2011年6月14日火曜日

6/14 [雑記]ブログは…

 育児と翻訳と研究に追われてなかなかブログを更新できません。

 先月はかなりアウトプットを意識しました。そのぶん今月はインプットを増やしてもいいな、と思います。

6/13 社会の構想

 「くそ勉強」ブログより転載。

ーーーーーーーーーー

問題29 社会の構想

 今回の「問題」はシンプルです。「日本社会をどうしたいか」について考えたい。

 今回は、細かいアイディアではなく、その大元となる根本的なコンセプト、「社会理論」、「共同体の構想」を聞きたい。意識化して文章にしたことがあるかどうかはともかく、たとえば何かものを売る人なら「こういうものが売れる社会になってほしい」というようなかたちで、絵画や映画が好きな人なら「こういう絵/映画が生み出される/受け容れられる社会になってほしい」というようなかたちで、またデザインや編集をなりわいとする人は言うまでもなく、自分が理想とする社会像がどこかに育まれているはずです。

 1)個人が抱く理想像と、2)その理想像における個人の役割、の関係も重要なポイントですが、今回はひとまず、その社会(を実現する過程)で自分がどのような役割を果たすか、という問題は度外視してよいことにしましょう。「そんなこと言ってお前になにかできるの?」というツッコミはなし、ということです。「我々は夢を見ることを恐れてはなりません」、なんてね。

 そういうことは言葉で語れるものではなく、わたしにとっては作品としてしか表現できないものだ、という意見もあるかもしれない。しかしそれは両方必要わけだから、直接的な言葉は直接的な言葉でつくっていくべきだと考えます。

 今回は、場合によっては一人の参加者につき一回しか書きこまないくらいでもいいかなと思います。刺激の頻度よりも質を大切にして、できれば一度で語り切ってほしいと思います。複数回で「連載」してもいいけどね。お互いの質問等のやり取りは、もちろん自由にやりましょう。

**********

 さて、それではまずぼくから。

 ぼくは日本社会における「時間」の感覚がもっと豊かになってほしい。豊かな時間感覚をもつ社会にしたい。そのためには、死んだひとを大切にすること、そして自分の未来を自分で決めることが大事だと考えます。

 日本社会はいつからか、時間感覚が極めて貧弱な社会になってしまったと思う。たとえば、2回の原爆とその死者たち、被爆者/被曝者たちのことを忘れないことができていたら、原発のリスクを認識しつつそれを推進/看過することはできなかったのではなかろうか。

 戦争に至った原因をエネルギー政策に求め、それを繰り返さないために戦後は原子力発電を推進したというのは事実だろうけど、それは「今生きているひと」のための考え方。「今生きているひと」のために動くと、必ず現実的な利害関係が生まれ、権益が生じ、物事が本来の理念と離れたところで自動化されてゆく。そもそも、理念の中にもすでにさまざまな思惑が入り込む。また、何が決定されても常に反転されうる。それは現在も変わらない。

 他方、死んだひとは利害関係をもたず、次の選挙で投票もできない。あらゆる現実的な利害を離れた死者たちを媒介にすることでしか、共同体は成り立たないのではないかと思う。日本はさまざまな祭祀や能のような芸能において、「死者の側からものを見る」技術を伝統的に受け継いできた国。今回の震災では「復旧・復興」ばかりで、いまだ数も確定できない莫大な数の死んだひとたちをどう供養するか=これからの共同体の基盤になってもらうかという議論は聞かれない。それは死者が次の選挙で投票できないからだとぼくは思う。生きているひとしか投票できないから、生きているひとしか大事にされない。死んだひとよりも生き残っているひとのほうが多いから、生きているひとしか大事にされない。それでは利害争いが続くだけ。死んだひとに見せても恥ずかしくない世の中をつくるということが、日本でも可能な倫理ではないかと考える。

 ところで、「時間」は過去と現在だけでなく、未来をもっている。ぼくは「死者」=過去との関係を変えると同時に、未来との関係も変えなければならないと思う。

 たとえば、菅首相。彼が浜岡原発を止め、いわゆる「自然エネルギー」へのシフトを表明し、サミットで「2020年代の早い時期に『自然エネルギー』20%以上に」と宣言して支持されたけど、忘れてはいけないのは、彼は早ければあと1、2ヶ月、最長でもあと半年でいなくなる首相だということ。あと半年以内に権限も責任もすべて失うひとが、今後数年、あるいは数十年に影響を与える決定ができる(もしくは決定したような見せかけをつくれる)システムはおかしい。「2020年」なんて空虚にしか響かない。

 原発政策のように、「政治家の寿命」と「政策の寿命」という二つの時間が決定的にずれてしまう場合は、そのうちいなくなる政治家に決定を委ねてはならないと思う。その決定が政策として実現するときも、決定を下したときと同じ立場にある人間しか、そうした決定はできないと思う。そして国政においてそのような決定主体は「国民」しかありえないから、ぼくは日本でも国民投票が実現することを期待する。未来は、未来において責任をとることのできる主体が決定すべきだ。

 以上のように、ぼくは過去および未来との関係を再考、再構築したうえで、具体的で豊かな時間感覚をもつ日本社会にしたいと思う。

 そのチャンスはインターネットにあると思う。大雑把に言えばインターネットは過去と現在と未来が同時にあらわれてくる空間だ。インターネット空間を、死者と生者と未来の子供が混じり合う場、あるいはそれらの区別が融け合う場にすることが、社会の時間感覚にとってひとつの可能性ではないかと考える。

 最後に、自分の考えに含まれている問題点を自分で指摘する。

 1)死者は「悪用」できる。死者の声を「代弁する」とき、そこには「悪用」の可能性が生まれる。たとえば、「死者は原発に反対するはずだ」という理屈が成り立つとき、同様に「死者はアメリカに復讐するために日本が軍事大国になることを望んでいるはずだ」という理屈も原理的に成り立つ。すると、死者を基盤とするといっても、死者を基盤とするためのさらなる基盤が必要なのか、という議論になり、これは永遠にメタ化されてしまう。これにどう答えるか。

 2)結局のところ政治家や官僚やシステムをどこからどうやって変えればいいのか。

 以上、荒っぽい議論だが、ぼくの「時間社会論」の素描としたい。ご意見、ご感想ぜひください。

**********

 というわけで、文量はどうでもいいし、ぼくみたいに政治のこととか絡める必要はまったくないから、とにかく自分の専門分野を相手にするのではなく、「社会」みたいな大きな相手に向かって語る言葉を出してもらえたら嬉しいです。

 今回は盛り上がらなくてもいいと思う。じっくり練った「本気」を見たい。いつも通り飛び入りの参加も歓迎です。それではよろしく。

2011年6月6日月曜日

6/6 [読書]「デモ」1

悲劇は、古典期Athenaiにおいてジャンルというよりもむしろ公式の政治制度として確立されるに至る 
[木庭顕『デモクラシーの古典的基礎』、184頁]

6/6 [育児]いろぐろ

 あらたは黒い。疑いの余地がない。

 昨今の赤ちゃんはみんなたいへん白い。これはなぜだろう。ほんとうに不思議だ。

 わたしの妻は地黒で、日焼けに気をつけている。わたしは黄色い。

 ドイツに留学していた当時、ドイツ人に、「これまで『黄色人種』といっても、たとえば日本人のどこが黄色いのかまったくわからなかったが、お前を見て初めて意味がわかった」と言われたことがある。ほめられたのではないらしかったが、なんらかの認識をうながしたらしい。

 昨今の赤ちゃんはみな色が白くて、髪の毛が多い。あらたは黒くて、髪が薄い。

 『育児の百科』の「2ヶ月」の項には、「この時期ほとんどの赤ちゃんが最初の散髪をする」と書いてあるが、昨日2ヶ月を迎えたかれは、おそらくあと半年は散髪の必要がない。そしてそんなかれの母親は、なんと美容師なのである。


6/6 [育児]ものまね

 あらたは「ものまねされること」が好きらしい。これは子供一般にあてはまるのだろうか。

 機嫌がいいとき、かれの「あーう」もしくは「ばーぶ」というひとりごとをこちらがまねすると、よく笑う。

 泣いても、こちらがまねして泣き声をあげると、よく泣きやむ。

 動物は「ものまね」から多くを学ぶと思うけど、それが次代に確実に伝わるよう、「ものまねされること」が心地よいというプログラムも備わっているのだろうか。

 「ものまねすること」が好き、よりも、「ものまねされること」が好き、のほうが興味深い。


6/6 [研究]次の論文

 クライストの『ロベール・ギスカール』を採りあげて、「クライストにおける政治」をテーマにした論文を書こうと考え、『ギスカール』を再読したが、この作品だけで論じるのは難しいかもしれない。

 クライストにおける「カタストロフ」と「民主制」の関係。そこに「演劇」と「死者たち」がどう関わるのか。つまりクライストとギリシャ悲劇、ということにもなる。さらにはクライストとそれらの問題の距離が、クライストと彼が直面していた現実との関係にどのように関わっているのかも無視できない。

 クライストは何らかの理念を基盤とした民主制を構想していない。大地はつねに揺れているし、おそらく揺れているしかない。そこに成り立つ独自の秩序の核には、「ひとつのものが同時に複数である」ことが関わっている。だからルソーが重要になる。クライストはルソーと同様、理念よりも関係性のありようを問題にしている。クライストをナショナリズムやファシズムで切ってしまうのは、1)彼には理念よりも大事なものがあった、2)ひとつの理念が読み取られるとしても、それは事態の一面に過ぎない、という二重の意味で、不十分だ。

6/6 思考・始動・形成

 今月の目標は「考える・動かす・形にする」。ちなみに先月は「論理・労働・進歩・組織」だった。「組織」は今後の課題。論理に従って労働して進歩することは、多少できた。

2011年6月3日金曜日

6/2 不信任・死者・演劇

 今日のニュースと演劇。

1. 内閣不信任決議案 反対多数で否決

 1)NHK:不信任決議案 反対多数で否決
 2)毎日新聞:内閣不信任案:2日のドキュメント
 3)毎日新聞:内閣不信任案:菅首相、年明けの退陣可能性を示唆


 内閣不信任案提出という事態になったからには、わたしは解散・総選挙が望ましいと考えていた。被災地はそれどころではないという意見もある。しかし被災地にとって、現在の内閣が行政を執り仕切り続けることが本当にベストなのか。今は政治どころではない、とはわたしは考えない。今しか変えられない政治があるはずだ。今しか見えない、動かせない物事の本質があるはずだ。

 しかし結局は一政党内の茶番に収束してしまった。今日という日を震災後の日本の象徴にしたくない。

 それにしても、いつまでたっても菅首相は「復旧・復興」の一点張りだ。彼は東日本大震災の犠牲者のことを一国の首相として一度でも真摯に考えたことがあるのだろうか。相変わらず「死者1万5300人、行方不明者8300人」という中途半端な発表。生者の生活はもちろん重要だ。しかしあまりにも死者に目が向けられていない。「復旧・復興」は生者のため。生者は次の選挙のため。「死者の立場からものごとを見る」ことが日本の倫理の一端を担ってきたとするならば、その消滅も極まった感がある。

 ところで、死者との関わり方について、ひとつ提案がある。

 今後、福島原発の周辺は半永久的な立入禁止区域になるだろう。ただ、一年に一度でも、一瞬でも入ったら害が出るということにはならないだろうし、ならないと期待する。であるならば、たとえば一年に一度、天皇、国会議員、自治体の首長、国家公務員、かつての住民、そしてその他の希望者が、各人の責任のもとに、原発周辺の立入禁止区域に集まり、祭、儀式、演劇、なんと呼んでもよいが、喪に服し鎮魂に捧げる時間をつくる、というのはどうだろう。その様子はテレビとインターネットで日本および全世界に中継する。

 演劇は墓地でこそ行われるべきだ。ひとは墓地に向かい、墓地から戻ってくることで、共同性と倫理性を更新する。金はかけない。劇場も、神社も、記念碑も必要ない。あの原発が残っているだろう。そこで放射性物質を浴びながら、地震と津波と原発事故のことを思い出す。遠くの人間もそれを見る。死者には生臭さがない。死者は次の選挙で投票できないし、消費も投資もしない。死者を通じてひととつながり、襟を正し、時間を更新することは、特殊利害から可能な限り隔たった共同性と倫理性の可能性として、きわめて合理的だと考える。