最近では、毎日更新している「演劇的ニュース」(日付が入っている記事)でも、「共同体」、「コミュニティ」、「公共性」といったものを問題とすることが多い。
ただやはり、ギリシア悲劇だのポストドラマ演劇だのと言っていても、少し遠すぎるという感覚が常にある。日本の現状を考察し更新していくためのアイディアに熟すような種ではまだない。
これまで2回で論じてきた「コロス」について、また「個人と集団の関係」や「純粋な観客など存在しない」という観点、さらには「観客をコロスとして組織する演劇」に対する関心を、来週からの残り2回でもう少し日本の文脈に引き寄せて考えてみたい。
2011年5月18日水曜日
2011年5月10日火曜日
演劇理論(2)
「ポストドラマ演劇」と呼ばれる状況の中で、コロス(合唱隊)はふたたび注目を集めている。「ポストドラマ演劇において、コロスの回帰が生じているのは動かしがたい事実である」(レーマン『ポストドラマ演劇』、邦訳172頁)。ではどのような意味において「回帰が生じている」のだろうか。
レーマンの『ポストドラマ演劇』においても、フィッシャー=リヒテの『演劇理論事典』(「コロス」の項の執筆はウルリケ・ハス)においても、近年の演劇でコロスを革新した演出家として、アイナー・シュレーフの名が挙げられている。曰く、
シュレーフは近代的な個人と集団の関係性をコロス演劇によって問い直した。具体的には、「コロス的なもの」が含まれていると彼が解釈した戯曲を、もともとの登場人物の指示とは関係なく、集団の合唱を取り入れて演出したのである。『母たち』や『スポーツ劇』の演出が特に知られている。
シュレーフが行ったことは、「近代的な個人と集団の関係性」を揺るがすほど強烈な舞台を、舞台上につくることだった。演劇を「知覚の政治学」と捉えるレーマンはこれを高く評価する。しかしそこからさらにもう一歩歩みを進めた演劇実践をわたしたちはすでに目にしているのではなかろうか。それは直接「観客の組織」に向かっている演劇である。
前回書いたように、古代ギリシャのコロスは一般市民であり、見物席の観客とコロスを演じる者たちのあいだには実は明確な境界線がなかった。言い方を変えれば、純粋な観客などというものは存在しなかった。彼らは常にコロス/観客であり観客/コロスだった。この視点から、現代演劇の一部を「観客をコロスとして組織する演劇」として考察する可能性が生まれる。次回はそれについて論じたい。
[続く]
レーマンの『ポストドラマ演劇』においても、フィッシャー=リヒテの『演劇理論事典』(「コロス」の項の執筆はウルリケ・ハス)においても、近年の演劇でコロスを革新した演出家として、アイナー・シュレーフの名が挙げられている。曰く、
近代のドラマが古代のコロスと縁を切ったのは、集団と個人との相互関係を忘れようとしたからだ、とシュレーフはいう。市民的な個の誕生は、市民としての主体の成立を最大限に可能にするために、集合的現実性に結ばれていたへその緒を切り離した。ゆえに新しい演劇形式は、「コロス/個人軸」に関する基本モデルがなお維持されているような残余とその遅延された形姿にこそ、結びついているのだ。 [前掲書、174頁]
集団で麻薬を摂取することにより、共同体が創設される、もしくは更新される。コロスの組織原理としての麻薬は、したがって、関係性の構築と組織において、血縁関係の代替となる原理なのである。 [Metzler Lexikon Theatertheorie, S. 51]
シュレーフは近代的な個人と集団の関係性をコロス演劇によって問い直した。具体的には、「コロス的なもの」が含まれていると彼が解釈した戯曲を、もともとの登場人物の指示とは関係なく、集団の合唱を取り入れて演出したのである。『母たち』や『スポーツ劇』の演出が特に知られている。
シュレーフが行ったことは、「近代的な個人と集団の関係性」を揺るがすほど強烈な舞台を、舞台上につくることだった。演劇を「知覚の政治学」と捉えるレーマンはこれを高く評価する。しかしそこからさらにもう一歩歩みを進めた演劇実践をわたしたちはすでに目にしているのではなかろうか。それは直接「観客の組織」に向かっている演劇である。
前回書いたように、古代ギリシャのコロスは一般市民であり、見物席の観客とコロスを演じる者たちのあいだには実は明確な境界線がなかった。言い方を変えれば、純粋な観客などというものは存在しなかった。彼らは常にコロス/観客であり観客/コロスだった。この視点から、現代演劇の一部を「観客をコロスとして組織する演劇」として考察する可能性が生まれる。次回はそれについて論じたい。
[続く]
2011年5月4日水曜日
クライスト(1)
次の論文では「コロス」をキーワードにクライストの「演劇理論」について論じる。
クライストの民衆=コロスは、「声」をあげることによって秩序を破壊し、国家を代替する集合体である。秩序を破壊するコロス。主人公に対するコロスの優位という要素。
クライストはなぜそんな構想を抱いたのか。それはどのような思想から出てきたのか。また彼はいかにしてそれを実現しようとしたのか。短編小説における群集のような、コロスとして明示されない場合も考察の対象とする。
出発点はレーマンの論文とHandbuch。来週までに論点と文献を整理する。
クライストの民衆=コロスは、「声」をあげることによって秩序を破壊し、国家を代替する集合体である。秩序を破壊するコロス。主人公に対するコロスの優位という要素。
クライストはなぜそんな構想を抱いたのか。それはどのような思想から出てきたのか。また彼はいかにしてそれを実現しようとしたのか。短編小説における群集のような、コロスとして明示されない場合も考察の対象とする。
出発点はレーマンの論文とHandbuch。来週までに論点と文献を整理する。
2011年5月3日火曜日
演劇理論(1)
欧米や日本で上演されている現代演劇の起源が、古代ギリシャ演劇にあることは、誰もが認めることだろう。
古代ギリシャ演劇は、喜劇も悲劇も、「コロス」という合唱隊を登場人物のなかに組み込んでいた。というか、この合唱隊こそが演劇の出発点だったと考えられている。「個人」の主人公たちが物語を繰り広げる以前に、「集団」の舞踊と合唱があった。
ところで、ギリシャ演劇のこの「コロス」を務めたのが、アテネの一般市民だったことは、それほど知られていない。現代の日本であれば、「裁判員制度」のようなものだったと考えていいだろう。
古代ギリシャの演劇祭は国家行事だったから、このような制度も可能だった。「コロス」としてデビューした市民は毎年219人。「市民」とは成年男子をのみを指し、その総数は紀元前4〜5世紀のアテネで約3万人ほどだったようだ。一方で裕福な市民は、演劇祭のために「コロス」が稽古をするときの休業補償や謝礼を出す義務を負っていた。この義務を「コレゴス」という。金のある者は金を出し、一般市民は舞台に上がったということだ。
したがって、その起源において演劇は、以下のような特徴を備えていた。
① 国家行事/共同体の祭りだった
② 一般市民が参加した
③ 一般市民同士で「見る/見られる」関係があった
④ 「コンテスト形式」の採用によって、政治プロセスに似たものだった
⑤ 娯楽だった
選挙にも似たところがあるし、ツイッターにも似ている。まずは演劇の起源がこうしたものであることを確認して、これから何回か「演劇理論」について書きたい。演劇は今では芸術の一分野に過ぎず、芸術も社会のごく小さな一部門に過ぎない。しかし以上のような起源に照らせば、現在「演劇」と呼ばれているイベントよりも、選挙やツイッターの方がずっと正しい演劇だ、と主張することもできるのである。
古代ギリシャ演劇は、喜劇も悲劇も、「コロス」という合唱隊を登場人物のなかに組み込んでいた。というか、この合唱隊こそが演劇の出発点だったと考えられている。「個人」の主人公たちが物語を繰り広げる以前に、「集団」の舞踊と合唱があった。
ところで、ギリシャ演劇のこの「コロス」を務めたのが、アテネの一般市民だったことは、それほど知られていない。現代の日本であれば、「裁判員制度」のようなものだったと考えていいだろう。
コロスの選抜過程は不明だが、おそらく演劇祭の実行委員長である筆頭執政官が、市民全員が平等に演じる機会をもつような持ち回り制度にしたがって指名したと思われる。(山形治江『ギリシャ劇大全』、論創社、2010年、53頁)
古代ギリシャの演劇祭は国家行事だったから、このような制度も可能だった。「コロス」としてデビューした市民は毎年219人。「市民」とは成年男子をのみを指し、その総数は紀元前4〜5世紀のアテネで約3万人ほどだったようだ。一方で裕福な市民は、演劇祭のために「コロス」が稽古をするときの休業補償や謝礼を出す義務を負っていた。この義務を「コレゴス」という。金のある者は金を出し、一般市民は舞台に上がったということだ。
コロスの参加義務によって、演劇は市民にとって非常に身近な存在だった。しかも当時は地縁血縁の結束が強かったから、親戚、隣人、友人など知人のだれかは常に舞台デビューを果たしていただろう。「あれが俺の叔父さんだ」「今年は隣の息子が出るぞ」などと客席も大いに盛り上がったにちがいない。(前掲書、53頁)
したがって、その起源において演劇は、以下のような特徴を備えていた。
① 国家行事/共同体の祭りだった
② 一般市民が参加した
③ 一般市民同士で「見る/見られる」関係があった
④ 「コンテスト形式」の採用によって、政治プロセスに似たものだった
⑤ 娯楽だった
選挙にも似たところがあるし、ツイッターにも似ている。まずは演劇の起源がこうしたものであることを確認して、これから何回か「演劇理論」について書きたい。演劇は今では芸術の一分野に過ぎず、芸術も社会のごく小さな一部門に過ぎない。しかし以上のような起源に照らせば、現在「演劇」と呼ばれているイベントよりも、選挙やツイッターの方がずっと正しい演劇だ、と主張することもできるのである。
2011年3月3日木曜日
クライストのコロス
仕事のためにレーマンのハイナー・ミュラー論「モノローグとコロスのあいだで ハイナー・ミュラーのドラマトゥルギー」を読み進め、次のクライスト論でも「コロス」は重要なポイントになるなとヒントを得た。
クライストの作中に出てくるコロスもしくは民衆は、アリストテレスやシラーやシュレーゲルの定義するコロスとはだいぶ違う。クライストのデビュー作『シュロッフェンシュタイン一族』はコロスの場面から始まるが、それは少年少女からなるコロスで、しかも呪詛の言葉で復讐を誓う。戯曲の冒頭から少年たちが「復讐だ! 復讐だ! 復讐だ!」とか言う。これはいわゆる「客観的審級」とも「理想的観客」ともだいぶ違う。
それにしてもコロスに関する日本語の研究書がないことに驚いた。日本のギリシア劇研究がどうなっているのか全然知らないが、大丈夫なのだろうか。他方、ドイツ語に関しては、ここ何十年かの演劇がテクストにおいても上演においてもコロスを重視してきたためだと思われるが、いくつかあるようだ。『アイナー・シュレーフのコロス演劇』とか。
コロスに関する基礎的な知識さえあやういので判断がつかないのだが、わたしがすでに知っている演劇理論でコロスに関してもっとも興味深いのは、ベンヤミンの『ドイツ悲劇の根源』における以下の部分だ。
クライストが取り組んだのはまさに「裁判としての演劇」だった。その中でのコロスの役割については、一つの定義を見つけようとするよりも、ベンヤミンに倣って複数の「あらわれ方」を記録しながら考えたほうがいいのかもしれない。実際、コロスを構成するひとびとも様々だし、発言や行動の内容も場合によって違うから、無理矢理まとめようとするとクライストを貧しくしてしまいそうだ。
演劇、裁判、声、民衆、秩序の動揺と再構築。このあたりが論文では問題になるのだが、どこからどう取り組んだらいいのか、まださっぱりわからない。しかしクライストがわたしにとってfood for thoughtの塊であることはたしかだ。実際のところ、民衆の声が法的秩序を揺るがすことを、わたしたちはどう考えたらいいのだろう?
クライストの作中に出てくるコロスもしくは民衆は、アリストテレスやシラーやシュレーゲルの定義するコロスとはだいぶ違う。クライストのデビュー作『シュロッフェンシュタイン一族』はコロスの場面から始まるが、それは少年少女からなるコロスで、しかも呪詛の言葉で復讐を誓う。戯曲の冒頭から少年たちが「復讐だ! 復讐だ! 復讐だ!」とか言う。これはいわゆる「客観的審級」とも「理想的観客」ともだいぶ違う。
それにしてもコロスに関する日本語の研究書がないことに驚いた。日本のギリシア劇研究がどうなっているのか全然知らないが、大丈夫なのだろうか。他方、ドイツ語に関しては、ここ何十年かの演劇がテクストにおいても上演においてもコロスを重視してきたためだと思われるが、いくつかあるようだ。『アイナー・シュレーフのコロス演劇』とか。
コロスに関する基礎的な知識さえあやういので判断がつかないのだが、わたしがすでに知っている演劇理論でコロスに関してもっとも興味深いのは、ベンヤミンの『ドイツ悲劇の根源』における以下の部分だ。
古典古代の訴訟――とりわけ刑事訴訟――は、原告と被告という二つの役割だけに立脚し、裁判官による審理手続きを欠いていたがゆえに、対話である。古典古代の訴訟は合唱隊をもっていて、これは、一部は誓言保証人のなかに[…]、また一部は裁判に対して慈悲を嘆願する被告の盟友たちの一団のなかに、そして最後の一部は、裁きを下す人民集会のなかにあった。[…]ギリシア悲劇は、訴訟手続きのこのイメージのなかに入ってくる。ギリシア悲劇においても、ひとつの調停審理が行われるのである。[…]劇作家の意識において神話が審理なのだとするなら、彼の作品は、その審理の写しであると同時に再審でもある。そして、この訴訟全体が、円形劇場の広がりの分だけ膨らんだ、この再審には、共同体が監督機関として、いやそれどころか、裁きを司る機関として臨席する。共同体の側では、和解について裁定しようとし、この和解の説明のなかで劇作家は、英雄たちの事蹟の記憶を更新するのである。だが、ギリシア悲劇の結末にはつねに、<証拠不十分>という響きがまじっている。[…]悲劇のまえかあとに演じられるサテュロス劇は、上演された訴訟のこの<証拠不十分>の結末に対する準備もしくは応答をなしうるのはただ喜劇による感情の高揚だけである、ということの典型的な現われなのだ。 [ちくま学芸文庫、上巻248-250頁]
クライストが取り組んだのはまさに「裁判としての演劇」だった。その中でのコロスの役割については、一つの定義を見つけようとするよりも、ベンヤミンに倣って複数の「あらわれ方」を記録しながら考えたほうがいいのかもしれない。実際、コロスを構成するひとびとも様々だし、発言や行動の内容も場合によって違うから、無理矢理まとめようとするとクライストを貧しくしてしまいそうだ。
演劇、裁判、声、民衆、秩序の動揺と再構築。このあたりが論文では問題になるのだが、どこからどう取り組んだらいいのか、まださっぱりわからない。しかしクライストがわたしにとってfood for thoughtの塊であることはたしかだ。実際のところ、民衆の声が法的秩序を揺るがすことを、わたしたちはどう考えたらいいのだろう?
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