「くそ勉強」ブログより転載。
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問題29 社会の構想
今回の「問題」はシンプルです。「日本社会をどうしたいか」について考えたい。
今回は、細かいアイディアではなく、その大元となる根本的なコンセプト、「社会理論」、「共同体の構想」を聞きたい。意識化して文章にしたことがあるかどうかはともかく、たとえば何かものを売る人なら「こういうものが売れる社会になってほしい」というようなかたちで、絵画や映画が好きな人なら「こういう絵/映画が生み出される/受け容れられる社会になってほしい」というようなかたちで、またデザインや編集をなりわいとする人は言うまでもなく、自分が理想とする社会像がどこかに育まれているはずです。
1)個人が抱く理想像と、2)その理想像における個人の役割、の関係も重要なポイントですが、今回はひとまず、その社会(を実現する過程)で自分がどのような役割を果たすか、という問題は度外視してよいことにしましょう。「そんなこと言ってお前になにかできるの?」というツッコミはなし、ということです。「我々は夢を見ることを恐れてはなりません」、なんてね。
そういうことは言葉で語れるものではなく、わたしにとっては作品としてしか表現できないものだ、という意見もあるかもしれない。しかしそれは両方必要わけだから、直接的な言葉は直接的な言葉でつくっていくべきだと考えます。
今回は、場合によっては一人の参加者につき一回しか書きこまないくらいでもいいかなと思います。刺激の頻度よりも質を大切にして、できれば一度で語り切ってほしいと思います。複数回で「連載」してもいいけどね。お互いの質問等のやり取りは、もちろん自由にやりましょう。
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さて、それではまずぼくから。
ぼくは日本社会における「時間」の感覚がもっと豊かになってほしい。豊かな時間感覚をもつ社会にしたい。そのためには、死んだひとを大切にすること、そして自分の未来を自分で決めることが大事だと考えます。
日本社会はいつからか、時間感覚が極めて貧弱な社会になってしまったと思う。たとえば、2回の原爆とその死者たち、被爆者/被曝者たちのことを忘れないことができていたら、原発のリスクを認識しつつそれを推進/看過することはできなかったのではなかろうか。
戦争に至った原因をエネルギー政策に求め、それを繰り返さないために戦後は原子力発電を推進したというのは事実だろうけど、それは「今生きているひと」のための考え方。「今生きているひと」のために動くと、必ず現実的な利害関係が生まれ、権益が生じ、物事が本来の理念と離れたところで自動化されてゆく。そもそも、理念の中にもすでにさまざまな思惑が入り込む。また、何が決定されても常に反転されうる。それは現在も変わらない。
他方、死んだひとは利害関係をもたず、次の選挙で投票もできない。あらゆる現実的な利害を離れた死者たちを媒介にすることでしか、共同体は成り立たないのではないかと思う。日本はさまざまな祭祀や能のような芸能において、「死者の側からものを見る」技術を伝統的に受け継いできた国。今回の震災では「復旧・復興」ばかりで、いまだ数も確定できない莫大な数の死んだひとたちをどう供養するか=これからの共同体の基盤になってもらうかという議論は聞かれない。それは死者が次の選挙で投票できないからだとぼくは思う。生きているひとしか投票できないから、生きているひとしか大事にされない。死んだひとよりも生き残っているひとのほうが多いから、生きているひとしか大事にされない。それでは利害争いが続くだけ。死んだひとに見せても恥ずかしくない世の中をつくるということが、日本でも可能な倫理ではないかと考える。
ところで、「時間」は過去と現在だけでなく、未来をもっている。ぼくは「死者」=過去との関係を変えると同時に、未来との関係も変えなければならないと思う。
たとえば、菅首相。彼が浜岡原発を止め、いわゆる「自然エネルギー」へのシフトを表明し、サミットで「2020年代の早い時期に『自然エネルギー』20%以上に」と宣言して支持されたけど、忘れてはいけないのは、彼は早ければあと1、2ヶ月、最長でもあと半年でいなくなる首相だということ。あと半年以内に権限も責任もすべて失うひとが、今後数年、あるいは数十年に影響を与える決定ができる(もしくは決定したような見せかけをつくれる)システムはおかしい。「2020年」なんて空虚にしか響かない。
原発政策のように、「政治家の寿命」と「政策の寿命」という二つの時間が決定的にずれてしまう場合は、そのうちいなくなる政治家に決定を委ねてはならないと思う。その決定が政策として実現するときも、決定を下したときと同じ立場にある人間しか、そうした決定はできないと思う。そして国政においてそのような決定主体は「国民」しかありえないから、ぼくは日本でも国民投票が実現することを期待する。未来は、未来において責任をとることのできる主体が決定すべきだ。
以上のように、ぼくは過去および未来との関係を再考、再構築したうえで、具体的で豊かな時間感覚をもつ日本社会にしたいと思う。
そのチャンスはインターネットにあると思う。大雑把に言えばインターネットは過去と現在と未来が同時にあらわれてくる空間だ。インターネット空間を、死者と生者と未来の子供が混じり合う場、あるいはそれらの区別が融け合う場にすることが、社会の時間感覚にとってひとつの可能性ではないかと考える。
最後に、自分の考えに含まれている問題点を自分で指摘する。
1)死者は「悪用」できる。死者の声を「代弁する」とき、そこには「悪用」の可能性が生まれる。たとえば、「死者は原発に反対するはずだ」という理屈が成り立つとき、同様に「死者はアメリカに復讐するために日本が軍事大国になることを望んでいるはずだ」という理屈も原理的に成り立つ。すると、死者を基盤とするといっても、死者を基盤とするためのさらなる基盤が必要なのか、という議論になり、これは永遠にメタ化されてしまう。これにどう答えるか。
2)結局のところ政治家や官僚やシステムをどこからどうやって変えればいいのか。
以上、荒っぽい議論だが、ぼくの「時間社会論」の素描としたい。ご意見、ご感想ぜひください。
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というわけで、文量はどうでもいいし、ぼくみたいに政治のこととか絡める必要はまったくないから、とにかく自分の専門分野を相手にするのではなく、「社会」みたいな大きな相手に向かって語る言葉を出してもらえたら嬉しいです。
今回は盛り上がらなくてもいいと思う。じっくり練った「本気」を見たい。いつも通り飛び入りの参加も歓迎です。それではよろしく。
2011年6月14日火曜日
2011年5月2日月曜日
5/2 「声」を増やす
以下、「くそ勉強」ブログの転載。最近考えていたことの一つ。
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問題24 「声」を増やす
そろそろ誰でも書きやすい「問題」を設定してこのブログを盛り上げたいところですが、やはりちょっと違った角度から。
例のごとく地震と津波と原発ですが、この2ヶ月のあいだにわたしが実感したことのひとつは、「日本ではほとんど誰も正面きった質問をしない」ということでした。どういうことかというと、つまり突然「ドイツ語翻訳者として今回の原発事故をどう思うか」とか、「画家として津波をどう考えるか」とか、あるいは「映画保存技師として一連の出来事をどう見ているか」とか、誰も聞かないわけです。聞いてこないわけです。正面から立場を問い、大きなことを語るよう求める動きは、とても少なかったし、今も少ないと思います。
ところが、逆方向は溢れている。逆方向というのは、「アーティストとしてできることをやりたい」とか、「自分の生活の中で役に立てることを続けたい」とかです。
「大きなことを語れ」と求めるひとは少なく、「小さなことをします」と言うひとは多い。外側から「問い」にさらされることは少なく、内側で自分のテリトリーを再確認する言動は多い(敢えていじわるな言い方をしますが)。
これはちょっと「災害の過ごし方」としてもったいないのではないかと思います。せっかくだからもっと揺さぶられたり、場合によっては立場を問われたり、大きなことを語ったりした方がよい経験になるのではないか。これまで存在しなかった接続が生まれるのではないか。そう思います。
そこで。外側から問いが来ないなら、自分で自分に問いを立てようと考えました。「ドイツ語翻訳者として今回の原発事故をどう思うか」と自分で聞いて自分で答えるわけです。またこういう場所で枠組みをつくって問いを立ててもらえばいいと思いました。それを今回やってみたい。
ポイントは、「複数」の問いを立てることだと思います。「〜として…する」が陥りやすい罠は、自分で自分を限定してしまうことです。でも人間は複数的な存在なので、たとえばぼくは今回のカタストロフィを「翻訳者として」「クライスト研究者として」「父親として」「猫と暮らす者として」「日本人として」「新潟県出身者として」等々、いろいろなふうに考えることができるわけです。そしてそういう複数性にこそ、さまざまな困難と可能性の両方が含まれていると思います。
こういう自分自身のチェック機関のような働きを「声」と呼んでみました。個人、組織、社会、国家、どのレベルでも、根本をきちんと問い直す「声」が不足している気がします。大企業や国家機構だけでなく、やっぱり個人にも「声」が不足しているのだと思います。自分に対して、あるいは他人に対して、今回のような枠組みを利用して直球の問いを立ててみたい(直球じゃなくてもいいんだけど)。ただ、こういう問題だからこそ、変に深刻にならず、気楽にやりたいと思います。深刻さは思考を停止させます。外から見てイタイやりとりにならないよう気をつけましょう。
自分にも、他人にも、シンプルな問いを立てて、正面から答えてみたい。なんか盛り上がらない気がしてならないけど、どうにかして面白くしてください。とりあえずリリースするので、すぐに始めてもらってもいいし、今回の問題設定自体について感想をもらってもいいと思います。今回はとにかく盛り上がる気がしないので、みなさんの力にかかっています。いつも通り飛び入りの参加も歓迎です。よろしく。
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問題24 「声」を増やす
そろそろ誰でも書きやすい「問題」を設定してこのブログを盛り上げたいところですが、やはりちょっと違った角度から。
例のごとく地震と津波と原発ですが、この2ヶ月のあいだにわたしが実感したことのひとつは、「日本ではほとんど誰も正面きった質問をしない」ということでした。どういうことかというと、つまり突然「ドイツ語翻訳者として今回の原発事故をどう思うか」とか、「画家として津波をどう考えるか」とか、あるいは「映画保存技師として一連の出来事をどう見ているか」とか、誰も聞かないわけです。聞いてこないわけです。正面から立場を問い、大きなことを語るよう求める動きは、とても少なかったし、今も少ないと思います。
ところが、逆方向は溢れている。逆方向というのは、「アーティストとしてできることをやりたい」とか、「自分の生活の中で役に立てることを続けたい」とかです。
「大きなことを語れ」と求めるひとは少なく、「小さなことをします」と言うひとは多い。外側から「問い」にさらされることは少なく、内側で自分のテリトリーを再確認する言動は多い(敢えていじわるな言い方をしますが)。
これはちょっと「災害の過ごし方」としてもったいないのではないかと思います。せっかくだからもっと揺さぶられたり、場合によっては立場を問われたり、大きなことを語ったりした方がよい経験になるのではないか。これまで存在しなかった接続が生まれるのではないか。そう思います。
そこで。外側から問いが来ないなら、自分で自分に問いを立てようと考えました。「ドイツ語翻訳者として今回の原発事故をどう思うか」と自分で聞いて自分で答えるわけです。またこういう場所で枠組みをつくって問いを立ててもらえばいいと思いました。それを今回やってみたい。
ポイントは、「複数」の問いを立てることだと思います。「〜として…する」が陥りやすい罠は、自分で自分を限定してしまうことです。でも人間は複数的な存在なので、たとえばぼくは今回のカタストロフィを「翻訳者として」「クライスト研究者として」「父親として」「猫と暮らす者として」「日本人として」「新潟県出身者として」等々、いろいろなふうに考えることができるわけです。そしてそういう複数性にこそ、さまざまな困難と可能性の両方が含まれていると思います。
こういう自分自身のチェック機関のような働きを「声」と呼んでみました。個人、組織、社会、国家、どのレベルでも、根本をきちんと問い直す「声」が不足している気がします。大企業や国家機構だけでなく、やっぱり個人にも「声」が不足しているのだと思います。自分に対して、あるいは他人に対して、今回のような枠組みを利用して直球の問いを立ててみたい(直球じゃなくてもいいんだけど)。ただ、こういう問題だからこそ、変に深刻にならず、気楽にやりたいと思います。深刻さは思考を停止させます。外から見てイタイやりとりにならないよう気をつけましょう。
自分にも、他人にも、シンプルな問いを立てて、正面から答えてみたい。なんか盛り上がらない気がしてならないけど、どうにかして面白くしてください。とりあえずリリースするので、すぐに始めてもらってもいいし、今回の問題設定自体について感想をもらってもいいと思います。今回はとにかく盛り上がる気がしないので、みなさんの力にかかっています。いつも通り飛び入りの参加も歓迎です。よろしく。
2011年3月30日水曜日
3/30 リズムについて考える
友人たちと運営している「くそ勉強」というブログで、一昨日から「リズムのつくり方」について議論を始めた。このテーマを設定し、問題提起したのはぼく自身。
今日、少し補足を付け加えた際に、この問題はこれまで自分が論じてきた別のことともつながることに気付いた。それは「時間」という問題系である。少し長いが、まずは今日書いた文章を全文引用する。
「わたし」の量を減らすことが必要なのではないか、というのがこの発言の核だ。ところで、わたしは以前このブログで、「時間の複数化」なるものについて文章を書いた。その冒頭は以下の通りである。
引用した二つの文章は、両方とも、「たったひとりの巨大なわたし」をどうするか、ということを問題にしている。「たったひとりの巨大なわたし」に手を入れることがどうしても必要だと思うのだ。「わたし」を複数化するという二つ目の引用の問題提起は、「わたし」の量を減らすという一つ目のそれと矛盾しないかもしれない。矛盾しないどころか、ひとつのものをちがう角度から説明しているだけなのかもしれない。それは宗教にも自然にも寄り添って生活できない者にとっての、ひとつのチャンスなのだろうか。「時間の複数化」。その複数化された時間たちを軽やかに渡っていくことを、「リズム」と呼ぶことはできるだろうか。
かっこつけただけの文章でたいへん申し訳ない。まだ中身を詰めておらず、ただの思いつきで二つを並べただけなので、どうしても予感的な言い方になってしまう。「くそ勉強」ブログの議論は日曜まで続くので、これからもっとはっきりさせたいと思っている。
今日、少し補足を付け加えた際に、この問題はこれまで自分が論じてきた別のことともつながることに気付いた。それは「時間」という問題系である。少し長いが、まずは今日書いた文章を全文引用する。
わたしは特に宗教的な生活を送っていないし、いかなる宗教についてもきちんと勉強したことがないのですが、リズムを崩すといつも、宗教に従って生活しているひとのことを考えます。
たとえば、ストレスやら何やらで暴飲暴食してしまったあと。わたしは、後悔しつつ、「もし『暴飲暴食すべからず』みたいな戒律に従って生きていたら、こんな無駄なことしなくて済んだのかな」と思います。以前、ユダヤ教の「十分の一税」のことを本で読みました。彼らは全財産の十分の一を喜捨しなければならないそうです。そしてどんなに金銭的に苦しんでいても、「今回はこっそりなしにしちゃう」とか「半年延ばしてもらう」ということをしないらしい。その理由に驚きました。「自分の財産の十分の一は、もともと神様のものなのだ。だから、もし納めなければ、自分は神様から泥棒をしたことになる」というロジックなのだそうです。
「リズム」と深い関係をもっているのは、「わたし」の量ではないでしょうか。あらゆることをその都度「わたし」が決定すると、リズムはなかなか安定しません。「わたし」の状態は不安定で、場当たりの対応をしてしまうからです。たとえば、ユダヤ教の「十分の一税」と同じように、「毎月給料の十分の一を貯金しよう」と「わたし」だけで決めても、月末にお金が足りなくなったら、「今月だけは例外」といってやっぱり使ってしまうでしょう。同じ行為でも「わたし」の量が多いときにはリズムになりづらい。あるいは、お腹が空いているときにはたくさん食べ、空かないときには食べない、その判断は常に「わたし」がする、という生活はなかなかリズムを生まない。他方で、毎日7時・12時・19時に必ずお茶碗2杯食べなければいけないと決まっていたら、それはリズムを生むでしょう。
宗教は、生活のリズムを部分的に「わたし」から切り離し、誰か・何かに移譲することではないでしょうか。あるいは農業者と比較してもいいかもしれません。一日中いつしてもよいオフィスワークと違って、朝にしかできないこと、午後にしかできないことがある農業者の生活は、仕事のリズムづくりが、「わたし」から自然へと移譲されていると捉えることができるでしょう。
要するにシステムです。システムがリズムを生む。しかし「わたし」にしか通用しないシステムというのは非常に脆弱で(よく言えばあまりに柔軟で)、「わたし」だけでは強固なシステムをつくることが難しい。ここにポイントがあるのではないでしょうか。宗教に関してわたしが感心するのは、それが「考えなくていいことを考えない」ためのシステムであると思えることです。「生活の知恵」みたいなものを体系化して、「それはもう答えあるんだ。こうすればいい。考える必要ない。リズムにしてしまえ。ほかにもっと大事なことがあるから、思考と行動はそっちに集中させろ」と言ってるように思えるのです。
この議論の流れからいうと、可能性としては、1)システムの構築を工夫する。特に「わたし」の減らし方、という観点から。2)上記の議論はそもそも間違っている。問題はシステムではない。という二つが見えてくると思います。どちらにしてもわたしにはまだ名案は浮かんでませんが…。
具体的な「リズムのつくり方」を書くつもりだったのに、ふたたび理論的な話になってしまいました。これに反応をもらえても嬉しいし、引き続き太田くんのように具体例を挙げるのもいいと思います。わたしもあとでもっと具体的なことも書きます。
「わたし」の量を減らすことが必要なのではないか、というのがこの発言の核だ。ところで、わたしは以前このブログで、「時間の複数化」なるものについて文章を書いた。その冒頭は以下の通りである。
現代生活の課題は、「時間」を複数化することである。それは「わたし」を複数化することでもある。
もしも「わたし」が一人なら、その一人において全てが始まり、全てが終わる。成功は「わたし」の完全な勝利であり、失敗は「わたし」の全身を痛めつけるだろう。
それは単純にリスクが高い。可能なら一人の「わたし」に全てを賭けてよいだろう。しかしそれができるかできないか、それを望むか否かを自覚的に選択するプロセスはあってよい。
仕事、家族、友人、趣味など、「戦線」を複数化することが「わたし」を複数化することである。「戦線」を分散したうえで、一部で受けたダメージをほかで補填し、一部で得た成功をほかに伝播させる。他方、重複させない部分は決して重複させない。
「わたし」のこの複数化が、「時間」を複数化することでもある。「時間」の分割と言ってもよい。一つの大きな「時間」を生きているという前提を停止させ、仕事の時間、家族の時間、趣味の時間など、複数の小さな「時間」を渡り歩く。
数が多く、種類が豊富で、質が多様なことを楽しむのが20世紀の消費文化だった。必要充分な数と種類を、できるだけ良い質で楽しむのが21世紀の消費文化だろう。いずれにせよ、いまだに一つの、単一の、均質な「わたし」の「時間」を生きなければならない理由は何もない。豊かな消費生活を楽しむように「わたし」とその「時間」に手を入れて楽しめばよいのだ。
メモ(1)より
引用した二つの文章は、両方とも、「たったひとりの巨大なわたし」をどうするか、ということを問題にしている。「たったひとりの巨大なわたし」に手を入れることがどうしても必要だと思うのだ。「わたし」を複数化するという二つ目の引用の問題提起は、「わたし」の量を減らすという一つ目のそれと矛盾しないかもしれない。矛盾しないどころか、ひとつのものをちがう角度から説明しているだけなのかもしれない。それは宗教にも自然にも寄り添って生活できない者にとっての、ひとつのチャンスなのだろうか。「時間の複数化」。その複数化された時間たちを軽やかに渡っていくことを、「リズム」と呼ぶことはできるだろうか。
かっこつけただけの文章でたいへん申し訳ない。まだ中身を詰めておらず、ただの思いつきで二つを並べただけなので、どうしても予感的な言い方になってしまう。「くそ勉強」ブログの議論は日曜まで続くので、これからもっとはっきりさせたいと思っている。
2011年3月28日月曜日
くそ勉強|リズムのつくり方
以下、「くそ勉強」ブログから転載です。
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問題19 リズムのつくり方
今回は、前回の太田くんの問題「勝利の方程式」を引き継ぐテーマ設定にしたいと思います。タイトルは「リズムのつくり方」です。
前回の問題では、「流れのつくり方」が話題になりました。いつもどおり、特に結論はついてませんが、実質的には蓮沼くんのコメントに議論が集約されていたと思います。つまり、「小さなこと/一歩を大事にすること」、そしてそれによって「問題をクリアにしていくこと」。
ではその「小さな一歩」とは何か? 一人一人にとって具体的にどういう作業なのか? どうすれば「小さな一歩」を積み重ねて、「問題をクリアにしていくこと」ができるのか? それを「リズムのつくり方」という観点で捉えてみたいと思います。
特に付言するまでもなく、今現在、リズムを崩しているひとは、ぼく自身を含めてたくさんいると思います。リズムを崩すことが必ずしも悪いことだとは思いません。ひとがリズムを崩すときは、やはり必要があって崩しているのだと思います。ただ、そろそろ自分のリズムを更新したいと思っているひとも多いのではないでしょうか。ひとのやり方を真似したからといって、すぐにいいリズムができるとは限らないでしょう。しかし、おそらく「どうすればリズムをつくれるのか」ということを他人と話し合うこと自体が、個々人にとってリズムをつくっていく作業そのものになるのではないか。そう考えています。
というわけで、この問題提起自体がぼくの「リズムのつくり方」の「小さな一歩」です。ほかにもいくつか思い付くことはあります(「朝から家を出る」「日記を書く」など)が、それらの具体的な紹介(なぜそれをするか、どこがいいか)はコメント欄でするとして、まずは問題提起だけにしておきたいと思います。
ひとが毎日の生活のなかで、どんな「小さな一歩」を積み重ねてリズムをつくっているのか、ぼくはとても興味があります。たぶん興味のあるひとは多いと思います。個々人のやり方を紹介し合いながら、お互いに「リズムのつくり方」のヒントを得たり、あるいは「リズム」なるものについての理解を深めることができればと思います。
最近は太田、郷田、蓮沼、林だけでなく、臼井くんがコメントを書いてくれて、別の動きが出てきて、とても楽しく思っています。あらためて確認しておくと、このブログは原則として実名で参加してもらえればコメントは自由です。短い意見でも質問でも、ひっかかったひとは残してみてください。
それでは今回もよろしくおねがいします。
林立騎
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問題19 リズムのつくり方
今回は、前回の太田くんの問題「勝利の方程式」を引き継ぐテーマ設定にしたいと思います。タイトルは「リズムのつくり方」です。
前回の問題では、「流れのつくり方」が話題になりました。いつもどおり、特に結論はついてませんが、実質的には蓮沼くんのコメントに議論が集約されていたと思います。つまり、「小さなこと/一歩を大事にすること」、そしてそれによって「問題をクリアにしていくこと」。
ではその「小さな一歩」とは何か? 一人一人にとって具体的にどういう作業なのか? どうすれば「小さな一歩」を積み重ねて、「問題をクリアにしていくこと」ができるのか? それを「リズムのつくり方」という観点で捉えてみたいと思います。
特に付言するまでもなく、今現在、リズムを崩しているひとは、ぼく自身を含めてたくさんいると思います。リズムを崩すことが必ずしも悪いことだとは思いません。ひとがリズムを崩すときは、やはり必要があって崩しているのだと思います。ただ、そろそろ自分のリズムを更新したいと思っているひとも多いのではないでしょうか。ひとのやり方を真似したからといって、すぐにいいリズムができるとは限らないでしょう。しかし、おそらく「どうすればリズムをつくれるのか」ということを他人と話し合うこと自体が、個々人にとってリズムをつくっていく作業そのものになるのではないか。そう考えています。
というわけで、この問題提起自体がぼくの「リズムのつくり方」の「小さな一歩」です。ほかにもいくつか思い付くことはあります(「朝から家を出る」「日記を書く」など)が、それらの具体的な紹介(なぜそれをするか、どこがいいか)はコメント欄でするとして、まずは問題提起だけにしておきたいと思います。
ひとが毎日の生活のなかで、どんな「小さな一歩」を積み重ねてリズムをつくっているのか、ぼくはとても興味があります。たぶん興味のあるひとは多いと思います。個々人のやり方を紹介し合いながら、お互いに「リズムのつくり方」のヒントを得たり、あるいは「リズム」なるものについての理解を深めることができればと思います。
最近は太田、郷田、蓮沼、林だけでなく、臼井くんがコメントを書いてくれて、別の動きが出てきて、とても楽しく思っています。あらためて確認しておくと、このブログは原則として実名で参加してもらえればコメントは自由です。短い意見でも質問でも、ひっかかったひとは残してみてください。
それでは今回もよろしくおねがいします。
林立騎
2011年2月18日金曜日
何を共有できるか
以下、「くそ勉強」ブログより転載です。
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いま、『シェア』という本をたいへん面白く読んでいます。
ここ数年、世界中でさまざまな物・場所・人・技術を「シェア」する取り組みが起こっているそうです。いらなくなった服の交換、自動車や自転車の共有、工具を揃えた作業スペースの共有など、具体的な事例が本の中で無数に報告されています。わたし自身に身近なところで言えば、ツイッターも情報のシェアとして捉えることができるし、このブログのコンセプトも意見交換を小さな輪で閉じるのではなく、より広く「シェア」することでアイディアを発展させていこうというものでした。
21世紀になって人類が飛躍的に善良になったということは考えられません。たしかに環境問題や食の安全に対する関心は高まっていて、それが「信頼できる範囲でのシェア」を促している面はあると思いますが、おもに「シェア」を支えているのは思想ではなく技術でしょう。つまり、これまでであればシェアしたいと思う人がいてもそのための「コスト」(金銭的、時間的、心理的コスト)が高すぎてシェアできなかったことが、今では情報技術(ネット環境や携帯デバイス)の発達によってその「コスト」が劇的に下がり、人々がごく自然にシェアを始められるようになった、ということです。ここまでは前提。
もう一つのポイントは「近さ」だと思います。これも「善良さ」とはあまり関係のないことです。どういうことかと言うと、私見では、ひとは「どのみちもともとやろうと思っていたこと」に関して、特にシェアへと動いていきます。どのみち赤ちゃんの服は誰かにあげようと思っていた→それならネットでほしがるひとにあげよう、とか、どのみち作業スペースが必要だと思っていた→それならひとと共同で使おう、とか、どのみちバカンス中は誰かに家を貸そうと思っていた→それなら世界中の旅行者に利用してもらおう、とか、そういうことです。「もう一歩」進むことができるのは、身近なことに関してのみです。いくら高尚な思想でも、それが「遠い」ものならひとを動かすことはできません。
この本を読み始める一ヶ月くらい前から、わたしは自分がネットでしている情報収集の一部をツイッターで発信し始めていました。それは「これを役立ててほしい」とかそういうことよりも(そうした気持ちが全くないわけではないですが)、どのみち情報収集はするし、しかもたまたまReederという非常に便利なアプリケーションを知ってまさに「コスト」(時間的・心理的コスト)が著しく下がった時期だったので、「発信してもしなくてもほとんど変わらない→じゃあ発信したほうが自分にも他人にも利益がありそうだ」ということで始めたのでした。これは先日の「問題13」のあとの議論とも関係していて、「たくさん映画を観てきたのだから映画評をネット上でアップしてほしい。あなたの知見をシェアさせてほしい」と言っても、相手がもともと映画評を書いていないのであれば、その一歩を踏み出すことに対するコストはとても大きく、いくら「シェア」のコストが低くてもそう簡単ではないのかもしれません。
長くなってすみません。こうした「シェア」の現状とそれに対するわたしの意見を前提として、まず、1)「シェア」にどのような可能性を認めるか/認めないか、さらに、2)どのようなものをシェアしたいか、これについては、2−1)「シェアさせてほしい」という他人に対する欲望/必要と、2−2)「シェアしてもらってかまわない」という自分の能力/習慣/所有物の両面で議論できればいいと思います。2に関してはわたしもさらに書きたいことがありますが、長くなったのでこのあたりまでを問題提起として、あとは議論で続けていきたいと思います。よろしくお願いします。
林立騎
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「共有」
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いま、『シェア』という本をたいへん面白く読んでいます。
ここ数年、世界中でさまざまな物・場所・人・技術を「シェア」する取り組みが起こっているそうです。いらなくなった服の交換、自動車や自転車の共有、工具を揃えた作業スペースの共有など、具体的な事例が本の中で無数に報告されています。わたし自身に身近なところで言えば、ツイッターも情報のシェアとして捉えることができるし、このブログのコンセプトも意見交換を小さな輪で閉じるのではなく、より広く「シェア」することでアイディアを発展させていこうというものでした。
21世紀になって人類が飛躍的に善良になったということは考えられません。たしかに環境問題や食の安全に対する関心は高まっていて、それが「信頼できる範囲でのシェア」を促している面はあると思いますが、おもに「シェア」を支えているのは思想ではなく技術でしょう。つまり、これまでであればシェアしたいと思う人がいてもそのための「コスト」(金銭的、時間的、心理的コスト)が高すぎてシェアできなかったことが、今では情報技術(ネット環境や携帯デバイス)の発達によってその「コスト」が劇的に下がり、人々がごく自然にシェアを始められるようになった、ということです。ここまでは前提。
もう一つのポイントは「近さ」だと思います。これも「善良さ」とはあまり関係のないことです。どういうことかと言うと、私見では、ひとは「どのみちもともとやろうと思っていたこと」に関して、特にシェアへと動いていきます。どのみち赤ちゃんの服は誰かにあげようと思っていた→それならネットでほしがるひとにあげよう、とか、どのみち作業スペースが必要だと思っていた→それならひとと共同で使おう、とか、どのみちバカンス中は誰かに家を貸そうと思っていた→それなら世界中の旅行者に利用してもらおう、とか、そういうことです。「もう一歩」進むことができるのは、身近なことに関してのみです。いくら高尚な思想でも、それが「遠い」ものならひとを動かすことはできません。
この本を読み始める一ヶ月くらい前から、わたしは自分がネットでしている情報収集の一部をツイッターで発信し始めていました。それは「これを役立ててほしい」とかそういうことよりも(そうした気持ちが全くないわけではないですが)、どのみち情報収集はするし、しかもたまたまReederという非常に便利なアプリケーションを知ってまさに「コスト」(時間的・心理的コスト)が著しく下がった時期だったので、「発信してもしなくてもほとんど変わらない→じゃあ発信したほうが自分にも他人にも利益がありそうだ」ということで始めたのでした。これは先日の「問題13」のあとの議論とも関係していて、「たくさん映画を観てきたのだから映画評をネット上でアップしてほしい。あなたの知見をシェアさせてほしい」と言っても、相手がもともと映画評を書いていないのであれば、その一歩を踏み出すことに対するコストはとても大きく、いくら「シェア」のコストが低くてもそう簡単ではないのかもしれません。
長くなってすみません。こうした「シェア」の現状とそれに対するわたしの意見を前提として、まず、1)「シェア」にどのような可能性を認めるか/認めないか、さらに、2)どのようなものをシェアしたいか、これについては、2−1)「シェアさせてほしい」という他人に対する欲望/必要と、2−2)「シェアしてもらってかまわない」という自分の能力/習慣/所有物の両面で議論できればいいと思います。2に関してはわたしもさらに書きたいことがありますが、長くなったのでこのあたりまでを問題提起として、あとは議論で続けていきたいと思います。よろしくお願いします。
林立騎
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