「くそ勉強」ブログより転載。
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問題29 社会の構想
今回の「問題」はシンプルです。「日本社会をどうしたいか」について考えたい。
今回は、細かいアイディアではなく、その大元となる根本的なコンセプト、「社会理論」、「共同体の構想」を聞きたい。意識化して文章にしたことがあるかどうかはともかく、たとえば何かものを売る人なら「こういうものが売れる社会になってほしい」というようなかたちで、絵画や映画が好きな人なら「こういう絵/映画が生み出される/受け容れられる社会になってほしい」というようなかたちで、またデザインや編集をなりわいとする人は言うまでもなく、自分が理想とする社会像がどこかに育まれているはずです。
1)個人が抱く理想像と、2)その理想像における個人の役割、の関係も重要なポイントですが、今回はひとまず、その社会(を実現する過程)で自分がどのような役割を果たすか、という問題は度外視してよいことにしましょう。「そんなこと言ってお前になにかできるの?」というツッコミはなし、ということです。「我々は夢を見ることを恐れてはなりません」、なんてね。
そういうことは言葉で語れるものではなく、わたしにとっては作品としてしか表現できないものだ、という意見もあるかもしれない。しかしそれは両方必要わけだから、直接的な言葉は直接的な言葉でつくっていくべきだと考えます。
今回は、場合によっては一人の参加者につき一回しか書きこまないくらいでもいいかなと思います。刺激の頻度よりも質を大切にして、できれば一度で語り切ってほしいと思います。複数回で「連載」してもいいけどね。お互いの質問等のやり取りは、もちろん自由にやりましょう。
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さて、それではまずぼくから。
ぼくは日本社会における「時間」の感覚がもっと豊かになってほしい。豊かな時間感覚をもつ社会にしたい。そのためには、死んだひとを大切にすること、そして自分の未来を自分で決めることが大事だと考えます。
日本社会はいつからか、時間感覚が極めて貧弱な社会になってしまったと思う。たとえば、2回の原爆とその死者たち、被爆者/被曝者たちのことを忘れないことができていたら、原発のリスクを認識しつつそれを推進/看過することはできなかったのではなかろうか。
戦争に至った原因をエネルギー政策に求め、それを繰り返さないために戦後は原子力発電を推進したというのは事実だろうけど、それは「今生きているひと」のための考え方。「今生きているひと」のために動くと、必ず現実的な利害関係が生まれ、権益が生じ、物事が本来の理念と離れたところで自動化されてゆく。そもそも、理念の中にもすでにさまざまな思惑が入り込む。また、何が決定されても常に反転されうる。それは現在も変わらない。
他方、死んだひとは利害関係をもたず、次の選挙で投票もできない。あらゆる現実的な利害を離れた死者たちを媒介にすることでしか、共同体は成り立たないのではないかと思う。日本はさまざまな祭祀や能のような芸能において、「死者の側からものを見る」技術を伝統的に受け継いできた国。今回の震災では「復旧・復興」ばかりで、いまだ数も確定できない莫大な数の死んだひとたちをどう供養するか=これからの共同体の基盤になってもらうかという議論は聞かれない。それは死者が次の選挙で投票できないからだとぼくは思う。生きているひとしか投票できないから、生きているひとしか大事にされない。死んだひとよりも生き残っているひとのほうが多いから、生きているひとしか大事にされない。それでは利害争いが続くだけ。死んだひとに見せても恥ずかしくない世の中をつくるということが、日本でも可能な倫理ではないかと考える。
ところで、「時間」は過去と現在だけでなく、未来をもっている。ぼくは「死者」=過去との関係を変えると同時に、未来との関係も変えなければならないと思う。
たとえば、菅首相。彼が浜岡原発を止め、いわゆる「自然エネルギー」へのシフトを表明し、サミットで「2020年代の早い時期に『自然エネルギー』20%以上に」と宣言して支持されたけど、忘れてはいけないのは、彼は早ければあと1、2ヶ月、最長でもあと半年でいなくなる首相だということ。あと半年以内に権限も責任もすべて失うひとが、今後数年、あるいは数十年に影響を与える決定ができる(もしくは決定したような見せかけをつくれる)システムはおかしい。「2020年」なんて空虚にしか響かない。
原発政策のように、「政治家の寿命」と「政策の寿命」という二つの時間が決定的にずれてしまう場合は、そのうちいなくなる政治家に決定を委ねてはならないと思う。その決定が政策として実現するときも、決定を下したときと同じ立場にある人間しか、そうした決定はできないと思う。そして国政においてそのような決定主体は「国民」しかありえないから、ぼくは日本でも国民投票が実現することを期待する。未来は、未来において責任をとることのできる主体が決定すべきだ。
以上のように、ぼくは過去および未来との関係を再考、再構築したうえで、具体的で豊かな時間感覚をもつ日本社会にしたいと思う。
そのチャンスはインターネットにあると思う。大雑把に言えばインターネットは過去と現在と未来が同時にあらわれてくる空間だ。インターネット空間を、死者と生者と未来の子供が混じり合う場、あるいはそれらの区別が融け合う場にすることが、社会の時間感覚にとってひとつの可能性ではないかと考える。
最後に、自分の考えに含まれている問題点を自分で指摘する。
1)死者は「悪用」できる。死者の声を「代弁する」とき、そこには「悪用」の可能性が生まれる。たとえば、「死者は原発に反対するはずだ」という理屈が成り立つとき、同様に「死者はアメリカに復讐するために日本が軍事大国になることを望んでいるはずだ」という理屈も原理的に成り立つ。すると、死者を基盤とするといっても、死者を基盤とするためのさらなる基盤が必要なのか、という議論になり、これは永遠にメタ化されてしまう。これにどう答えるか。
2)結局のところ政治家や官僚やシステムをどこからどうやって変えればいいのか。
以上、荒っぽい議論だが、ぼくの「時間社会論」の素描としたい。ご意見、ご感想ぜひください。
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というわけで、文量はどうでもいいし、ぼくみたいに政治のこととか絡める必要はまったくないから、とにかく自分の専門分野を相手にするのではなく、「社会」みたいな大きな相手に向かって語る言葉を出してもらえたら嬉しいです。
今回は盛り上がらなくてもいいと思う。じっくり練った「本気」を見たい。いつも通り飛び入りの参加も歓迎です。それではよろしく。
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