスをして子供を静かにさせた。ドン・フェルナンドはこの振舞いの気品と優美を非常に気に入り、ホセフェに腕をさしのべた。ヘロニモは小さなフィリップを抱えてドニャ・コンスタンツェを導き、この社会を訪れていた残りの構成員があとに従った。こうした秩序で行列は町へ向かった。

 50歩も歩かないうちに、これまで激しくひそかにドニャ・エルビーレと話していたドニャ・エリサベスが、ドン・フェルナンド! と呼ぶのが聞こえ、落ち着かない足取りで急いで追いかけてくるのが見えた。ドン・フェルナンドは立ち止まり、振り向いた。彼女が近づいてくるのを待ち受け、ホセフェから身を離さずたずねた、というのも近づいてくれるのを待つかのように彼女がいくらか離れて立ち止まったのである、どうした? ドニャ・エリサベスはそう言われて彼に近づいたが、抵抗感があるようだった。そして彼に、しかしホセフェには聞こえないように、二言三言そっと耳打ちした。それで? とドン・フェルナンドはたずねた、そこから生じるかもしれない不幸というのは? ドニャ・エリサベスはその先を、心乱した顔の彼の耳にささやいた。ドン・フェルナンドの顔に怒りの赤が上った。彼は答えた、もういい! ドニャ・エルビーレには落ち着いていてほしいと伝えてくれ。そして彼の婦人をそのまま先へと導いた。

 彼らがドミニコ会の教会に着いたときには、すでにオルガンが壮麗な音楽を聴かせ、計り知れない人の群れが建物の中で波打っていた。雑踏ははるか教会前の広場まで伸び、壁沿い高く掛けられた絵画の額縁には少年たちが腰かけて、期待に満ちたまなざしで手には小銭を握っていた。すべてのシャンデリアから光が注ぎ、柱は夕暮れのはじまりとともに謎めいた影を投げ、一番奥の巨大な薔薇窓はそれを照らす夕陽そのもののように赤く燃え、そしてオルガンが沈黙すると、静寂が集会全体を支配した。誰一人、一つの音さえ胸にもたないかのようだった。かつていかなるキリスト教の大聖堂でも、今日のサンティアゴのドミニコ会大聖堂ほど情熱の炎を天に向けて上げたことはなかった。そしてどんな人間の胸よりも暖かい火をそこに加えていたのは、ヘロニモとホセフェの胸だった! 

 聖祭は説教で始まった。最長老の司教座聖堂参事会員の一人が礼装をまとい、説教台から執り行った。彼はゆったりと流れる上着に包まれた震える両手を高く上げ、称讃、讃美、感謝を捧げ始めた。このように崩壊し瓦礫と化した世界でも、人間は神に対して、どもりながらも話しかけることができます。彼は述べた、全能の者の合図一つで何が起こったことでしょう。最後の審判もこれほど恐ろしくはないでしょう。だが彼が、にもかかわらず昨日の地震を、大聖堂が受けた一つの亀裂を指差しながら、最後の審判の前触れに過ぎないと名指したとき、集会全体に戦慄が走った。続けて彼は、聖職者の雄弁術という川の流れに乗って、この町の風紀の堕落に触れ、ソドムとゴモラでさえ目にしなかった惨状の数々を非難し、ひとえに神の無限の寛容のおかげで、地震によっても町は完全には壊滅しなかったのです、と言った。

 しかしこの説教ですでに完全に引き裂かれていたわたしたちの不幸な二人の心が、まるでナイフに刺し抜かれたのは、司教座聖堂参事会員がこの機を捉えて、カルメル派修道院の庭で犯された神の冒涜について詳しく触れたときだった。彼はこの行為が世間で受けた寛大な措置を神の侮辱と名指し、呪いの言葉に満たして話の向きを変えながら、その行為者たちを文字通り名指して、その魂を地獄の悪魔に引き渡した! ヘロニモの腕につかまったまま震えながら、ドニャ・コンスタンツェが言った、ドン・フェルナンド! しかし彼は激しくひそやかに、二つが結びつくように答えた、「黙ったままで、ドニャ、眼球も動かさず、気絶して沈んだようになさい、それを合図にこの教会を出ます。」だがドニャ・コンスタンツェがよく練られたこの手段を実行するより先に、一つの声が叫びを上げ、司教座聖堂参事会員の説教を大声で中断した。離れろサンティアゴ市民、ここにその神を侮辱した人間たちが立っている! するとまた別の声が、恐怖に満たされ、周囲に驚愕の輪を生みつつたずねた、どこだ? ここだ! と第三の者が応え、神をも恐れぬ神聖さに満たされて、ホセフェの髪を掴んで引き倒そうとしたので、ドン・フェルナンドが押さえてなければ、ホセフェはよろめき、彼の息子ともども地面に倒れるところだった。あなたたちは気が狂ったのか? と青年は叫び、ホセフェの体に片手をまわした、「わたしはドン・フェルナンド・オルメス、あなたたちみなが知るこの町の司令官の息子だ。」ドン・フェルナンド・オルメス? と言ったのは、彼のすぐ前に立ちふさがった靴職人だった。彼はかつてホセフェのために働いたことがあり、ホセフェのことを少なくともその小さな両足と同じくらいよく知っていた。この子供の父親は誰だ? と彼はアステロン家の娘に対して無礼な反抗を見せた。ドン・フェルナンドはこの問いに蒼ざめた。彼はためらいがちにヘロニモを見たかと思うと、自分を知る者がいないか集会を見渡した。恐ろしい関係に強いられホセフェは言った、この子はわたしの子ではありません、ペドリーリョ親方、思い違いです。彼女は魂に無限の不安を感じつつ、ドン・フェルナンドを見ながら言った、この若い方はドン・フェルナンド・オルメス、あなたたちみなが知るこの町の司令官の息子です! 靴屋はたずねた、市民諸君、この若い男を知っている者はいるか? すると周りの幾人かが反復した、ヘロニモ・ルヘラを知っている者はいるか? いたら出てきてくれ! このときたまたま、全く同じ瞬間に、小さなフアンが騒ぎに驚き、ホセフェの胸を離れてドン・フェルナンドの腕に入りたがった。これを見て、あの男が父親だ! と一つの声が叫び、あの男がヘロニモ・ルヘラだ! と別の声が叫び、あの二人が神を冒涜した人間だ! と第三の声が叫んだ。石を投げろ! 石を投げろ! イエスの神殿に集うキリスト教徒よ! すると今度はヘロニモが叫んだ、やめろ! ひとでなしども! ヘロニモ・ルヘラを探しているならここにいる! 無実のその男性を解放しろ!――

 怒り狂ったかたまりは、ヘロニモの発言に混乱し、立ちすくんだ。複数の手がドン・フェルナンドを離した。まさにこの瞬間、重要な地位にあるさる海軍将校が急いで近づいてきて、この騒ぎを突き抜け、たずねた、ドン・フェルナンド・オルメス! きみたちに何が起こった? 今や完全に解放されたドン・フェルナンドは、真に英雄的な思慮深さで答えた、ああ、見てくれ、ドン・アロンソ、この殺人狂たちを! わたしにはどうしようもなかった、もしこの威厳溢れる男性が、狂った群れを静めるために、ヘロニモ・ルヘラだと名乗ってくれなければ。きみが善意を尽くしてくれるなら、この人を逮捕してくれ、この若い婦人と一緒に。そして二人の安全を確保してほしい。それから何の価値もないこの男も逮捕してくれ、とペドリーリョ親方を捕まえて、この男が暴動全体を煽動したんだ!靴屋は言った、ドン・アロンソ・オノレハ、あなたの良心にかけておたずねします、この娘はホセフェ・アステロンじゃありませんか? するとホセフェをよく知るドン・アロンソが返事をためらい、そのため複数の声がふたたび怒りに燃え、この女だ、この女だ! この女を死刑にしろ! と叫んだので、ホセフェはこれまでヘロニモが抱いていた小さなフィリップを小さなフアンとともにドン・フェルナンドの腕にあずけ、言った、行ってください、ドン・フェルナンド、あなたの二人のお子さんを救ってください、わたしたちのことはわたしたちの運命にゆだねてください!

 ドン・フェルナンドは二人の子供を受け取り、言った、わたしは自分の社会に危害が加えられるのを許すくらいならむしろ死にます。彼はホセフェに、海軍将校の剣を借りると、腕をさしのべ、後ろの男女にもあとに従うよう求めた。彼らは実際、こうした施設では十分な敬意をもって場所をあけてもらえたので、教会の外まで出た。そして救われたと思った。だが同じように人に満ちた教会前広場へ踏み入るやいなや、追いかけてきた狂ったかたまりの中から一つの声が叫んだ、この男がヘロニモ・ルヘラだ、市民諸君。なぜならわたしが父親だ! そして声は、ドニャ・コンスタンツェのわきにいたヘロニモをすさまじい棍棒の一撃で地面に叩きつけた。イエスさま、マリアさま! とドニャ・コンスタンツェは叫び、義兄のもとへ逃げた、だが、修道院の売女め! という声が別の方から響きわたり、第二の棍棒の打撃が彼女をヘロニモの隣に打ちのめした。なんてことを! と見知らぬ男が言った、これはドニャ・コンスタンツェ・シャレだったのに! どうして彼らはわたしたちをだました! と靴屋が応えた、正しい女を見つけ出して殺せ! ドン・フェルナンドはコンスタンツェの死体を目にすると怒りに燃え上がった。彼は剣を抜き、振るい、打ち込んだので、この男、惨状のきっかけをつくった殺人狂は、二つに切断されそうだったが、向きを変えて怒りの一撃をかわした。しかしドン・フェルナンドは押し寄せる群れに力でまさらなかったので、さようなら、ドン・フェルナンド、子供たちとお幸せに! とホセフェは叫び、さあ殺しなさい、血に飢えた虎たち! と自由意志で彼らの中へ飛び込み、この戦いに終わりをつけようとした。ペドリーリョ親方が彼女を棍棒で殴り殺した。そして飛び散った血を浴びたまま、私生児も母親の後追いで地獄へ送ろう! と叫ぶと、いまだ満たされぬ殺人欲でふたたび迫った。

 ドン・フェルナンド、この神のような英雄は、今や背中を教会にもたせかけ、左手に子供たちを抱き、右手に剣を握った。ひと振りするたびに稲妻のごとく一人ずつ地面に打ち倒し、獅子でもこれほど抵抗できまい。血を追い求める犬が七匹、彼の前に死んで横たわり、悪魔的集団の首領も傷を負った。だがペドリーリョ親方は休むことなく、ついには子供の一人の足を掴んで胸から引き剥がすと、頭上で円を描いて振り回し、教会の柱の角で潰した。するとあたりは静まりかえり、すべてが遠ざかった。ドン・フェルナンドは、自分の小さな息子フアンが目の前に横たわるのを目にした。頭から脳髄が流れ出ていた。彼は名前のない苦痛に満たされ、両目を天に向けた。

 海軍将校が戻ってきて彼を慰めた。今回の不幸におけるわたしの無為はいくつかの事情から正当化されるが、それでも後悔していると彼は言った。だがドン・フェルナンドはきみが非難されることは何もないと言って、ただ今から死体を運ぶのを手伝ってほしいと頼んだ。死体はすべて、訪れつつある宵闇の中を、ドン・アロンソの住まいへ運ばれた。ドン・フェルナンドも小さなフィリップの顔の上でたくさんの涙を流しながら、死体のあとに従った。その日彼はドン・アロンソの住居に泊まり、そして長い間、偽りの演技をしながら、妻に不幸の全容を教えることをためらった。あるときは彼女が病気だから、またあるときは彼女がこの出来事における彼の態度をどのように判断するかわからないからと言った。しかしその後まもなくして、偶然、ある来客によって起こったすべてが知らされると、この優れた婦人は黙って母としての苦痛を泣き尽くし、輝く涙を残したまま、ある朝彼の首もとに落ちてきて、彼にキスをした。ドン・フェルナンドとドニャ・エルビーレは、その後あの小さなよその子を里子として引き取った。ドン・フェルナンドは、フィリップをフアンと比べ、また二人の子供をどのように獲得したかを比べるたびに、自分はほとんど喜ばなければいけないくらいだと思った。

[終]

2011年3月18日金曜日

翻訳作業を建て直す

 地震から一週間。わたしにとって最大の被害は仕事や論文が滞ったこと。まあ自主的に滞らせたのだが…。

 というわけでスケジュールをさらっと立て直す。

<以前立てたスケジュール>
〜3月12日(土) 後半のチェック、推敲
3月13日(日)〜4月10日(日) 前半の翻訳(130ページをだいたい5ページ/日で進める計算)
4月11日(月)〜4月25日(月) 推敲・全体の調整

<スケジュール修正版>
〜3月20日(日) 後半のチェック、推敲
3月21日(月)〜4月10日(日) 前半の翻訳(130ページをだいたい7ページ/日で進める計算)
4月11日(月)〜4月25日(月) 推敲・全体の調整

一週間が消えたので少し大変になったけど、まだ対応可能。4月からは他の仕事も始めたいので、3月中にできるだけ進めるつもり。

2011年3月15日火曜日

「現場でしかわからない」

感情のある種の興奮がどれだけ必要不可欠か(たとえすでにもっている考えを再生産するためだけでも)ということは、授業を受けて勉強しただけの偏見ない人々が試験を受け、前置きもなく「国家とはなにか」「財産とはなにか」などと問われているのを目にするとき、よくわかることが多い。もしこうした若者たちがなんらかの社会で国家や財産についてある程度話し合ったことがあるなら、彼らは様々な概念の比較、抽象、統合によって容易に定義を下せるかもしれない。しかし感情の準備がまったく欠けているならば、彼らは口籠るだろう。そしてそこから、彼らは知らないのだ、と結論づけるのは、ただ愚鈍な試験官だけである。というのも、「わたしたち」が知っているのではなく、知っているのは、何よりもまずわたしたちのある種の「状態」なのだから。国家とは何か、昨日暗記して明日忘れるような人々、そんなまったく卑しい精神だけが、こうした場合に答えを用意しているものだ。自分の優れた面を示すためには、公開試験はどんな機会よりも悪いかもしれない。

「語るにつれて思考が次第に完成していくことについて」
(ハインリヒ・フォン・クライスト)

 「知」は「状態」においてしかあらわれない。あるいは「状態」そのものが「知」である。要するにクライストは、「何事も現場でしかわからない」と言っている。「国家とはなにか」「財産とはなにか」という問いを試験会場で答えることはできない。国家が動いている現場、財産が動いている現場でしか答えを知ることはない。それを信じたからこそ、彼は哲学者でなく実作家の道を選んだ。彼にとって物語とは「現場」である。「国家とはなにか」という問いに対して哲学的・抽象的に与えられた答えを暗記するだけでは、わたしたちは何も知ることができない。しかし物語という「現場」に「状態」が置かれた場合には、そのとき限りかもしれないが、何かを知る可能性が生まれる。何かを知ることはまったく容易でない。読者が何かを知ることができるように、読者に現実的に役立つように、クライストは戯曲や小説を書き、雑誌や新聞を発行した。

 人間は知を支配できない。知を備えていると自称できるのは「まったく卑しい精神だけ」だ。知を支配しようとせず、みずからの「状態」に応じて「知る」ことができなければならない。理性ではなく、知覚、感情、反応が必要だ。脳ではなく身体が重要だ。事態を事前にコントロールし尽くそうとするのではなく、状況を知覚し、感情に従い、すばやく反応すること。それが「知る」ことであり、知と行為が一致するその瞬間を、クライストは構想していたのである。

2011年3月14日月曜日

翻訳「考えることについて」

「考えることについて ひとつの逆説」(ハインリヒ・フォン・クライスト)

 考えることの効用を、誰もが天高く褒め称える。とりわけ冷静に、長時間、行為の前に考えることを褒め称える。もしわたしがスペイン人なら、イタリア人なら、またフランス人なら、それもよかろう。しかしわたしはドイツ人だから、わたしはいつか自分の息子に、とりわけ彼が軍隊に入ろうとするようなことがあれば、以下の話をしようと考えている。

 「考えることは、よく知っていてほしい、行為の前より行為の後が、時機としてはるかに適切だ。考えが決断以前に、もしくは決断の瞬間そのときに作用すると、考えは、すばらしい感情から湧き出る行動に必要な力を、混乱させ、妨げ、抑圧するだけらしい。反対に、行為がなされた後ならば、本来人間に与えられた目的のために考えを使うことができる。つまり、今回の方法はどこに欠陥があったのか、どこが脆弱だったのかを意識し、来るべき更なる事態に備えて感情を調整できるのだ。生はそれ自体、運命との闘争であり、行動も格闘と比較できる。格闘家が敵を捕まえる瞬間には、単なる瞬間的な直観にしか考慮を払わない。敵を倒すにはどの筋肉に負荷をかけどの間接を動かすべきかと計算するような者は、間違いなく敗北し、屈服する。しかし勝利した後か敗れた後ならば、どれくらいの力をかけることで敵を倒すことができたのか、あるいは立ったままでいるにはどう足を使うべきだったのかと考えることは、目的に適い、適切だ。この格闘家のように生を捕えることができない者、戦いのあらゆる展開に応じて、あらゆる抵抗、圧力、転調、反応に応じて、臨機応変に生を感覚し感受できない者は、何を望もうとも、どんな会話の中でも、自分の意志を押し通すことができないだろう。まして戦争で意志を押し通すことなどできないだろう。」

(1810年12月7日付「ベルリン夕刊」にて発表)

2011年3月9日水曜日

翻訳の仕事もしている

 クライストのことばかり書いているが、現時点で研究は一銭のお金ももたらさないので、同時に翻訳の仕事を進めている。今回は初めて規模の大きい理系翻訳の仕事をいただいた。A4で約260ページだから、長さとしてはこれまでの仕事で最長。未完成の仕事だし、特に内容については触れないが、今後以下のようなスケジュールで進める予定。

〜3月12日(土) 後半のチェック、推敲
3月13日(日)〜4月10日(日) 前半の翻訳(130ページをだいたい5ページ/日で進める計算)
4月11日(月)〜4月25日(月) 推敲・全体の調整

これは他の仕事や研究を進めながら翻訳することを前提として考えられたスケジュールである。もし翻訳だけに集中できるならまったく別の予定を組むだろう。ただ、短期集中型の翻訳がよいのか、それとも少しずつ無理のないペースで進めるのがいいのかについては、一般的な答えはないと思う。テクスト次第であり、条件次第だ。

 今回、ジャンルとしては医療・技術・法制度等が交わり、しかも日本には存在しない概念や制度について書かれた文書の翻訳であるため、非常に複雑で難しいのだが、こうしたものを翻訳するのは文学とはまた別種の面白さがあると実感している。数学的な楽しみなのかもしれない。掃除機の取扱説明書を翻訳するのはつまらない算数という感じだろうが、今回の翻訳は数学的に複雑な解を求める作業といった感じで、とてもエキサイティングだ。また、翻訳しながら未知の分野について学べることも大変だが嬉しい。

 なにはともあれ、正確でわかりやすい翻訳をつくらなければならない。解のない文学翻訳とは異なる課題で、どこまでいけるか楽しみだ。もちろん、ちゃんとしたところまで必ずいく。クライアントの期待を必ず凌駕する。それが原則だ。