Kleist/Prozesse
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Heinrich von Kleistの作品は、その短編小説も含め、すべて「裁判劇」であると考えることができる。戯曲『こわれがめ』『ホンブルクの公子フリードリヒ』『ハイルブロンの少女ケートヒェン』や、短編『決闘』『ミヒャエル・コールハース』といった、裁判そのものが物語にあらわれる場合のみならず、その他の作品も形式の上で「裁判劇」になっている。ここで「裁判」とは、ある紛争において異なる立場が対立し、その解決を目指して各々が主張を戦わせること、とする。
クライストの「裁判劇」は多様な争点をもつ。こわれたかめの犯人を同定すること、軍規に背いた者の処遇、相続争い、等々。しかし本論文は、こうした個別の争点を越えたレベルで、「クライストの裁判劇では、実際には何が争われているのか」を明らかにすることを目的とする。
論旨を多少先取りすれば、クライストの裁判劇における「言語」の扱いが問題となる。裁判は言語を介して進む。クライストは言語をどのようなものと考え、それを作品上に定着させたのか。なぜ彼は言語の過程としての裁判を繰り返し作品化したのか。
クライストの言語不信、というテーマが、クライスト研究において取り上げられてきた。わたしたちはそのような狭い学説上の争いに興味を覚えないが、しかし「クライストの言語不信」に関しては、これを明確に否定する。言語不信者が自殺するまで言語を扱ったというのは理会としてあまりにむごい。そもそも言語を信じるとはどういうことか。それが言語による合理的な説得を可能と考える、ということなら、たしかにクライストは言語不信だったかもしれない。しかし彼は合理的説得とは別のあり方、別の機能を言語に認めていた。彼の裁判劇で争われていたもの、それは言語の別の可能性だった。そしてその言語理論は、彼の政治理論にとって不可欠だった。以下、個別作品に沿って彼の裁判劇と言語の関係を論じ、それをさらに彼の政治理論へと接続する。
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