2011年7月31日日曜日

7/31 7月が終わる

 今月は毎日2回更新するつもりだったが、20日分で断念してしまった。もろもろ忙しくなったためです。

 来月は論文を2本仕上げる予定なので、形式的な更新にはしません。

 ただ、今月とは趣向を変えて、断片的なノートとして利用してみようかと考えています。

 今後ともどうぞよろしくお願いします。

 林立騎

2011年7月23日土曜日

[語学B3]白川『字訓』

 辞書に記載された訳語が常に「正しい」とは限らない。

 また、複数の訳語があった場合、辞書は最適なものを選んでくれない。

 「単語の意味は常に文脈においてしか決まらない」と真鍋良一の本で読み、実にそのとおりだと思った。

 ではしかし、いかにして辞書の訳語から自由に考えることができるか?

 ひとつの可能性は、訳語の決定に際して複数の「軸」を導入することだ。

 例えばドイツ語で「Das Ende der Welt」という表現があったとする。もっとも一般的には「世界の終わり」と訳されるだろう。しかしその翻訳が最適と言えるかどうかは、検討が必要だ。

 第一の軸は「作品」。その作品においてEndeやWeltという語がどのように使われているかを検討する。

 第二の軸は「言葉の歴史」。EndeやWeltの語源的意味と、どのような変遷を経てきたのかを検討する。

 第三の軸は「現代の日本語」。現代の日本語に翻訳する際に、どの訳語ならどのような意味と印象を帯びるか。

 第四の軸は「日本語の歴史」。「世界」や「終わり」といった訳語の方は語源的に何を意味するのか。どのように変遷してきたのか。それらはEndeやWeltにふさわしい訳語なのか。

 最低でも以上四つの軸を検討し、全てが交差する(と考えられる)点において訳語は決定される。やはり「世界の終わり」でいいと思えることもあれば、「世の末」「世の果て」などに変わることもあるだろう。

 言葉を交わらせる翻訳という作業は、歴史に潜り、歴史をつくる営みだ。興味がある向きは、ぜひ白川静氏の辞書などを利用して外国語を読んでいただきたい。わたしは『字訓』を愛用している。

7/20 いかに政治を逃れるか

 演劇時評。

* 自民、原発は当面活用、消費税10%、非核2.5原則
* 石原都知事:日本は核武装を、原発も捨てられぬ

 自民党の国家戦略本部(本部長・谷垣禎一総裁)20日、党の中長期政策の基本方針となる報告書を発表し、消費税率の10%への引き上げや集団的自衛権の行使容認を掲げたほか、既存の原発は安全対策を強化した上で当面稼働させる方針を明記。今後10年間の最優先課題を「減災対策」と位置付け、公共事業を拡大する方針も打ち出した。[産経新聞]

 他方、東京都の石原慎太郎知事は、原子力発電はなお必要であり、中国や北朝鮮からの脅威をかわすためにも核兵器を保有すべきだとの考えを強調した。[ブルームバーグ]

 これをどう考えたらいいのだろう。彼らのものの見方はどうなっているのだろう。

 いずれにせよ彼らを変えることはできない。彼らには去ってもらうしかない。しかしだからと言って、今の状況で「若者よ、選挙へ行こう!」などとはわたしは言えない。

 どこまで可能か、よく考えてみなければならないが、これからの時代を楽しく生きるには、「何かあったらいつでもどこへでも移り住める」技術や準備が必要ではないか。「政治がどうなっても文句は言わない。だから俺は選挙に行かない」という態度を貫徹させるためには、政治が決定的に崩壊したらすぐに黙って移住できなければならない。そうでなければ必ず文句を言うことになるだろう。

 わたし個人は政治自体を変えるよりも、今現在「政治の機能」とされているものを少しずつ政治の外で代替していくような動きに興味がある。わたしは政治を信頼できない。信頼できないひとびとにお金を預ける馬鹿はいないから、今のところ税金は低ければ低いほどよいと考えている。したがって、軍備の増強などという高負担な政策には反対だ(反対の理由はそればかりではないが)。

[論文B3]プロセス論3

 論文は遅れているので、あとでまとめて掲載します…。

7/19 中央統制から自己決定へ

 演劇時評。

*東日本復興構想会議の提言

 先月25日、政府の東日本復興構想会議が提言をまとめ、菅首相に提出した。

 大手メディアでは提言が増税を主張したことばかりを取り上げているようだ。経済の専門家以外のひとびとが中心となってつくった提言に関して、そのようなクローズアップを行うのはフェアではないし、提言の可能性を縮減するものと考える。

 わたしは、例えば「地域自立型エネルギーシステム」という項目において以下のように主張されていることは、率直に評価したい。

こうした自立・分散型エネルギーシステム(スマート・コミュニティ、スマート・ビレッジ)は、エネルギー効率が高く、災害にも強いので、わが国で長期的に整備していく必要がある。そこで、被災地の復興において、それを先導的に導入していくことが求められる。

 他方、復興に関して一貫して感じ続けている違和感も残った。それは、結局のところ現在の復興プランは、「中央が地方を指導する」という枠組みを維持するものではないか、ということだ。

 わたしは、もし東北の人々が望むなら、どんなに客観的に危険であれ、ふたたび海辺に家を立て、居住してもいいと思う。何を教訓とし、どこに住むかを、遥か遠く離れた東京にいる政治家や役人に決められてはたまらない。地域ごとに決定するならまだ分かるが、これからの地域のあり方を中央から指揮するという時代ではない。

 それは、どんなに優れた計画であっても、実行するひとびとの気持ちがついていかず、「本気度」が低ければ、必ず効率が落ち、効果が衰減するからでもある。いくら知識がある人間でもやる気にならなければ役に立たないのと同じだ。データや確率など客観的なものだけでなく、主観的な行為態度をどう考慮するか、中央の管理機構が何をどれだけ地方に委譲できるか。歴史的な転機になってほしいと思う。

2011年7月22日金曜日

[読書B3]歴史意識の古層

丸山眞男「歴史意識の『古層』」(『忠誠と反逆』所収、ちくま学芸文庫、1998年)

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 「なる」が「なりゆく」として固有の歴史範疇に発展するように、「つぎ」は「つぎつぎ」として固有の歴史範疇を形成する。そうして「なる」と「つぎ」との歴史範疇への発展とともに、両者の間に生まれる親和性をなによりも象徴的に表現するのが、血統の連続的な増殖過程にほかならない。

 「次」もツギであり「継」もツギである。[…]「万世一系」のイデオロギー的な強みは、「一君万民」という単独者の支配[モノ・アルキア](中華帝国の場合)にあるよりは、むしろ右のような意味で皇室が、「貴種」のなかの最高貴種(primus inter pares)という性格によって「社会的」に支えられていた、という点にあった。そうして、宗教的な超越者にも自然法的普遍者にもなじみにくい日本のカルチュアにおいて、「つぎつぎ」の無窮の連続性は、[…]「永遠者」の観念に代位する役割をいとなんだのであった。[378−380頁]

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 「つぎ」「つぎつぎ」という時間的継起性の表象が一種の「固定観念[イデー・フィクス]」となって、芸術的形式にまで高められた代表的な例として、日本の絵巻物、とくに、説話絵巻に表現されるような連続式絵巻を挙げることができよう。元来、絵巻の本国である中国では、「要するに画巻とは、単に巻いておくことがもっとも便利なだけの横披画に過ぎず、それを展げて見る場合に右から見ても左から見ても一向に構わない、という根本観念が常にあった」といわれる。ところが絵巻という形式が日本に輸入されたとき、巻子を右から左へ順次にくりひろげて行くという一方的な方向性をとりながら、それによって、事件の時間的継起を鑑賞者にいわば共有させるところの、美術史家のいわゆる「異時同図」の手法を見事に開花させた(一方的進行はいうまでもなく、「時間」の特質のもっとも直截な空間的表現である)。[384頁]

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「徳」があるから「いきほひ」があるのではなくて、逆に「いきほひ」があるものに対する讃辞が「徳」なのである。[388頁]

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 日本神話において人格神の形でも、非人格的な「理」ないしは「法[ダルマ]」の形でも、太極・「全一者」(ekam)・太一(『史記』、『呂氏春秋』)・本不生際(『大日経』)などにあたる絶対的始原者または不生不滅の永遠者がいないことは、神道を「神学」にまで体系化しようとするイデオローグを昔から悩ませて来た。けれども、摂理史観や規範主義的史観の確立にとっては都合の悪いこうした「欠如」こそ、かえって「いきほひ」の歴史的オプティミズムを支えてきたのであり、むしろそれは生成のエネルギー自体が原初点になっている(はじめに「いきほひ」ありき!)という特殊な「論理」の楯の反面にすぎない。したがって、新武創業説話において、ムスヒの霊が呼び起こされ、また、さきに見たアマテラスの「いつの雄たけび」がそのままリフレインされてる(『記』)ように、歴史的劃期においては、いつも「初発」の「いきほひ」が未来への行動のエネルギー源となる傾向が見られる。[394頁]

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 以上、日本の歴史意識の古層をなし、しかもその後の歴史の展開を通じて執拗な持続低音[バッソ・オステイナート]としてひびきつづけて来た思惟様式のうちから、三つの原基的な範疇を抽出した。強いてこれを一つのフレーズにまとめるならば、「つぎつぎになりゆくいきほひ」ということになろう。念のために断っておくが、筆者は日本の歴史意識の複雑多様な歴史的変遷をこの単純なフレーズに還元しようというつもりはないし、基底範疇を右の三者に限定しようというのでもない。こうした諸範疇はどの時代でも歴史的思考の主旋律をなしてはいなかった。むしろ支配的な主旋律として前面に出て来たのは、――歴史的思考だけでなく、他の世界像一般についてもそうであるが――儒・仏・老荘など大陸渡来の諸観念であり、また維新以降は西欧世界からの輸入思想であった。ただ、右のような基底範疇は、こうして「つぎつぎ」と摂取された諸観念に微妙な修飾をあたえ、ときには、ほとんどわれわれの意識をこえて、旋律全体のひびきを「日本的」に変容させてしまう。そこに執拗低音としての役割があった。[402頁]

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 この歴史的相対主義の土壌が「おのづからなりゆくいきほひ」のオプティミズムに培われているかぎりで、それは理想社会を太古に求め、それを基準として歴史的現実を裁くという意味での「復古主義」とも、また反対に、未来に歴史の目標を託し、現在をその目標へのステップと見る「進歩の観念」とも、所詮は摩擦せざるをえない。[408頁]

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 こうして古層における歴史像の中核をなすのは過去でも未来でもなくて、「いま」にほかならない。われわれの歴史的オプティミズムは「いま」の尊重とワン・セットになっている。過去はそれ自体無限に遡及しうる生成であるから、それは「いま」の立地からはじめて具体的に位置づけられ、逆に「なる」と「うむ」の過程として観念された過去は不断にあらたに現在し、その意味で現在は全過去を代表(re-present)する。そうして未来とはまさに、過去からのエネルギーを満載した「いま」の、「いま」からの「初発」にほかならない。未来のユートピアが歴史に目標と意味を与えるのでもなければ、なるかなる過去が歴史の規範となるわけでもない。[…]「今も今も」は、たえず動きゆく瞬間瞬間を意味しながら、同時にそれが将来の永遠性(常磐に堅磐に)の表象と結びついている点で、まことに日本的な「永遠の今」――ヨリ正確には「今の永遠」――を典型的に示すものであろう。[413−414頁]

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 歴史的認識は、たんに時間を超越した永遠者の観念からも、また、たんに自然的な時間の継起の知覚からも生まれない。それはいつでもどこでも、永遠と時間との交わりを通じて自覚される。日本の歴史意識の「古層」において、そうした永遠者の位置を占めて来たのは、系譜的連続における無窮性であり、そこに日本型の「永遠の今」が構成されたこと、さきに見たとおりである。この無窮性は時間にたいする超越者ではなくて、時間の線的な延長のうえに観念される点では、どこまでも真の永遠性とは異なっている。けれども、漢意・仏意・洋意に由来する永遠像に触発されるとき、それとの摩擦やきしみを通じて、こうした「古層」は、歴史的因果の認識や変動の力学を発育させる格好の土壌となった。ところで、家系[いえ]の無窮な連続ということが、われわれの生活意識のなかで占める比重は、現代ではもはや到底昔日の談ではない。しかも経験的な人間行動・社会関係を律する見えざる「道理の感覚」が拘束力を著しく喪失したとき、もともと歴史的相対主義の繁盛に有利なわれわれの土壌は、「なりゆき」の流動性と「つぎつぎ」の推移との底知れない泥沼に化するかもしれない。現に、「いま」の感覚はあらゆる「理念」への錨づけからとき放たれて、うつろい行く瞬間の享受としてだけ、宣命のいう「中今」への讃歌がひびきつづけているかに見える。すべてが歴史主義化された世界認識――ますます短縮する「世代」観はその一つの現われにすぎない――は、かえって非歴史的な、現在の、そのつどの絶対化をよびおこさずにはいないであろう。[422−423頁]

7/18 現代日本のシニシズム

 演劇時評。

*現代日本のシニシズム

 17日分に続き、漠然とした話を続ける。

 3月11日以来、というよりも原発事故が明らかになって以来、ある問題を感じ続けてきた。それは「科学的」で「情報強者」なひとびとのシニシズムだ。

 たしかに脱原発、反原発、原発危険、すでに絶望的etcを唱える者の中にはまったくの事実誤認や歪曲も含まれているだろう。その意味で本当にひどいひとはいる。

 しかし他方で、「科学的」で正確な情報をもっているはずのひとびとには、それを上から目線で指摘して「知らない者たち」を切り捨てる傾向があまりに目に付く(具体例は挙げないし、印象論であることも自認するが)。

 彼らは何が起きても、「自分はそうなることがわかっていたし、最初からそう主張していたし、多少ものを考える人間ならそれがわかって当然だから、わからなかったやつは怠惰か党派的かのどちらか」と言う。彼らと論争しても意味はない。彼らを支持する者と彼らに反発する者の溝は深まる一方だ。

 それが道徳的にどうこうというわけではない。しかしせっかく情報を収集・分析することが得意なひとびとがいるにもかかわらず、個人の性格や態度に由来する社会的損失があまりに大きいのではないか。知識人は公に尽くす人物たれ、などと言いたいのではないが、しかし知識をもつものとしての個人的なモラル、個人的ノブレス・オブリージュは日本ではどうなっているのか。批判するよりもまずは何かの役に立つ、という気持ちを背負う者があまりに少ないのではないか、と思う。

[育児3]あらたおじさん

7/17 意思決定・社会・演劇

 演劇時評。

*核というメタファー

 池田信夫氏のブログを読んだ。

 納得できない部分もあったが、「大衆の動向を決めるのは論理ではなく感情」というのが問題の焦点であることはよくわかる。記事は以下のように結ばれている。

こうしたメタファーを論理で是正することは、彼らがそのバイアスを自覚しないかぎり不可能だ。メタファーは身体にかかわることが多いので、戦争や原発事故といった生存にかかわる恐怖によって形成されたバイアスは強力で、論理を受け付けない。人々が自覚していないバイアスを「脱構築」するには、大停電のような身体にかかわる演劇的な装置が必要だろう。

 「身体に関わる演劇的な装置」。「演劇的」とは「多くの人を同時に巻き込み、影響を及ぼす」という意味か。

 これからの演劇が啓蒙=論理に賭けることはないだろう。それは明白だ。これからの演劇は何をするものになるのだろう。どこに存在するのだろう。

 社会のいたるところで「演劇」という言葉の使用が消えない。小泉政治、エジプト、原発。なぜ「演劇」という言葉は消えないのか。「演劇」という言葉を使う者たちが、ほとんど演劇とは無関係にも関わらず? 演劇の規模はどうなるのだろう。主題は?

 社会が演劇化するなかで演劇は脱社会化したのか。社会と演劇の関係はどうなるのだろう。もし「社会」や「演劇」が存在するのならば?

 普段はできるだけまとまった考えを主張するようにしているが、今回はつい書きたくなってしまったので、結論がつかない。しかしわたしにとって大切な問いだ。

[語学A3]Wörter

 正直なところ、日本の大学で行われている程度の会話授業では、ドイツに行ってまともな会話はできない。

 理由は語彙と表現が十分に身につかないからだ。かつてドイツに行くこともままならなかった語学者たちが流暢に話せたのは、膨大な量の文献によって巨大なボキャブラリーを蓄えたためだろう。

 会話についてのアドバイスで、ドイツに行ってから本当に役立ったものは、どれも日本人の先生が教えてくれたものだった。

 一つは慶応大学文学部の和泉雅人教授が教えてくれた方法で、雑誌「Spiegel」の「Spiegel Gespräch」というインタビュー記事を読み、その中から使えそうな表現をメモして暗記する、というもの。自分で使うときは適宜表現を変える。ドイツ語でどのような交流をもつかにもよるが、わたしに関して言えばこれはたいへん役立った。議論を展開する言葉が必要だったのだが、わたしが日本で受けた会話教育はそれを重視していなかった。ドイツに留学する学生は必ず議論する必要に迫られるのだから、簡単な語彙でも議論を通じて身につけさせるべきだ。

 もう一つ役立ったのは、やはり慶応大学の平田栄一朗准教授が教えてくれた本「Schwierige Wörter」。上級レベルの単語集だが、理解が困難ということではない。この本は、ネイティブなら日常的に使っているがドイツ語教育では体系立てて教えることのできないような語彙・表現を網羅している。要するに細かく、量が多く、ルールがなく、原則と応用で対応できないレベルであるがゆえに困難なのだ。マスターするための道のりが困難なのであり、筋トレのような使い方が必要とされる。しかしこれもまた、覚える端から使用して絶大な効果を上げた。

 「Schwierige Wörter」に関しては、なんだか情けない装丁の新装版が出たようだ。旧版の方がシンプルでクールだったが、仕方あるまい。日本のアマゾンでも買えるようだ。しかし、具体的な使用法は敢えて書かなかったが、本当に困難な学習書であるから、中途半端な覚悟では買わないことをオススメする。

7/16 言葉でつながる

 演劇時評がだいぶ遅れてしまった。思い出せることから短く書く。

*女子サッカーがW杯で優勝

 日本時間の18日朝、女子サッカー日本代表がW杯で優勝した。W杯2連覇中のドイツ、強豪スウェーデンを破って進出した決勝で 世界ランク1位の米国をPK戦の末に下し、初優勝を果たした。

 「日本人として勇気をもらった」という感想を聞いた。ところで「日本人」とは制度を伴う「言葉」だ。「勇気をもらう」場合には同じ制度に含まれていることはそれほど大きな意味をもたないだろうから、きっと「日本人」という言葉でつながっていたからこそ、「勇気」が伝染したのだろう。

 「日本人」だけでなく、ひととひとをつなげる「言葉」がもっと増えたら、「勇気をもらう」機会も増えるのではないか。友人や家族や職場だけでなく、オフライン/オンラインの区別なく、多くの「言葉」でひとがつながるとき、極端な偏りを防ぎつつ、しかし多方面から刺激を受ける環境が実現するのではないか。多重帰属、そしてそれぞれに固有の様々な「つながりの名」。「日本人」だけでは少なすぎる。豊かな言葉の広がりを創造したい。

2011年7月16日土曜日

7/15 近代政治は文書を争う

 今日の演劇時評。

*菅首相:脱原発「私の考え」

 菅直人首相は15日の衆院本会議で、「脱原発」社会を目指すとした13日の発言に関し、「私の考え」と述べ、政府方針ではないとの認識を示した。首相が記者会見で表明した重要政策を、私的見解に後退させた形になる。[毎日新聞]

 13日、わたしは、「首相の意思」が消えても「国民の意思」を存続させる仕組みが必要だと書いた。それが現実的課題になりつつある。

 官僚制に支えられた近代国家において、政治とは文書を巡る争いだ。憲法、法律、政令、条例、どんなかたちであれ、最終的に文書=書き言葉にならなければ、決定は強制力をもちえない。仮に1億2千万人全員が一つの広場に集まり、菅総理の「脱原発」演説に対して巨大な喝采を送ったとしても、それが法的拘束力ある文書に姿を変えなければ、直接には何の意味ももたない。それが民主制のあるべき姿なのかどうか、議論は分かれるだろう。しかしいずれにせよ、今現在わたしたちはそのような国制のもとに生きている。まずはそこから出発せざるをえない。

 したがって、菅総理の話し言葉に一喜一憂するだけでは近代国家の国民として不十分だ。それがいかに制度化され法的拘束力をもつのか、その点を追求することが不可欠であり、支持・不支持はそのレベルでのみ成立する。

 今回、菅総理に「私の考え」と言わせた政治家たちを仮に「脱原発」慎重派と呼ぶならば、彼らは政治が文書とその法的拘束力を巡る争いであることを知悉している。そして早期に対処することに成功した。首相が交代したタイミングで「脱原発」社会を目指すという方針を反故にすることが可能になった。「脱原発」を目指すなら、菅総理の暴走気味な発言を利用し、そこから文書を勝ち取らねばならない。

[読書A3]政治の成立

木庭顕『政治の成立』(東京大学出版会、1997年)

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極めて常識的に考えて、暴力ないし特定集団の力に威嚇されて人々が動くとき、特定の者たちの権威に従って人々が動くとき、単に惰性と習慣で人々が動くとき、特定の利益と財力に引かれて人々が動くとき、単にあらかじめ決められた規則に従って人々が動くだけであるとき、そこには政治は存在しないであろう。極めて不正確な言い方にはなるが、例えば、人々が、議論をし、その優劣を評価する、そのことによって動く、自発的に動く、場合にだけ政治が存在する、と言うことができる。[3頁]

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結局Homerosは、軍事化を鍵としてパラデイクマ確定手続の幾つかの構成法を対置して、元来のパラデイクマ伝達メカニズムに伴う複雑な関係を軍事化によって払拭しつつその軍事化そのものとそれに伴う帰結からいかに離れるか、ということを模索している、というように解釈しうる。そうした複雑なディアレクティカの結果においてしか政治システムに伴うパラデイクマ確定手続は成立せず、単に言語が交換されればよいというのでは全くない、ということがここに示唆されている、と言うことができる。[206頁]

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政治システムはHesiodosが用意したパラデイクマによる対抗を受けなければ、Homerosが用意したパラデイクマだけでは、成り立たないのである。政治システムの存立のためには政治システム自体に批判的に関わるというパラデイクマによる補完が必要である。政治はその本来の性質上すべてを呑み込まない。呑み込むと崩壊する。距離をとり、残す。だとすれば残る方の存在を常に前提する。その制度的な表現が都市と領域の区分と対抗関係である。[235頁]

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もし政治が成立したのならば、そこで生息するパラデイクマの生態は特殊なものになる。つまりあらかじめ決定された権威あるパラデイクマ、事例や規則、を持たずに、つまりそうしたものの存在を否定して、自由に判断して決定する、そしてその決定の内容が重要であって文言は二義的である、ということになる。[311頁]

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神殿の形態は、第一に、神々の儀礼的なテリトリー占拠を厳密に区分して他の構造物との枝分節関係を作らせず、第二に、その空間へすべての人が完全に自由にアクセスしうると同時に、どこか特定の空間を特権的に指示しないように、それと特権的な関係をつくり出さないように、第三に、その内部に決して人を抱え込むことができないように、設計される。[336頁]

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〈分節〉は分節単位を一義的にするから、社会構造の破壊のメルクマールも一義的になる。唯一の次元に並ぶ結節関係の破壊、他の〈分節〉単位の破壊・吸収、及び都市中心に集中する〈分節〉のための装置の破壊、これだけがそれにあたる。それだけが「犯罪」とされる。[366頁]

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韻律は、音のレベルでいったん分節を一切解消して明確に再形成する、その快感をもたらす。印象の鮮明さは確かにそれを人々の記憶により深く刻み込むであろう。しかし人々は記憶のために韻律を好むのではない。[397頁]

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 書くということを政治システムに矛盾しない仕方で利用するためには、まず第一に、音によって構成される言語の本来の機能に忠実な二重分節を書かれた記号に与えねばならない。このためには表音文字のsyllabismeをまず克服しなければならない。次に、物として直接効果を持つということを遮断するために、いったん音声に戻してでなければ使えない、即ち黙読によって記号が作動するということが許されない、ということにしなければならない。

 以上のような歯止めがあれば確かに書くということを政治システムで使うことも可能であるように思われる。しかしながら、他方それに一体どのようなメリットがあるのか? パラデイクマの確定の一義性や精度という観点からすると、一見したところと違って、必ずしも書くことが有益とは限らない。全員が議論して合意が成立した場合、その理由や議論の経過、対抗ヴァージョンの存在、等々の全体が共有されており、決定されたパラデイクマのみが書かれた書面は不正確でかえって不満を残す。もっとも、確かに、全員に対して一義的にパラデイクマを確定するという政治的決定の性質の中には、様々なパラデイクマの連関をいったん一切絶ち切って何かを確定する、という契機が存在する。このためには言語の儀礼化が適合的であり、書くことはまさに儀礼でありうる。しかしそのことの反面、このように確定したパラデイクマにどうしても特権を付与することになる。聖典とその権威的解釈、書面主義、証書主義、等々を排除する思考にはやはり馴染まない。ならば、せっかく成立した政治的パラデイクマを保存し安定化させるために使用できないか? 政治的パラデイクマ自身といえどもそれを聖化してしまえば政治を損なう、というのが初期のギリシャ諸都市の基本的な姿勢であったように思われる。SpartaのRhetra等若干の例外を除いて「国制」を言語で確定するという思考は古典期まで例外的にしか存在せず、このために初期の政治システムの記述は現在の歴史家にとって容易ではない。[…]

 書くことを利用する唯一の動機は、政治システムの直接の成員でない者達に対して確定されたパラデイクマを伝える、ということであったように思われる。即ち確定されたパラデイクマを伝える、ということであったように思われる。[398−399頁]

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書くことを利用する、ことにした途端、しかしながらそれがもたらす危険に対処することが要請されるようになる。[…]

J. Svenbroによれば、物体に刻印された文が一人称を取る、即ち「私を作ったのは某である」、「私は某の墓である」、と表記されたのは、かつて考えられていたように初期のギリシャ人がanimismを払拭しえないためではなく、書き手が読み(上げ)手を服従させるという連関を切断するためである。[…]

Rr. Ruzéによれば、書くということが政治システムによって利用され始めるや否や、重大な問題が発生する。即ち実際に書くことに携わる人間をどのように扱うかということである。その存在を極小化しなければならないが、かといって政治システムの外の「別のカテゴリー」の人間に委ねれば、それは危険な存在になる。かくして、書くことに携わる人間をも政治システム固有の官職に就け、そして兼任と再任を禁止する、そのようにして官房や書記局の発生を防ぐ、ということが盛んに行われた。あるいは、どうしても特定の人々に書くことを委ねる場合、それを(他の専門技芸者集団の如く)一つのgenosに組織し、このことによっていわばその存在をトータルに儀礼化してしまう。[401−402頁]

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政治は、恐らくその性質上、常に構造的な問題を抱えつづけることになると思われる。というのも、本来矛盾することを複雑に組み合わせることによって成り立つものであるからである。このことをわれわれの最初の経験自体について言うことができる。

 少なくとも二つの点でそれははじめから重大な弱点を内包していた。第一に、中心的な政治システムと領域の第二次的な政治システムとの関係が十分に定まらなかった。こうした構造は、われわれの最初の経験が偶然に持ったものではなく、およそ政治が抱えつづけねばならない問題(政治と市民社会の関係の問題)である。そして、まさにこの問題の困難さがかえって、古典期のギリシャにおいてデモクラシーを、そしてローマにおいて法を、その問題に対する解答として、生み出すことになる。それでもさらにそれはそれで一層困難な問題をその先に生み出したのである(但し、デモクラシー、法、経済・市場・信用システムの自立といった問題群は全て政治の成立を前提とし、従ってこれなしには解決不能である)。第二に、いずれにしても政治システムは領域の上に未分節集団を残す。第一の問題はこれを縮減することにも関わるが、最終的にそれはやはり残らざるをえない。これが徐々に政治を侵食していくのではないか?

 事実、われわれの最初の経験はわれわれの最初の失敗であるという栄誉を担う。主として以上の二つの問題によって政治は崩壊していく。[404−405頁]

7/14 脱・国家依存へ

 14日の分の演劇時評。

*エネルギー論争の盲点

 池田信夫氏の上記ブログ記事を読んだ。基本的で重要な指摘があると思った。以下、引用。

ドイツやスペインのように固定価格買取を導入して巨額の補助金を投入すれば、再生可能エネルギーを増やすことはできる。しかしそれによってエネルギー産業は農業と同じ補助金産業になり、国家統制が強まる。そして補助金産業は、補助金が切れると崩壊する。スペインの財政破綻で「グリーンテック・バブル」のはじけた欧州では、太陽光発電所の建設がストップしてしまった。

 わたしはエネルギー政策に詳しくないので、この指摘が完全に誤りないものかどうか、判断できない。ただ、その重要性は理解できる。

 わたしは日本の現状では「脱原発」が必須だと考える。しかしながら、再生可能エネルギーへのシフトが池田氏の考える通り補助金によってのみ成り立つとすれば、原発から別のエネルギーへという流れ自体は評価できるとしても、国家にエネルギーのあり方を委ねるという点ではこれまでと変わらない。それでよいのだろうか? 原発だけが問題だったのか? 中央集権的なエネルギー政策も問題ではないか? だとすれば、国家=中央が配分する補助金なしには成り立たないようなエネルギー政策は、これまでと同型の問題を温存するのではないか?

 わたしは311を「脱・原発依存」のみならず「脱・国家依存」への分岐点とすべきだと考える。国民国家モデルは緩やかに解体していくはずだし、解体すべきだ。国家は小さく、社会が厚くなればよい。そのために最初は国家をテコにする、ということもあり得るだろうが、エネルギーをめぐる経済や制度を国家に委ねないという根本的イデーを忘れてはならない。「歌詞は違うがメロディは同じ歌」が聞こえてくるようでは、まずい。

2011年7月14日木曜日

[語学B2]わたしの辞書

 今日は少し手抜きをして、わたしが普段使っている辞書の紹介だけにする。

1.独和大辞典(コンパクト版、小学館)

2.ドイツ語副詞辞典(白水社)

3.ドイツ語不変化詞辞典(白水社)

4.ポケットプログレッシブ独和辞典(小学館)

5.Duden独独辞典(電子辞書、シャープ)

6.Deutsches Wörterbuch(Niemeyer)

7.Das Deutsche Wörterbuch von Jacob und Wilhelm Grimm(オンライン版)

8.常用字解(平凡社)

9.字訓(平凡社)

10.岩波古語辞典(岩波書店)

7/13 国民は失敗してもよい

 昨日の演劇時評。

*菅首相、「脱原発依存」への政策転換を表明

 菅直人首相は13日、今後のエネルギー政策について、これまで国策としてきた原子力発電には過大なリスクが伴うとし、「脱原発依存」への方針転換を打ち出した。菅首相は記者会見で、「将来は原発がなくてもやっていける社会を実現する」と述べた。「脱原発」の時期的なメドは明言しなかった。(WSJ日本版より)

 わたしは以前から、「政治家の寿命」よりも「政策の寿命」の方が長い場合、最終的に責任をとらない代表者に決定を委ねるべきではなく、国民投票をはじめとする別の方法が模索されるべきだと考えてきた。しかし、ここまで来たらそうも言っていられない。

 「退陣を表明した首相が何を語っても、そういう国づくりが進むとはだれも考えない」と語った自民党議員は、政権奪取の暁にはこの流れを転換すると予告したに等しい。「企業は生産計画を立てられない」と言う経団連幹部は、企業の意思など存在しないかの口ぶりだ。

 国民投票のような明示的形式をとらなくても、「国民の意思」は存在する。今現在、「政治家の意思」と「国民の意思」がある程度重なって「脱原発依存」という方向性が出てきたのだとすれば、今後必要になるのは、「首相の意思」が消えても「国民の意思」を存続させることだ。菅首相が退陣した瞬間に「国民の意思」が変わるわけではない。今の「国民の意思」を貫徹させるための圧力を可視化・組織化する必要がある。

 「国民の意思」には責任が伴う。政治は「いいとこどり」できない。「原発の代わりに化石燃料を使うと、法人税3割増税と同じコストアップが発生する」という主張があるようだが、もしそれが事実なら、日本経済に対するその帰結を含めて「脱原発」なのだから、採ればよい。結果が現れてから「騙された」とは言えない。

 しかし、だからといって「失敗は許されない」とはわたしは考えない。日本社会は自らの責任において行動し、場合によってはあっという間に失敗すればいいのではないか。そして反省し、ふたたび行動すればよいのではないか。それが時間であり、歴史だ。特定の政治家や、国策など、常に「自分以外の誰か」に責任を押し付ける限り、時間/歴史はそこでリセットされてしまい、国民主権の民主制社会としての反省・成長はありえない。

 今の日本は「時間づくり」の主体を「国家から社会へ」とシフトする好機にある。今後、国家は小さくなる。ここで国家への依存を強めてはならない。社会に力を与えなければならない。

[論文B2]プロセス論2

 のちほどアップします。

2011年7月13日水曜日

7/12 未来から考える

 昨日の演劇時評。

*今の原発騒ぎを、未来のひとたちはどう思うだろうか

 先日、1960年代に書かれたある本を読んでいた。本の具体的内容は今は関係ない。ただその中に、当時のキューバ危機、および核兵器をめぐる「時代の不安」のようなものが記されていた。以前なら、「ああ、そういう時期があったんだな」で終わっただろう。しかし今回は妙にひっかかった。何にひっかかっているのか考えるうちに、原因がわかった。

 当時、キューバ危機や核戦争の不安にひとびとが怯え、社会が騒然としていたことを、わたしは歴史的事実として知っている。だが、その不安や騒動にどれだけの意味があったのか、同時に不思議な気持ちもする。騒ぐだけ騒いで、特に何も劇的なことは起こらず、時代は進んだのではないか、と。

 現在、同じようなことが起こる可能性を感じ、わたしはひっかかりを覚えたらしい。脱原発だの、それでは大停電が起こるだの、各自がいろいろなことを言っているが、いつの間にか原発も再稼動し、なぜあんなに騒いだのか思い出せないような日常が戻ってくる可能性もまだあるのではないか、と。

 今日(13日)の菅総理の「脱原発路線」発表によってその可能性は多少減じただろう。しかし問題の所在は別にあると思う。何か具体的なかたちを残すこと、何かを現実的・物理的に変え、変えたことを記録し、いずれ過去になる現在の状況、感覚、意思を伝えていくことが必要ではないか。

 原発の将来がどうなるにせよ、「なぜそんな問題で盛り上がっていたのか、全然わからない」といつか言われるのは、死にゆく者として惨めな気持ちがする。

2011年7月12日火曜日

[読書B2]日本藝能史

折口信夫『日本藝能史六講』(講談社学術文庫、1991年)

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平たく申しますと、藝能はおほよそ「祭り」から起つてゐるものゝやうに思はれます。だが、このまつりといふ語自身が、起源を古く別にもつてをりますので、或は広い意味に於て、饗宴に起つたといふ方が、適当かも知れません。つまり宴会の形において、まつりが行はれてをりましたが、まつりの形自身も世の中が進むと共に変つて来たのです。現代人はまつりといへば、社々に行はれるまつりのみしか考へ泛べぬ様にさへなつてゐますが、昔のまつりはもつと家庭のやうな、決して始終森閑として何にもないところにまつりが行はれてゐたといふ、天狗祭りの様なことではなかつたのであります。

譬へば一軒の家の中に、時を定めて非常に盛んなる饗宴が催される、さういふ時に既にある形に達した藝能が興つて来たものだ、といつて大体差支へないと思ひます。[19頁]

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あるじはまれびとの力によつて、家又は土地に居るところの悪いものを屈服させてもらひたいといふ考へがありますが、その事をまれびとがして行つてくれます。従ってここに於てまれびとを迎へた効果が、十分にあつた、ということになります。それ故にまた、さういふことをしてもらふ為にまれびとを招く、といふ風になつて来ます。[26頁]

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また饗宴には、「見物」といふものは、純粋な意味ではありません。[…]

つまり舞をまふといふことは、神に背かないといふことを前提としての行為なのですから、そこにはほんたうの見物人はあり得ないのです。後に発達してきた盆踊りを考へてみても、或は現在行はれる畿内近辺の湯立て神楽でも、東京近辺の里神楽でも、東北の山伏神楽でも、出雲・九州の神代神楽でも、いづれもほんたうの意味の見物人はありません。のみならずそこにはほめ詞とか、けなすあくたいの語があります。[32頁]

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家を訪づれるまれびとでも、その家の位置が高いと座敷に上らないで座で饗宴を受けて帰るものがあつたやうに、それとは違ふが客として待遇されぬ訪問者があります。私はこれを招かれざる客といふ名をつけてゐますが、まつりをすると羨ましがつて見に来るものがあつて為方がないのです。つまり特定の神だけが招かれるので、他の下座の神が羨ましがつて、まつりの饗宴を覗きに来ます。[…]

かやうな訣で、吾々は見物の発生をば、まつりの饗宴の招かれざる客から分化して来たのだといふ風に見てゐます。ともかく日本の藝能では初めから見物を予期してをつたかどうかといふことは非常に問題になります。謂わゞ饗宴から出発した藝能は誰に見せようといふ目的はなかつた。ところがそれをみようといふ目的が出て来てから、見る者の位置がその間に考へ出されて来た。招かれない客の位置がだんだん見物を産み出して来たといふ方が正しいかと思ひます。[34−36頁]

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藝能はどういふ目的をもつてをつたかといふことは、頗疑はしくなります。

無意識の目的は大体考へることが出来る。つまり簡単に言へば、それは一種の鎮め――鎮魂といふことに出発して来てゐるやうに思はれることであります。この鎮魂といふことは、外からよい魂を迎へて人間の身体中に鎮定させるといふのが最初の形だと思ひますが、同時に又魂が遊離すると、悪いものに触れるのでそこに病気などが起るといふことから、その悪いものを防がうとする形のものがあります。

これは支那にもさういふ形がみられるやうであります。ともかく威力をもつてそこらの精霊を抑へつけておくといふことが、家の中のまつりの饗宴の場合に行はれる。此が後に藝能になつたものに通有の目的となるらしいのです。歌を謡ふといふことなども、歌に乗つて来るところの清らかな魂が、人間の身体の中に入る、といふことに最初の目的があつたことは明らかです。[37頁]

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日本の藝能でこの傾向を持つてをらないものはないといふほどの、共通の事項を取出してみるといふことならば、先、第一に挙げなければならぬのは鎮魂とまう一つ同じに考へられ易い反閇[へんばい]といふことであります。[39頁]

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天宇受売命が木槽[うけ]を突き踏みとゞろかして踊つたりしたといふことは、大地に籠つてゐる魂を呼び醒したといふことになりますが――そしてそれが当然に第一の段階を作つたといふことになるが――これはまた悪い魂を抑へつけたことにもなるのです。

つまり踏みとゞろかすといふことは、悪い魂を踏み抑へつけて再び出て来られないやうにする、といふことにもなります。

それでその抑へつける方は何か、といふと、これは反閇であります。これは力足を以て悪いものをば踏み抑へつけるといふ形をする、同時に、悪い霊魂が頭をあげることが出来ないやうに、地下に踏みつけておく形です。このことは日本人のもつてゐる踊といふ藝の中に伝承されてゐますが、このをどりといふ吾々の語は、語自身をみると何の意味もなかつたといふことが訣ります。

つまり下から上にぴんぴんと跳び上ることをば繰り返すやうな動作のことを言うた語です。[42−43頁]

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遊びは日本の古語では鎮魂の動作なのです。楽器を鳴らすこと、舞踊すること、または野獣狩りをすること、鳥・魚を獲ることをもあそびと言ふ語で表してゐますが、これは鎮魂の目的であるからです。つまり鳥、獣を獲つたり、魚を釣つたりするのは悦ぶためだといふ風に解釈されますが、さういふ生物が人間の霊魂を保存してゐるから其を迎へて鎮魂するのです。[54頁]

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田遊びは田に於て鎮魂を行つたといふことではつきりしてゐます。つまり田をできるだけ踏みつけ、その田を掻きならして田に適当な魂をおちつけ、ぢつとさせておき、立派な稲を作るといふことなのであります。

そして田を掻きならすには杁[えぶり]といふ道具を使ひますが、えぶりといふ語の意味は揺り起すといふことなのです。子供を抱いてえぶるといひ、つまりそれは魂を揺すぶることが、同時に安定を誘ふことになるのです。[57頁]

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演劇の昔の伝統を尋ねて行くと妙なことに他には行かないで相撲に行つてしまふことです。これは日本の演劇の正当なものなのです。宮廷では七月に相撲の節会といふものを行ひ、其時期が相撲の季節となりました。そしてこれはどうしても演劇にならなければならなかつたのですが、途中から演劇の芽ばえが起つて来て、相撲はその方面には伸びなかつたのです。[58頁]

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相手の魂を招きこふ動作、それがこひなのです。さうして相手の魂を得ることが出来れば、結局それは自分のものになつてしまふといふことなのでせう。かやうな訣で、だから初めの古い相撲は、勝つ者と負ける者とが予め決つてをらなければならなかつたので、偶然の勝ち負けがあつては困つた訣でせう。といふのは、その勝負によつて一年の収穫の運命が決るものとされてゐたからです。[61頁]

7/11地震から4ヶ月

 昨日の演劇時評。

*地震から4ヶ月

 3月11日から4ヶ月が経過した。

 個人的には4月に子どもが生まれたため、家事と仕事で忙しくなり、あっという間に時間が過ぎた。

 われながら情けないことだが、今回の震災と原発事故によって、わたしは初めて「歴史との接続」が始まった気がしている。2万人を超える人が津波で死んだのに、それが正当な扱いを受けてないと感じると、それは日本に特殊なことなのか、太平洋戦争後はどのような追悼が行われたのかと調べる。この社会の死者に対する視点の欠如を実感すれば、過去が気になり、死者の視点で物事を見る芸能・能楽について読み始める。観阿弥・世阿弥による大成期が同時に死の影に覆われた時代であったことを知る。1755年のリスボン地震とその影響については知っているのに、日本の地震史、ならびにそれが芸能や知識人に及ぼした影響を知らない。

 知が揺さぶられ、秩序が揺さぶられるとき、それはこれまで存在しなかった別の接続が生まれる好機でもある。地震が起こってよかった、などとはもちろん思わない。しかし起こった以上、それをできる限り活かすことこそ、夥しい死者に対する追悼の一部であるはずだ。

 今回の地震を経て、言う価値があると思えること、書く価値があると思えることは、わたしにとって変化した。子供が生まれたことも影響しているかも知れない。今の社会を楽しくするために自分ができることを、確実にかたちにしていきたいと思う。

[育児2]あらた100日




7/10 国家から社会へ

 10日の分の演劇時評。

*社会関係資本と国家

 10日は一歳年上の姉と保育園(2歳くらい)から一緒に育った友人の誕生日だった。今でもことあるごとに助けてもらっていて、二人には感謝している。

 3月11日以来、「社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)」の重要性が指摘されている。ウィキペディアによれば、これは「社会の信頼関係、規範、ネットワークといった社会組織の重要性を説く概念」だ。「端的にいえば[…]地域力、社会の結束力と言ってもよい。[…]「顔の見える付き合い」すべてを指すといっても過言ではない」。

 日本の将来はこのソーシャル・キャピタルをどれだけ豊かにできるかにかかっているだろう。それは「マンションのお隣さんと仲良くすべき」とか、「古き良き人とのつながりを取り戻そう」という話ではない。自分にとって必要な相手と関係をもち、互いに援助しあえることが必要だ。

 4月に子供が生まれた。いろいろとモノが必要だった。服、ベビーカー、チャイルドシート。すべてもらった。車が必要なときも貸してくれる友人がいる。お金はないが、社会関係資本に恵まれたおかげで、特に不自由なく生活している。

 もはや問題は「子ども手当」に象徴されるような金銭ではない。もはや国家は国民に一様に解決策を与えることができない。お金はあっても友人のいないひと、友人がいてもお金がないひと、様々だからだ。問題は極めて多様化、複雑化、個別化しており、国家が上からできることは限られている。

 現在の領域国家システムはわずか数百年の歴史しかもたず、おそらく現在、それが本格的に変容していく時期に差し掛かっている。国家は縮小し、社会が拡大すべきだろう。それを大きな方向性として認識し、社会を厚くしていくことが重要だ。

[語学A2]相良『文法』

 語学を教える際に、「これはこういう規則だから覚えろ」というのは、できるだけ言いたくない。と、すべての語学教師は思うべきだ。

 第一にそれでは覚えづらい。つまらないし、ひっかかりがなさすぎる。

 第二にそれでは言葉が現在の形になった必然性、歩んできた歴史がわからない。それどころか、言葉に歴史が存在すること自体を感じられない。

 相良守峯『ドイツ文法』は、言葉の歴史を感じさせる文法書だ。ドイツ語に関しては最強だろう。相良は中世ドイツ語学・文学の大家。「キムラ・サガラ」と呼ばれる辞書をつくったことでも知られる。

 この『ドイツ文法』、初級文法を知らない者は近づくことさえできず、中級文法を終えたくらいではありがたみがわからないかもしれないが、すごい。ドイツ文法に関する様々な規則が、なぜそうなったか、かつてはどうだったのかといった知識を混じえて、しかし簡潔に説明されている。「ナルホド、語学というのは歴史なんだネ」「目にみえないもの、すなわち『時間』が目にみえるカタチをとったもの、それが『ことば』なのかナ」なんて自然に思えてくる。歴史的存在としての言葉。

 こうしてまとめられたすばらしい本が出ているのだから、これに書かれたことくらい、ドイツ語教師は知識として伝達できるべきだ。といってもこの本も絶版。古本で手に入る場合は、1979年の改訂版をオススメする。

7/9 法的な力と政治的な力

 9日の分の演劇時評。遅れてしまった。

*「法的」と「政治的」

 かつて外務省受験のために国際法を勉強した際、「国際コントロール」という制度を知り、興味深かった。

 「国際コントロール」というのは、簡単にいえば多数の国家による「寄合」だ。この寄合は、いろいろなことを話し合い、「あれは問題だ」「これはどうにかしないといけない」と議論する。しかしだからといって、誰か(=特定の加盟国)に対して何かを強制的にやらせる権限はもたない。ただ「あの件は問題だよね」「あの人(国)は問題だよね」と議論する。

 ところが、いくら強制力はもたないといっても、国際社会という舞台でそうおおっぴらに話題になれば、問題視された国は対処せざるをえない。国際的な信用、国家間の関係に影響を受けるからだ。

 このように、厳密な意味での強制力はないにもかかわらず、相手が動かざるをえない状況にする仕組み、相互利害の均衡を生み出すシステムが国際社会では模索されている。

 法学、政治学では「法的」と「政治的」の区別が重要だ。書かれた条文に従って強制的にとらされる責任が「法的責任」。条文に根拠をもつわけではないが、社会の状況に照らしてとらざるをえない責任が「政治的責任」。さきほどの「国際コントロール」の例では、「法的強制力」はないが「政治的圧力」はある、ということになる。

 日本の現状は、法的責任が悪用される(例えば検察の横暴)だけでなく、政治的責任も悪用されている(「政治とカネ」)。しかし政治的責任、政治的圧力は、本来であれば法がまだ整備されていない問題意識を「力」に変えるものであり、主権者の意思が社会を変革するためのツールであるはずだ。その力、その意思を、マスメディアというコンバーターを介さずに組織化することが必要だ。今後のソーシャルメディアの発達が「政治的な力」を組織するのだろうか。いずれにしても「規模」が必要だ。

[論文A2]秩序論2

1.
 クライストは戯曲7本、小説8本を遺した。その15作品でOrdnung秩序という単語を使用したのは34箇所(Anordnung, Verordnung, Schlachtordnung等の派生語、合成語を含む)。最多は小説「ミヒャエル・コールハース」の11回、それ以外に飛び抜けて頻出する作品はない。主な使用例は以下の通り。作品の成立順に引用する。引用の翻訳に際してはOrdnungという語の用法を示すため、いわゆる自然な日本語には留意しない。

引用1:
『シュロッフェンシュタイン家の人々』
オトカール:(彼女の言葉を遮って)こうなると
水かさを増した春の大河のように、
節度も秩序もない感情Regung ohne Maß und Ordnungが湧き上がってくる。

引用2〜4:
『こわれがめ』
ヴァルター:
ただの無秩序Unordnung、乱雑さと思われたことが、
横領のように見え始めてきました。
横領となっては、ご承知のとおり、もはや法律は見逃してはおきません。

ヴァルター:
静まれ! この場に無秩序Unordnungを引き起こす者は―

ヴァルター:
無作法な者め ― わたしのいるこの場には秩序をもたらせSchafft hier mir Ordnung!

引用5:
『ペンテジレーア』
アマゾン族の女1:
あなた方をアルテミスの神殿へ? どういうことです?
冥い樫の森へとお連れします、そこではあなた方を
節度も秩序もない歓びEntzücken ohne Maß und Ordnungが待っています!

引用6〜9:
「ミヒャエル・コールハース」
妻は言った、これからも多くの旅人が、あるいはあなたより我慢のきかないひとたちがあの城を通ることでしょう。あのような無秩序Unordnungを止めることは、神の御業に等しいことです。裁判Prozessを行うのに必要な費用はすぐにわたしが用意しましょう。

このような恐るべき無秩序Unordnung状態にある世界を目にして、彼[コールハース]は苦痛に貫かれたが、そのただ中で、内面的な満足が震えるように沸き上がった。今や自分自身の胸中が秩序Ordnungのうちにあることを見出したからだった[覚悟が決まったからだった]。

彼[コールハース]はこの折に撒いた布令のなかで、自ら称して「この係争Streitsacheにおいてユンカーの党派につくすべての者が全世界を陥れた奸計に対し、火と剣で刑罰を与える主天使ミヒャエルの代理人」と名乗った。その際彼は、奇襲で奪い居城と定めたリュッツェン城から、事物のよりよき秩序eine bessere Ordnung der Dingeを創設するために仲間に加われと、民衆Volkに向かって呼びかけた。

国家の秩序Ordnung des Staatsは、この男[コールハース]との関係において、法学Wissenschaft des Rechtsの原則によって整復するeinrenkenのが困難なほど狂わされてしまったverrückt。

引用10:
『ホンブルクの公子フリードリヒ』
4幕1場
ナターリエ:
むしろ、軍隊で育ったあなたが
無秩序Unordnungと呼ぶもの、すなわちこの件に関する
裁判官たちの判決Spruch der Richterを恣意的に引き裂く行為の方が
わたしには最も美しい秩序die schönste Ordnungと思われます。
軍法が支配するのは当然のことと知っています。
しかし愛すべき感情もまた支配すべきです。

 これらの例から、彼がOrdnungという言葉をどのように使っていたのか、いくつかのことが明らかになる。

2011年7月8日金曜日

7/8 プロセスこそ責任である

 今日の演劇時評。

*原発のストレステスト実施へ

 政府は、国内の全原発を対象に、災害や事故など過酷な事態への耐久性を調べる「ストレステスト」を行う方針を示した。ただし具体的な中身は不透明であり、1週間程度で内容を固めるというスケジュールも適切なものか疑問が残る。

 福島の事故が起こった以上、ストレステストは実施すべきだ。むしろずっと早く実施すべきだった。事実、河野太郎氏は2ヶ月前からストレステストに言及している。また、EUは、6月から加盟国の原発に対しストレステストを開始した。事故が起こった日本はEUよりも対応が遅い。

 今回の決定は唐突な印象を免れない。6月末の国際原子力機関(IAEA)閣僚級会議で全原発保有国に対するストレステスト導入が合意されていたという意見もあるが、これは飽くまでIAEA事務局が行動計画案を策定する際に参考意見として活用される「議長総括」に含めることを合意しただけであり、国際合意ではない。

 わたしのツイッター・タイムライン上では、菅首相の「反原発」的政策に喝采を送るひとが多い。しかし望ましい結果が得られるならプロセスを問う必要はないのか。菅首相の政策の「動機」は問うまい。精神を忖度しても仕方がない。しかし法的・政治的プロセスのあり方は民主制にとって本質的に重要だ。そうでなければ、ポピュリズムさえ存在すれば国民投票は必要ない、ということになる。

 プロセスの重要性はもう一点ある。今後、例えばこのストレステストで日本経済が打撃を受けた場合、日本国民はそれを菅直人首相の責任とするだろう。そしてその頃にはもはや菅首相は官邸にいないだろう。適正なプロセスを構想できなければ責任は常に「自分以外の誰か」に押し付けられてしまう。反省、改善、更新は存在しえない。プロセスこそ責任そのものだ。だからこそ結果だけに一喜一憂してはならない。

[読書A2]揺さぶられる秩序

ハンス=ティース・レーマン「揺さぶられる秩序 ―アンティゴネ・モデル」

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政治的なものの境界は時間である。政治は生者の時間を制御できるが、死者と未生者の時間は制御できない。[…]法に対する二つの立場の対立、悲劇におけるその衝突、といったことは、うわべにすぎない。問題はポリスの論理を宙吊りにすること、その知のあり方を揺さぶること、その基盤を失わせることである。それによって、政治的行為とその暴力に「真理」の名を与えることを、不可能にすることである。[33頁]

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芸術、演劇は、言葉によって、政治的なものをその境界で中断させる。しかも政治的なものをある種の否定によって抹消するわけではない。[…]演劇は秩序を崩壊させると同時に崩壊させない。演劇は秩序を「濁った」ものとして、揺らぐものとして見せる。[…]秩序が揺さぶられる、とは、秩序が揺らぐものとして知られるということ、あるいはむしろ、揺らぐもの、揺さぶるべきものとして経験されるということである。[34頁]

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演劇あるいは悲劇の政治的テクストは、政治的に正しいものとは何か、という問題に直接的には介入しない。[…]公的な憎しみを共有しない、誰が「敵」か定義することを第一の基準にしない、それはつまり、すでに述べたように、「政治的なもの」が設定する時間的な枠組みから逃れる、ということである。生者の時間を越えた愛を共有することが、友敵図式を問い直す。そして法的政治的手続きそれ自体の有効性を問い直す。法的政治的手続きとは、結局のところ常に、限定された、また限定する権限をもった、いわゆる有権者[声をあげる権利をもつ者たち]にその正当性を負っているのだから。[36頁]

2011年7月7日木曜日

7/7 閉鎖性から複数性へ

 今日の演劇時評。

*九州電力:「原発賛成」やらせメール 関連会社に依頼

 九州電力の眞部利應(まなべとしお)社長は6日夜、同社内で会見し、玄海原子力発電所(佐賀県玄海町)2、3号機の運転再開の是非を問うため経済産業省が6月26日にケーブルテレビで放送した県民向け説明番組に絡み、九電原子力発電本部の課長級社員が子会社に、再開を支持する電子メールを投稿するよう依頼していたと発表した。(毎日新聞)

 考えるところの多い問題だ。

1)原発を巡る現状でこんなことをしてもばれないと考えるほど思慮に乏しい人間が九電の「課長級社員」である。

2)日本の倫理は底が抜けている。これをいかにすべきか。

3)あるいは、日本の倫理は依然として「場」であり「組織」である。表現の自由をはじめとする基本的人権=各個人に属する権利という思想は馴染まず、場や組織の「掟」が優先される。

4)それを報じるメディアが貧弱すぎる。九電社長の「進退」を問題にしているが、トップが辞めても問題は変わらない。九電という組織、ひいては日本の倫理の再設定を問う好機にもかかわらず。

 詳細は不明だが、今回のことが公になったのは、「関連子会社」からのリークによるのだろう。日本が「場の論理」の強さという特殊性を抱えた国なら、その「場」自体を複数化し、多数化し、相互抑制と均衡を生じさせることが一つの可能性かもしれない。先日の松本復興相の件も、東北放送がテレビという場でのみ報じたら危うかったかもしれないが、東北放送は情報がネット上に流れることを確信していたはずだ。だからこそ報道できたのだと思う(むしろみずから流した可能性も考えられる)。ひとびとが複数の場に属していることが当然の前提になれば、いくら大臣や親会社の人間でも下手な指示は出せまい。

 閉鎖性を複数性によって代替する。それが日本の倫理の可能性だと考える。

[語学B1]パウル『語源』

 辞書もいろいろだが、ドイツ語を本格的に勉強するなら、Hermann Paulの語源辞典『Deutsches Wörterbuch』は役に立つ。

 外国語を日本語に翻訳して理会する。そのときの「言葉の意味」は、どのように決定できるだろう? 独和辞典を引き、限られた訳語の可能性の中から選択すればいいのか? ならば独和辞典は万能であり、そこに挙げられた訳語以外の可能性は存在しないのか? もちろんそんなことはない。その点が独和辞典(英和でも仏和でも同じだろう)の限界だ。

 「言葉の意味」は常に文脈においてしか決まらない。その認識が決定的に重要だ。

 私見では、文脈には大きく分けて四つある。まずは対象となるドイツ語単語が現代においてとりうる意味の幅という水平的な文脈。他方、そのドイツ語が歴史的にどのような意味の変遷を遂げてきたかという垂直的な文脈。さらにその単語の訳語として選択しうる現代日本語の水平的文脈。そしてその歴史的変遷という垂直的文脈。それら四つの軸が交わる地点で訳語を決定することが、言葉を出会わせ、更新する行為としての外国語理会であり、翻訳だ。

 パウルの語源辞典は、大学3年生のときに慶応時代の恩師・大宮勘一郎先生に教えていただいた。すばやく情報を取り出すことこそ現代においてもっとも重要な言葉の使用法だが、言葉との関わり方はそれだけではない。政治、公共、憲法、社会など、思考することが困難な対象は、必ず言葉としての特殊な事情を抱えている。逆に言えば、言葉自体の抱える事情をさぐることは、その概念を思考する大きな手がかりになる。日本語に関してもそう言えるし、ドイツ語を遡ってみるのも一つの手だ。

 歴史の集約点としての言葉、歴史の交流の場としての言葉の姿を垣間見るために、パウルの語源辞典をぜひ使ってみていただきたい。

2011年7月6日水曜日

7/6 国家と子供

 今日の演劇時評。

*子ども・子育て新システム:幼保一体「総合施設」

 政府は6日、新たな子育て支援策「子ども・子育て新システム」に関する中間報告をまとめた。従来の幼稚園、保育園、企業やNPOによる保育施設、さらには一定の基準を満たした無認可保育所が、まとめて「こども園」に指定される。各施設にバラバラに出している補助金は「こども園給付」に一本化。補助対象が広がり、現行と同水準の負担で幅広いサービスを受けられるという。

 この新システムの趣旨は「待機児童の解消」とのこと。しかし今回の中間報告では、あらゆる施設が「こども園」と呼ばれるようになることはわかったものの、それがいかに「待機児童の解消」につながるのかは不透明だ。補助金が一本化され、これまで同様の負担でよりサービスを受けられると言うが、そもそも待機児童問題の原因が何で、それをどのようにケアするのか説明を受けない限り、「それで問題が解決するのだろうか」という疑問は拭えない。その点に踏み込む新聞がないことも信じられない。官僚の説明を記事にしただけと捉えられても仕方ないだろう。

 これからの国家と子供の関係が問題になっている。少子化にもかかわらず子供をケアしきれないということは、今後の日本国家は子供の平等な育成に真剣な関心をもたないと考えてもよいのかもしれない。

 国民が税金を納めている以上、待機児童問題や都市部における子育てのしづらさを国家に手当させることは当然だが、しかしそれが単なる「名前のつけかえ」以上のものではほとんどなく、実効性に乏しそうであれば、逆にそれをビジネスチャンスと捉えることはできないのだろうか。そうした場合に民間の力を活かせるよう、今後の国家は「できるだけ邪魔をしない存在」、すなわち規制緩和を基本姿勢としなければならないのだが、それは官僚の権限を狭めることになるため、達成は容易でない。変革の要所は存在せず、あらゆるものごとを少しずつ変えていかねばならないのだろう。

[論文B1]プロセス論1

Kleist/Prozesse

0.

 Heinrich von Kleistの作品は、その短編小説も含め、すべて「裁判劇」であると考えることができる。戯曲『こわれがめ』『ホンブルクの公子フリードリヒ』『ハイルブロンの少女ケートヒェン』や、短編『決闘』『ミヒャエル・コールハース』といった、裁判そのものが物語にあらわれる場合のみならず、その他の作品も形式の上で「裁判劇」になっている。ここで「裁判」とは、ある紛争において異なる立場が対立し、その解決を目指して各々が主張を戦わせること、とする。

 クライストの「裁判劇」は多様な争点をもつ。こわれたかめの犯人を同定すること、軍規に背いた者の処遇、相続争い、等々。しかし本論文は、こうした個別の争点を越えたレベルで、「クライストの裁判劇では、実際には何が争われているのか」を明らかにすることを目的とする。

 論旨を多少先取りすれば、クライストの裁判劇における「言語」の扱いが問題となる。裁判は言語を介して進む。クライストは言語をどのようなものと考え、それを作品上に定着させたのか。なぜ彼は言語の過程としての裁判を繰り返し作品化したのか。

 クライストの言語不信、というテーマが、クライスト研究において取り上げられてきた。わたしたちはそのような狭い学説上の争いに興味を覚えないが、しかし「クライストの言語不信」に関しては、これを明確に否定する。言語不信者が自殺するまで言語を扱ったというのは理会としてあまりにむごい。そもそも言語を信じるとはどういうことか。それが言語による合理的な説得を可能と考える、ということなら、たしかにクライストは言語不信だったかもしれない。しかし彼は合理的説得とは別のあり方、別の機能を言語に認めていた。彼の裁判劇で争われていたもの、それは言語の別の可能性だった。そしてその言語理論は、彼の政治理論にとって不可欠だった。以下、個別作品に沿って彼の裁判劇と言語の関係を論じ、それをさらに彼の政治理論へと接続する。

7/5 追悼の更新

 昨日の演劇時評。

*東日本大震災の死者・行方不明者 2万2629人

 警察庁の発表によれば、7月3日現在、東日本大震災による死者・行方不明者は約2万3千人にのぼる。行方不明者とは「警察に届出があった行方不明者」を意味する。家族全員が津波に流され、届出が出されていないケースも想定されることから、実際の死者はさらに多いと思われる。

 今次震災の特殊性は、地震・津波と原発事故の二段構えになったことだ。そして後者は依然収束の見通しが立たない。そのため、2万人以上の人間が死んだ事実に日本人は向き合いきれていない。日本の「公」を担うはずの政治家たちも、日々の政局と原発問題に追われ、「死者の追悼」という問題には思い至らない様子だ。来年の3月11日が近づくまで意識することもないだろう。

 2011年3月11日は日本人と日本国家の関係性に歴史的な楔を打った。日本人は地震・津波対策や原発問題によって日本国家への信頼を失った。今後、日本を「国家の強化」によってまとめることは難しい。わたしは、これからの日本人は「国家」と「公」を分離し、「国家」をより小さく、しかし「公」をより大きくすべきだと考える。社会的・経済的な基礎を国家に委ねては「国家」も「公」も揃って崩壊すると考えるからである。アメリカで議論されている政府2.0のような形態が一つのモデルになるだろう。

 そう考えると、「死者の追悼」という、国民国家にとって極めて重要な意義をもっていた行為も、考えなおさねばならない。むしろ政治家や官僚にはもはや「死者の追悼」を先導する権利はないと考えるべきだ。「国家」のために「公」が組織される時代は過ぎた。それでも「死者の追悼」が必要だとすれば、なぜ必要で、誰がそれを組織すべきなのだろう。「国家」から分離される「公」とはいかなる理念に支えられ、「死者の追悼」はそれとどのように関係するのか、しないのか。

 追悼の理念と形式を更新しなければならない。

2011年7月5日火曜日

[読書B1]能の世界

『ようこそ能の世界へ 観世銕之丞 能がたり』(暮しの手帖社、2000年)

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 室町という時代をもうひとつの側面からみると、決して泰平の時代ではないんです。平安、鎌倉以降、南朝と北朝に分かれて戦った時代を、足利氏がやっと統一して、特色のある文化が生まれたのも束の間、後半はまた、応仁の乱で京都が焼け野原になるという、累々たる死者がでた戦乱の時代を過ごすわけです。いわば殺戮とはかなさですね。

 ですから室町文化には死者の視点があるのです。人間が死というものを非常に身近かに感じていたし、もちろん飢餓なんていうのも今の比ではないわけです。ですから、能は死者のまなざしからものを見るという点でも、室町の精神風土を色濃く映していて、ほかにはなかなか無い作りなんです。[24−25頁]

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 そもそも、木で作った面をかけるということ自体が絶対に嘘なわけです。ところが、役者が面をつけて舞台に立ったときに、その面にいろんな表情が出てくるのです。そして、その役者の生きてきた時間、理念や感覚、そういうことが面とぶつかることによって表に出てくるんです。そのためには、どこかに役者の生身の部分が露出してないと闘えないわけですよ。[48頁]

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バランスのいい構えというのは、大地から引っ張られる力と、天に向かって引き上げられる力とが拮抗することですから、うまい方っていうのは、決して腰が落っこちていないんですよ。

[…]

 それは、世界宇宙のなかに立って、前後左右から無限に引っ張られているなかに、拮抗して立っている存在感。その緊張感があるからこそ、精一杯の力を発揮することができる。ただ立っているだけではダメなのです。

 立つことのなかに、アクセルを踏めば時速百キロはでるというスピード感を自分にかけておいて、しかも、ブレーキを踏んで止まっている状態です。独楽がいっぱいに回っているときには、まるで静止しているように見える状態と似ていますね。[57−58頁]

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 ふつうの演劇は、舞台に人物が現れて、そこに何か事件がおきてドラマが始まるんですが、能の場合は、事件というのはすでに終わっていて、舞台は、その事件によって引き起こされた何らかの状況を背負った人が現れるところから始まる、みたいなところがあるのですね。[59頁]

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 芝居全体からみると、舞の前後には文学があって、それを謡という形で表現しているわけですが、その謡をあるところで一瞬とめて、そのとめている時間を拡大するというのが、能における舞のいちばんの基本なのだろうと思います。[88頁]

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 能においても、室町の時代というのは人の死というのが激烈だったわけですよ。ですから、そういう社会のなかでドラマを考えたときに、いっぺん死んだ人を死の世界から呼び戻してくる、という方法論を考えついたんではないのでしょうか。ほかの演劇には類例がない、非常にくっきりとした死者の眼差しから生を見るという能の視点は、演劇として今だに新しいのです。[94頁]

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 そういうふうに、面というものは幾多の歴史を超えてきているので、ずっと昔にそれをかけて舞った人の息やなにかが吹きかかっているというのは確かなことですから、そんなことからも、死んだものというより生きているものという感じがするのです。ですから能を演じていても、あんまり下手だったら面に怒られてしまうのではないかって思ったりするのです。[131頁]

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舞ったり演じたりしている役者の内面が、面をかけることによって見えてくるのです。素顔だったら出てこない部分までもが見えてくる、そういう仕掛けが面にはあると思うのです。つまり、オモテに対するウラの存在ですね。面の裏に隠れているからこそ、自分の訴えたいことを思うがままに舞台の上で演じることができるのです。さらに言えば、役者の思いというものを託することができ、かつ闘うことができる相手、それが面ということになるのです。

 もちろん面は木でできていますから、まばたきしたり、ほほえんだりという表情はないですが、その表情を拘束してしまったところから、逆に内面的な動きが出てくる、真実が見えてくるということがあるのです。[135頁]

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 つまり、普遍的な“業”みたいなものを、生身の人間が演じると、どうしても品が悪くなってしまうのです。[144頁]

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 そもそも鬼というのは、歴史的に見ても、その始めは、追うものと追われるものという形態から生まれてきたと考えられています。その追うもの、時によっては追われるものというのは、大自然の脅威であったり、異民族の襲来だったり、暗闇にうごめく、得体の知れない恐怖であったり…。

 そして、そういう諸々の邪悪を追い払う、ということで生まれてきたのが、神社などでやる祭礼的な悪魔払いだったのだと思います。[…]この鬼やらいに使われていた土俗的な鬼の面が時代をへて、能の面へと流れてきたわけです。ですから、能の歴史のなかでも、室町以前には、こういう鬼神の面が圧倒的に多かったし、また発達もしていたのです。[171−172頁]

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能は、その時一回きりの公演ですから、役者同士のあいだに緊張感がないといけませんね。ツレとも何日か前に合わせるだけです。お互いをあんまり分かりすぎないほうがいいんです。[220頁]

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 風流という言葉がありますが、自分の理念のなかにある美学みたいなものを「風」とするならば、その美学をひとつの流れとして広げるというのが「流」、それが風流ということだと思うんですよ。風流というと、どうしても粋とか趣とかいわれるけれど、私はむしろ理念のなかにある美学をもって、いろんなことに接し、伝え残していく、そういうことではないのかと。[245頁]

7/4 議論と意思決定

 昨日の演劇時評。

*松本復興相が辞任


 5日、松本龍復興担当大臣が辞任した。3日に宮城県の村井知事と会見した際の「叱責」を東北放送が放映し、インターネット上を中心に批判が高まっていた。辞任の理由については「個人的な都合」と述べ、明らかにしなかった。

 まず、この問題についてもっとも基本的なことを明らかにしたい。松本氏が批判されるべき第一の理由は、宮城県知事に対して高圧的な態度をとったからではない。その後、「今の言葉はオフレコだ」とし、「書いたらその社は終わりだから」と述べたことが問題なのである。

 この発言のとおり、主要メディアは会見の実態を報じなかった。発言を事後的にオフレコにできるとは、日本のメディアは報道の自由をみずから放棄しているようなものだ。この大臣を通じて見えてきた政治とメディアの関係が問題なのだ。

 その後、東北放送がこの件を報じ、ネット上で周知の事実となってから、マスメディアは後追いで報道した。しかもその際、「知恵を出さないやつは助けない」という発言に問題をすり替えた。政治との関係におけるみずからの自主規制が焦点化されないように歪曲したとしか考えられない。

 一方で、たかだか出迎えなかったくらいで日本の復興を議論する場のマインドセットを変えてしまう人間が大臣であることは、たしかに絶望的な状況だ。

 しかし、感情が理性を悠々と凌駕する、というこの事態は、常に、いたるところで、この国の問題だったし、これからも問題になるだろう。理性と論理を貫徹させることで物事を進めていくというモデルは、日本では不可能なのだろうか。しかしそれは「政治」が不可能性であることを意味するのではないか。いずれにせよ、この国が議論と意思決定のあらたなモデルを必要としていることは間違いない。

2011年7月4日月曜日

[育児1]あらた3ヶ月










7/3 「日本」演劇の複数化

 日曜日の分の演劇時評。

*節電教育 高橋源一郎氏のツイート 経済産業省 東京都教育委員会

 東京電力・東北電力管内で「節電教育」が始まった。「節電教育」教材を作成しているのは経済産業省および各地の教育委員会。原発そのものの事態を収束させることは苦手でも、あっという間にテキストを作成することはできるようだ。

 この問題が明らかにしているのは、日本は依然として中央集権的国民国家モデルで物事を動かしている、ということだ。国民一人一人の課題とは、すなわち国家の課題であり、国家の課題を決定するのは受験制度の頂点にいる官僚である。

 課題が明白で、単純で、官僚たちがまっとうな能力と問題意識を備えていた時期はそれでよかった。しかし、今回の原発事故を受けての節電にもかかわらず、「なぜ節電が必要になったのか」「これからのエネルギー政策はどうあるべきか」といったことは微塵も考えさせず、ただ節電が必要だから子供は黙って節電しろと言わんばかりの「教育」では、この国を変えようとする有為の人材や、エネルギー政策の転換を好機と捉えるようなものの見方は育まれない。相変わらずの「由らしむべし知らしむべからず」だが、それではこれからの世界では立ち遅れるばかりだろう。

 とはいえ、この「日本」という「ただ一つの大きな演劇」を変革しようとしてももはや無駄だ。この「日本」演劇を推進する勢力は、マスメディアを活用して今後も「ただ一つの大きな演劇」を組織し続けるだろう。それと正面から衝突する必要はない。むしろ「日本」の演劇を複数化すること、脱中心化し、遍在化させることが必要だ。「公」と「私」のあいだに大きなグラデーションを生み出すこと、国家以外の場所に公共性を生み出すこと、しかも「私」とダイレクトにつながる公共性を生み出すこと。

 演劇は小さく、多く、いたるところに、そして個別具体的にならねばならない。

[語学A1]関口『入門』

 今月はドイツ語学習に役立つ参考書・辞書の名作を少しずつ紹介したい。

 おそらく現在、ドイツ語を本格的に学ぶひとは、どんな教科書であれとにかく初級文法をひととおり終え、そこからさらに実力を伸ばすために参考書や辞書を物色するようになる、と思われる。実際、わたし自身も大学1年の時に使用した教科書がなんだったのか覚えていないが、その後の「修行時代」に意識的に選択したものは、すべて深く記憶している。

 したがって今日では、「1冊目は何でもよい」ということが一般的に言えるだろう。あるいは、そんなことを意識もしないうちに過ぎ去ってしまうもの、それが1冊目だ、ということか。

 それでもしかし、初学者がたった1冊で学ぶならベストな本は何か、という問いは理論的に残る。

 この問いに対し、わたしは関口存男『入門 科学者のドイツ語』を推す。これは1冊での完成度という点ではおそらく最強のドイツ語教材である。

 なにがそれほどすごいか。

 まず、説明が簡潔で、読みやすい。無駄なことが書かれてない。しかし他の参考書には書いてないような重要なポイントが押さえられていて、ドイツ語の深さが不意に垣間見える。さらに文法、文例、文章読解のバランスがすばらしい。初級文法を学びながらこれほど文章を読ませてくれる参考書はまずない。

 そして何よりも、その書名が示すように、内容面で科学を多く扱っている。日本のドイツ語参考書はそのほとんど(すべて?)が文学部や外国語学部出身の教師が書いており、内容があまりにも文系に偏っている。せいぜい新聞記事や政治家の演説が使われる程度で、科学、技術、法律などはほとんど扱われない。この点においても画期的だ。文章読解には「円とは何か」「ターレスの定理」「自然科学的認識」「生命とは何か」など興味深い話題が多い。

 唯一残念なのは、接続法が扱われてないことだ。これだけは類書で補うしかない。

 それでも、1冊で、無理なく、簡潔に、しかし知的好奇心を刺激し、ドイツ語の深淵をのぞかせながら学習を助けてくれる参考書はこれしかないだろう。1960年に三修社から出版された新装版が絶版になったのは本当に残念だ。大学図書館を利用できる方はぜひ探してみてほしい。

7/2 集会・民主制・自由主義

 土曜日の分の演劇時評。

*東電株主総会開催 スポニチ J-CAST

 6月28日、東京電力は福島第1原発事故後初の株主総会を開催した。株主からは議長の勝俣恒久会長の解任動議などが出された。会場には9千人以上の株主が訪れ、いずれの議案でも「賛成」に半数以上の手が挙がったが、勝俣会長はその数を確認することなくすぐに否決。議決数約131万のうち、大口株主からの委任状が約108万を占めていたため、採決を取るまでもなく実質的に結果は決まっていた。

 東電の個人株主は74万人。株主数の上では99%だが、株式数の割合は44%。他方で1%の大株主が56%の株を保有しているという。保有率3%台の株主上位には信託銀行、生命保険などの金融機関が並び、東京都も2.7%所有している。

 東電経営陣の提案はこの大口株主の委任状を後ろ盾にすべて可決され、株主からは「茶番だ」「出来レースだ」と批判が噴出した。

 20世紀ドイツの法学者カール・シュミットは、民主制と自由主義の並置(の擬制)こそ、現代において「政治」が抱える最大の問題の一つだと考えた。彼によれば、民主制とは集合体としての「公」の「喝采」により支えられるものであり、それは「公」を「諸個人」に解体し、一人一票を与え、秘密投票した結果を総計する自由主義とは根本的に相容れない。彼はルソーの全体意思と一般意思の相違を踏襲し、そのように考えた。

 今回の株主総会もまた、民主制に対する自由主義の優越と言える。法的観点からは何の問題もなく、文句のつけようがない。しかしこの自由主義的な制度のもとでは、これまでの数倍の株主が集まった事実や、ネット上を中心にそれに関する無数の声が挙がったことが何の意味ももたない。これは真に有効な制度なのだろうか? 「演劇」は喝采によって評価されるべきなのか、それとも無記名アンケートの結果を重視すべきか?

2011年7月2日土曜日

[論文A1]秩序論1

Kleist/Ordnungen

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 演劇の機能とはなにか。Hans-Thies Lehmannはかつてアンティゴネ論でこの問いに一つの答えを示した。“Erschütterte Ordnung – Das Modell Antigone“、論文の名が宣言するように、Ordnungをerschütternすることがソフォクレスの『アンティゴネ』の歴史的機能だった。前者は通常「秩序」、後者は「揺さぶる」と訳される。アンティゴネはポリスの秩序(Ordnung der Polis)、すなわち政治的なもの(Das Politische)を揺さぶる。

芸術、演劇は、言葉によって、政治的なものをその境界で中断させる。しかも政治的なものをある種の否定によって抹消するわけではない。[…]演劇は秩序を崩壊させると同時に崩壊させない。演劇は秩序を「濁った」ものとして、揺らぐものとして見せる。[…]秩序が揺さぶられる、とは、秩序が揺らぐものとして知られるということ、あるいはむしろ、揺らぐもの、揺さぶるべきものとして経験されるということである。[掲載書34頁]

しかし「演劇が秩序を揺さぶる」というこの経験自体、ギリシャにおいては秩序の一部だった。確認するまでもなく、古代ギリシャにおいて演劇は国家の祭事であり、ソフォクレスはアテネの将軍だった。ギリシャの秩序は、演劇という自分自身を揺さぶる経験をビルトインしていた。レーマンがそのことに敢えて触れないのは、現代ドイツで演劇が公的なものとして、やはり秩序の一部に組み込まれているからか。それとも秩序の内外いずれからでも、演劇は秩序を揺さぶりうると考えるからか。いずれにせよ、演劇の主要な機能を「秩序を揺さぶる」ということに認めるとしても、社会における演劇の地位が異なれば、それがギリシャとは異なる形態であらわれざるを得ないことは容易に想像される。

 ところでレーマンは、件のアンティゴネ論とは別のテクストにおいて、演劇と秩序の関係にある別の系譜を認め、その上である意味では『アンティゴネ』の延長線上に19世紀初頭に生きたさる人物の作品を位置づけている。

アリストテレス的な伝統を以下のように読まねばならないとすれば、すなわち、美的なもの、とりわけドラマとは、現実の混沌に秩序をもたらすものだ(美的なものはロゴスのアナロジーである)とすれば、クライストに関しては、ドラマ的なプロセスが逆にあらゆる秩序の中に潜む支配不可能なもの、偶然性[…]を展開している、と言える。[同161頁]

ハインリヒ・フォン・クライスト(1777-1811)は、事実、秩序に対して極めて懐疑的な考えを抱いていた。軍人の家系に生まれ、実際に軍隊を経験し、のちにはプロイセンの官僚として務めたこともあるにもかかわらず、あるいはそれゆえに、だった。

ドイツの自由は、今やすでに自らの墓を見つけてしまいました。[…]秩序正しいordentlichのが今日の世界です。しかしそれはいまだに美しい世界でしょうか? 求めてやまぬ心をもつ者たちは哀れです! 美しいことや偉大なことをしたいと思っても、誰も彼らを必要としません。今や全てが彼らとは無関係に生じます。なぜなら、秩序Ordnungが発明されて以来、あらゆる高徳の行いは不要になってしまったからです。貧者が施しを求めてきても、警察の布告の命ずるままに、彼を職業斡旋所に引き渡さなければなりません。火事の家の窓から老人が助けを求めて叫ぶのを見て、短気な男が駆けつけようとすると、入口に立つ見張り番に止められ、適切な処置はすでにとってあると言われるのです。どこかの青年が祖国を脅かす敵に対して勇敢に武器を取ろうとしても、王は国家を守る軍隊を金で雇っているのだと諭されます。[強調は原文、An Adolphine von Werdeck, DKV4, 279]

 そもそも秩序Ordnungとはなにか。また演劇が秩序と深い関係にあるというレーマンの視点に同意し、クライストがその点で特異な作家であるとするならば、彼の作品においてそれは具体的にどのように現れるのか。クライストは自分の作品と秩序の関係をどのように思考し、実践したのか。

 結論の一つを先取りすると、レーマンのようにクライストの作品の中に演劇と秩序の特異な関係を見出すだけでは、わたしたちは満足しない。クライストの演劇は国家の祭事として上演されるようなものではなかったし、クライストはそのことに自覚的だった。ただ作品を書くだけでは無に等しいことを自覚していた。彼は秩序を揺さぶる作品をつくるだけでなく、秩序を揺さぶる作品が、現実に秩序を揺さぶるための環境、すなわちメディアを自分で準備しようとした。そこにこそクライストと秩序の特別な関係があった。わたしたちは以下でそのプロセスを検証する。

2011年7月1日金曜日

7/1 独裁と時間

 今日の演劇時評。

橋下知事「今の日本の政治で一番重要なのは独裁」

 大阪府の橋下徹知事が、6月29日夜、大阪市で政治資金パーティーを開いた。その際、約1500人の参加者に対して大阪都構想への賛同を求めると同時に、日本の政治に関しては、「今の日本の政治で一番重要なのは独裁。独裁と言われるぐらいの力だ」と述べた。大阪都構想についても、大阪市を抵抗勢力と名指しつつ、「権力を全部引きはがして新しい権力機構をつくる。これが都構想の意義だ」と発言した。

 目的が達成され、ひとまず今よりもよい状況が生まれるならば、その手段は独裁でもかまわないのだろうか? あるいは目的の正邪と手段の正邪は一致すべきか?

 わたしは独裁一般を排すべきものとは考えない。問題はむしろ、その独裁がどれだけの時間を支配しようとしているか、である。ヒトラーはナチ党から政権を奪うことを実質的に不可能にし、またドイツの歴史を書き換えた。彼は過去と未来に及ぶ大きな時間を支配しようとした。彼が独裁を振るった対象は一国一時期の政策ではなく、より大きな枠組みそのものだった。そうした枠組みにおける独裁、手続きにおける独裁を見過ごすことはできない。これは政治だけでなく、組織一般にあてはまると思う。

 現段階での橋下「独裁」に対する是非は、彼の政策に対する評価次第だろう。しかし「独裁が重要」「新しい権力機構をつくる」と言い切る態度には、これからどこまで手を伸ばすか知れないという不安を感じる。大阪府民やメディアは、賛成/反対だけを焦点化してはならない。政策には賛成でも独裁的な手続きには反対など、より繊細な批判が必要とされている。メディアと独裁の関係もあらためて問題提起されるべきだ。

[読書A1]ローマ法

木庭顕『ローマ法案内 ―現代の法律家のために』(羽鳥書店、2010年)

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 当然のことながら、まずは問題を把握するしかない。切迫した具体的な問題を捉え、そして何よりも、既存のツールがどのように、そしてできれば何故、破綻しているのか、を認識しなければならない。まさにこの破綻が問題状況であり、切り込むべき相手である。

 ということは、破綻を捉えるとき、まずは現代の社会における問題自体を繊細に感知していなければならないが、同時に、既存のツールに対して全く新たな目を向けなければならないことも疑いない。というより、この二つのことは同じことである。というのも、問題は、既存のツールが所与に対して機能しない、ということによって与えられている。他方、如何なる問題も既存のツールが何らかの形で関わった結果、多くの場合失敗した結果、形成されている。所与自体がツールとの関係で意味を与えられているのみならず、所与の現実の中に既存のツールの残骸が含まれている。すると、既存の道具とその失敗を一個の現実として把握し直し、これを踏まえて、新しい問題を位置付け、そしてこれに立ち向かうためにはどのようにツールを構築すればよいのか、と考える以外にない。まず初めに来るのはどうしても、既存のツールの一体どこが機能しないのかということを精密に測定する、ということである。

 そうであるならば、最初の作業は、既存のツールをもう一度点検するというものになる。それならば十分に知っている、知り尽くしている? しかしこの意識自体がここで問われてくることになる。本当に知りぬいたと言えるのは失敗を把握しえたことを意味し、次の構築に向かいうるということを意味する。ところがわれわれはここに至っていない。 [2−3頁]

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 最も避けなければならないのは、現代におけるのと似たような問題が有ったと性急に言うことである。行き詰った現代のローマ法学が低俗化の極として提供し始めている形態である。「消費者問題」や「環境問題」が有った? これは物笑いの種である。おそらく現代の問題さえ切実に捉えていないに違いない。精度が悪すぎる。

 既存のツールの破綻が問題であった。われわれの苦しみはローマの苦しみではない。しかしローマの苦しみが把握できなければローマの道具を把握できず、順次それが更新されていった意味が理解できない。すると現在の道具の更新ができないし、現在のわれわれの苦しみの意味が理解できない。[…]

 むしろ、ローマで何が問題にされたかは、現代におけるのとは全く違うという像が必要である。差異の厳密な認識こそがわれわれの精度を上げる。そしてこうすればこうするほど、われわれの問題自体が今までとは全く異なった様相でわれわれの前に現れる、というのでなければならない。問題が新鮮に見えてくれば、新しいツールの構築は間近である。 [6頁]

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 では、紀元前8世紀にギリシャにおいてポリスが成立して以来の土台とは何を意味するか。ギリシャの人々は、ポリスという社会編成を有しない人々と有する人々を厳格に区分した。緩やかに、前者の人々は「自由」(eleutheria)を持たないと考えた。[…]ポリスという社会編成を有することの決定的なメルクマールは、完全に自由独立な複数の主体が君臨しているということである。「完全に自由独立な」ということの意味であるが、それら主体間の関係を(或る高度な質を伴った)言語だけが媒介しており、実力や物的非物的取引が媒介しているのではない、ということである。「君臨する」ということは、彼らがこの言語つまり自由な議論だけで物事を決定したとき、この決定が社会全体に対してオールマイティーでありこれを覆すものがない、ということである。 [17−18頁]

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互いに自分の利益を十分に追求する自由が無ければならないと同時に、まさに相手のそれを保障するために、重要な情報を相手に開放しなければならない。「フェアに戦う」ということである。出し抜かない、隠さない、圧迫しない、等々のことが含意されるが、結局こうしたことは当事者の意識の問題である。現に意識が様々な不透明な力に支配されているときには透明性が生まれない。裏切ったり裏切られたりである。しかるに、そのような透明な意識は一朝一夕に形成されるものではない。極めて硬度で複雑な培養が前提となる。ギリシャではその培養をさしずめ文芸が担った。今日「ギリシャ神話」の豊富な内容として人々が知るものである。 [20頁]

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第一に、委任はしても決して代理はさせないから、批准するかどうかは本人の自由である(レフェレンダムの効用)。これがお前の欲したところだ、引き受けろ、という者の専断と傲慢(代表理論の(不正確な理解の)弊害)は排除される。「皆の決定」=「お前も同意した」に対して懐疑的でありうる。第二に、委任構成でありながらなお、本人もまた居ない、ないし本人を誰も名乗りえない。つまりレフェレンダムに対してさえ懐疑的たりうる。にもかかわらず本当に手続きが尽くされていれば皆は趣旨をよく理解してその通りに動くであろう、という自信である。政治的決定の単一性・一義性を担保するためには、却って手続を尽くすことがよく、単一性だからといって「誰か一人の意思」のようなものを擬制することなど忌避する、という思考である。周知の如く、「主権」の概念はそのような擬制(と決して等価ではないが、それ)を導きやすい。 [25頁]

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自由で独立の主体が存在するということと、その人々が軍事的に動くということは正反対である。政治の空間からは実力の要素は完全に排除されていなければならない。にもかかわらず、この体制を外から実力によって破壊しようとするその実力に対して、軍事組織を以てするしかない場合がある。ちなみに、内側において実力で政治システムを破壊しようとする動きに対しては、実力を用いずにこの実力を破砕できるのでなければ、政治システムたるの資格がない。これは後述の刑事司法の問題となり、このとき実力を用いずに訴追が行われる。[…]軍事化の結果出現した軍事組織が内側に向かって人々を支配しないとは限らない。これをどのように抑止するかは政治にとって最大の課題である。 [28−29頁]

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一年任期は、実に暦のメカニズムの利用であった。暦にはアジェンダが書き込まれ、これは人々の協働を統御する力を持つ。休日は人々を労働から解放し、祭日は身分を無礼講によって解消する。労働の予定、特に著しい協働の予定、は暦に書き込まれている。他方、太陽のリズムと月のリズムを調整するために暦には空白を設けなければならない。二月の末に設定されるが、ローマの場合、この期間は極大化される。暦の空白は協同組織の空白を意味する。人々は流動化する。ここで選挙を行い、軍事編成し、三月になっても編成された社会的一部はそのままの状態に置かれ、日常の隊形に戻らないこととする。これがローマ流の軍事化である。暦に完全に依存するため、一年後にはこの編成は完全に一旦解消される。選挙の結果を含めて。 [28−29頁]

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政治の存立ということに沿って全てが行われるという点は人々の意識の中にビルティンされた判断力が担保する。実態規範はもとより手続規範も原則として書かれない。書いてしまえばそれが自己充足的な権威となって自由な批判を阻害すると考えられた。あくまで実質で思考するのである。 [31頁]

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裁判の場合、決定の機縁は、政治システムの基礎が破壊されたという事実のみに限定された。たまたま誰かが誰かの自由を制約したというのでなく、その事実が放置されればその後そこに政治があるとは言えなくなる、という事実である。 [31頁]

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実現は個別主体の手に委ねられ、しかし同時にその事業は完全に透明で皆のものである、という二重の意味の樹立が生命になる。これは後に委任や組合の概念に生かされるから、わかりにくければむしろ委任のロジックを想起すればよい。かくして「国庫」などを決して概念させない。これを握ったものが全てを牛耳るであろうから。代理人を観念させないに似る。さてそうすると、実現する主体は私人であるということになる。このとき贈与に通常伴う交換や負担の観念を完全に断ち切る必要がある。それはまさに相手が「誰でもない」(そしてまたすぐに述べるように、神々である)ということによってなされる。 [40−41頁]

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一定の財物を失う覚悟であるならば、逃亡して構わないということになる。領域を有し得ないということは追放を意味するが、しかし亡命さえすればそれ以上罪は問われないということでもある。亡命エクシリウムexiliumの権利はこうして保障されるようになる。ということは身体刑スップリキウムsupplicium、その最大のものsupplicium maximumとしての死刑、は違法になる。死刑廃止はデモクラシーや弾劾主義の重大な帰結である。デモクラシーと言えるためには死刑を違法とするのでなければならない。共和末のローマで市民を死刑とする権力濫用はまさにスキャンダルであった。[…]政治システムとしての構成原理を思想として拒絶したからといって犯罪ではないし、裁判が何か反省や改心を求めたりそれによって量刑が左右されるということは断じて許されなかった。精神を罰してはならないというのは今日に至るまで刑事法の基礎である。ふわふわと漂う無分節のものを罰することになるからである。政治はあくまで理念のレヴェルに存するが、だからこそ、物的なレヴェルからの超越が生命であり、だからこそこのレヴェルからの侵食だけを問題とした。だから物的な帰結のみに関わり、したがって身体のみに関わるが、しかし悲しいかな、身体を抹殺すると、精神まで抹殺してしまうことになる。 [51−52頁]