2011年6月3日金曜日

6/2 不信任・死者・演劇

 今日のニュースと演劇。

1. 内閣不信任決議案 反対多数で否決

 1)NHK:不信任決議案 反対多数で否決
 2)毎日新聞:内閣不信任案:2日のドキュメント
 3)毎日新聞:内閣不信任案:菅首相、年明けの退陣可能性を示唆


 内閣不信任案提出という事態になったからには、わたしは解散・総選挙が望ましいと考えていた。被災地はそれどころではないという意見もある。しかし被災地にとって、現在の内閣が行政を執り仕切り続けることが本当にベストなのか。今は政治どころではない、とはわたしは考えない。今しか変えられない政治があるはずだ。今しか見えない、動かせない物事の本質があるはずだ。

 しかし結局は一政党内の茶番に収束してしまった。今日という日を震災後の日本の象徴にしたくない。

 それにしても、いつまでたっても菅首相は「復旧・復興」の一点張りだ。彼は東日本大震災の犠牲者のことを一国の首相として一度でも真摯に考えたことがあるのだろうか。相変わらず「死者1万5300人、行方不明者8300人」という中途半端な発表。生者の生活はもちろん重要だ。しかしあまりにも死者に目が向けられていない。「復旧・復興」は生者のため。生者は次の選挙のため。「死者の立場からものごとを見る」ことが日本の倫理の一端を担ってきたとするならば、その消滅も極まった感がある。

 ところで、死者との関わり方について、ひとつ提案がある。

 今後、福島原発の周辺は半永久的な立入禁止区域になるだろう。ただ、一年に一度でも、一瞬でも入ったら害が出るということにはならないだろうし、ならないと期待する。であるならば、たとえば一年に一度、天皇、国会議員、自治体の首長、国家公務員、かつての住民、そしてその他の希望者が、各人の責任のもとに、原発周辺の立入禁止区域に集まり、祭、儀式、演劇、なんと呼んでもよいが、喪に服し鎮魂に捧げる時間をつくる、というのはどうだろう。その様子はテレビとインターネットで日本および全世界に中継する。

 演劇は墓地でこそ行われるべきだ。ひとは墓地に向かい、墓地から戻ってくることで、共同性と倫理性を更新する。金はかけない。劇場も、神社も、記念碑も必要ない。あの原発が残っているだろう。そこで放射性物質を浴びながら、地震と津波と原発事故のことを思い出す。遠くの人間もそれを見る。死者には生臭さがない。死者は次の選挙で投票できないし、消費も投資もしない。死者を通じてひととつながり、襟を正し、時間を更新することは、特殊利害から可能な限り隔たった共同性と倫理性の可能性として、きわめて合理的だと考える。

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