2011年3月7日月曜日
「真理と裁判形態」
以前読んだときは重要性を理解できていなかったが、フーコーの「真理と裁判形態」は非常に面白く、また重要な講演であることがわかった。特に演劇理論と演劇史に興味があるなら必読だろう。ベンヤミンは演劇の原型を裁判に求めたようだけど、その方向にさらなる通路を開いてくれる論考。ギリシア悲劇とコロスについて調べようと思って再読し始めたのだが、クライスト研究の(複数の)核心のひとつになりそうだ。今後も読み返す。
2011年3月3日木曜日
クライストのコロス
仕事のためにレーマンのハイナー・ミュラー論「モノローグとコロスのあいだで ハイナー・ミュラーのドラマトゥルギー」を読み進め、次のクライスト論でも「コロス」は重要なポイントになるなとヒントを得た。
クライストの作中に出てくるコロスもしくは民衆は、アリストテレスやシラーやシュレーゲルの定義するコロスとはだいぶ違う。クライストのデビュー作『シュロッフェンシュタイン一族』はコロスの場面から始まるが、それは少年少女からなるコロスで、しかも呪詛の言葉で復讐を誓う。戯曲の冒頭から少年たちが「復讐だ! 復讐だ! 復讐だ!」とか言う。これはいわゆる「客観的審級」とも「理想的観客」ともだいぶ違う。
それにしてもコロスに関する日本語の研究書がないことに驚いた。日本のギリシア劇研究がどうなっているのか全然知らないが、大丈夫なのだろうか。他方、ドイツ語に関しては、ここ何十年かの演劇がテクストにおいても上演においてもコロスを重視してきたためだと思われるが、いくつかあるようだ。『アイナー・シュレーフのコロス演劇』とか。
コロスに関する基礎的な知識さえあやういので判断がつかないのだが、わたしがすでに知っている演劇理論でコロスに関してもっとも興味深いのは、ベンヤミンの『ドイツ悲劇の根源』における以下の部分だ。
クライストが取り組んだのはまさに「裁判としての演劇」だった。その中でのコロスの役割については、一つの定義を見つけようとするよりも、ベンヤミンに倣って複数の「あらわれ方」を記録しながら考えたほうがいいのかもしれない。実際、コロスを構成するひとびとも様々だし、発言や行動の内容も場合によって違うから、無理矢理まとめようとするとクライストを貧しくしてしまいそうだ。
演劇、裁判、声、民衆、秩序の動揺と再構築。このあたりが論文では問題になるのだが、どこからどう取り組んだらいいのか、まださっぱりわからない。しかしクライストがわたしにとってfood for thoughtの塊であることはたしかだ。実際のところ、民衆の声が法的秩序を揺るがすことを、わたしたちはどう考えたらいいのだろう?
クライストの作中に出てくるコロスもしくは民衆は、アリストテレスやシラーやシュレーゲルの定義するコロスとはだいぶ違う。クライストのデビュー作『シュロッフェンシュタイン一族』はコロスの場面から始まるが、それは少年少女からなるコロスで、しかも呪詛の言葉で復讐を誓う。戯曲の冒頭から少年たちが「復讐だ! 復讐だ! 復讐だ!」とか言う。これはいわゆる「客観的審級」とも「理想的観客」ともだいぶ違う。
それにしてもコロスに関する日本語の研究書がないことに驚いた。日本のギリシア劇研究がどうなっているのか全然知らないが、大丈夫なのだろうか。他方、ドイツ語に関しては、ここ何十年かの演劇がテクストにおいても上演においてもコロスを重視してきたためだと思われるが、いくつかあるようだ。『アイナー・シュレーフのコロス演劇』とか。
コロスに関する基礎的な知識さえあやういので判断がつかないのだが、わたしがすでに知っている演劇理論でコロスに関してもっとも興味深いのは、ベンヤミンの『ドイツ悲劇の根源』における以下の部分だ。
古典古代の訴訟――とりわけ刑事訴訟――は、原告と被告という二つの役割だけに立脚し、裁判官による審理手続きを欠いていたがゆえに、対話である。古典古代の訴訟は合唱隊をもっていて、これは、一部は誓言保証人のなかに[…]、また一部は裁判に対して慈悲を嘆願する被告の盟友たちの一団のなかに、そして最後の一部は、裁きを下す人民集会のなかにあった。[…]ギリシア悲劇は、訴訟手続きのこのイメージのなかに入ってくる。ギリシア悲劇においても、ひとつの調停審理が行われるのである。[…]劇作家の意識において神話が審理なのだとするなら、彼の作品は、その審理の写しであると同時に再審でもある。そして、この訴訟全体が、円形劇場の広がりの分だけ膨らんだ、この再審には、共同体が監督機関として、いやそれどころか、裁きを司る機関として臨席する。共同体の側では、和解について裁定しようとし、この和解の説明のなかで劇作家は、英雄たちの事蹟の記憶を更新するのである。だが、ギリシア悲劇の結末にはつねに、<証拠不十分>という響きがまじっている。[…]悲劇のまえかあとに演じられるサテュロス劇は、上演された訴訟のこの<証拠不十分>の結末に対する準備もしくは応答をなしうるのはただ喜劇による感情の高揚だけである、ということの典型的な現われなのだ。 [ちくま学芸文庫、上巻248-250頁]
クライストが取り組んだのはまさに「裁判としての演劇」だった。その中でのコロスの役割については、一つの定義を見つけようとするよりも、ベンヤミンに倣って複数の「あらわれ方」を記録しながら考えたほうがいいのかもしれない。実際、コロスを構成するひとびとも様々だし、発言や行動の内容も場合によって違うから、無理矢理まとめようとするとクライストを貧しくしてしまいそうだ。
演劇、裁判、声、民衆、秩序の動揺と再構築。このあたりが論文では問題になるのだが、どこからどう取り組んだらいいのか、まださっぱりわからない。しかしクライストがわたしにとってfood for thoughtの塊であることはたしかだ。実際のところ、民衆の声が法的秩序を揺るがすことを、わたしたちはどう考えたらいいのだろう?
2011年3月1日火曜日
「内なる声」
3月になったということで、ブログも徐々に再開。
村上春樹のインタビュー集『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』を毎晩少しずつ読んでいる。
走ることに関する発言が興味深い。
村上春樹は自分で自分のコーチとなり、トレーニングを続ける。
わたしはヴァルター・ベンヤミンが執筆中の著作をまるで独自の生命をもった植物のように注意深く扱っていたことを思い出す(野村修『ベンヤミンの生涯』)。
「わたし」や「わたしのつくっている物」を自分から分離し、外部化し、対象化し、批評しながら変形させていくタイプの人びと。
彼らは「わたし」を複数化する。批評する「わたし」と批評される「わたし」。つくる「わたし」とつくられる「わたしの物」。そのあいだに働く自己フィードバックシステム。それは「内なる声」の独自なシステムだ。
「わたし」を外部化するからこそ、彼らの作業はプライベートなだけでなく同時にパブリックになっていく。「わたし」と付き合っているにもかかわらず、「わたし」の範囲を超えていく。
忙しくなったり何かに心を支配されると「内なる声」は止んでしまう。「内なる声」をもち、内部のフィードバックシステムを洗練できることは、人間の特権の一つだと思う。プライベートにおいても大切だし、パブリックな物事にとっても不可欠だ。逆に言えば、人びとの「内なる声」が止まざるをえないような状態を、わたしは人権の保障されていない状態と呼びたい。
そんなわけで、ひとにも役立つ内なる声にすべく、今後はもう少し頻繁にブログを更新する。
インタビュー集のなかで村上春樹が、「ベテランランナーかどうかはすぐにわかる。走り始めたばかりのひとは呼吸が浅い。ベテランは深く息をする」という意味のことを言っていて、これは文章を書くことにもあてはまると思う。しかしともかくトレーニングを始めないことにはどうしようもない。
村上春樹のインタビュー集『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』を毎晩少しずつ読んでいる。
走ることに関する発言が興味深い。
僕が学んだのは、どれくらいのものを自分に求めることができるか、いつ休息が必要なのか、休みすぎになる境目はどこか、といったことです。つまり、どれだけ厳しく、どこまで自分を追い込めるのかがわかったのです。 [423頁]
村上春樹は自分で自分のコーチとなり、トレーニングを続ける。
わたしはヴァルター・ベンヤミンが執筆中の著作をまるで独自の生命をもった植物のように注意深く扱っていたことを思い出す(野村修『ベンヤミンの生涯』)。
「わたし」や「わたしのつくっている物」を自分から分離し、外部化し、対象化し、批評しながら変形させていくタイプの人びと。
彼らは「わたし」を複数化する。批評する「わたし」と批評される「わたし」。つくる「わたし」とつくられる「わたしの物」。そのあいだに働く自己フィードバックシステム。それは「内なる声」の独自なシステムだ。
「わたし」を外部化するからこそ、彼らの作業はプライベートなだけでなく同時にパブリックになっていく。「わたし」と付き合っているにもかかわらず、「わたし」の範囲を超えていく。
忙しくなったり何かに心を支配されると「内なる声」は止んでしまう。「内なる声」をもち、内部のフィードバックシステムを洗練できることは、人間の特権の一つだと思う。プライベートにおいても大切だし、パブリックな物事にとっても不可欠だ。逆に言えば、人びとの「内なる声」が止まざるをえないような状態を、わたしは人権の保障されていない状態と呼びたい。
そんなわけで、ひとにも役立つ内なる声にすべく、今後はもう少し頻繁にブログを更新する。
インタビュー集のなかで村上春樹が、「ベテランランナーかどうかはすぐにわかる。走り始めたばかりのひとは呼吸が浅い。ベテランは深く息をする」という意味のことを言っていて、これは文章を書くことにもあてはまると思う。しかしともかくトレーニングを始めないことにはどうしようもない。
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