2011年7月7日木曜日

7/7 閉鎖性から複数性へ

 今日の演劇時評。

*九州電力:「原発賛成」やらせメール 関連会社に依頼

 九州電力の眞部利應(まなべとしお)社長は6日夜、同社内で会見し、玄海原子力発電所(佐賀県玄海町)2、3号機の運転再開の是非を問うため経済産業省が6月26日にケーブルテレビで放送した県民向け説明番組に絡み、九電原子力発電本部の課長級社員が子会社に、再開を支持する電子メールを投稿するよう依頼していたと発表した。(毎日新聞)

 考えるところの多い問題だ。

1)原発を巡る現状でこんなことをしてもばれないと考えるほど思慮に乏しい人間が九電の「課長級社員」である。

2)日本の倫理は底が抜けている。これをいかにすべきか。

3)あるいは、日本の倫理は依然として「場」であり「組織」である。表現の自由をはじめとする基本的人権=各個人に属する権利という思想は馴染まず、場や組織の「掟」が優先される。

4)それを報じるメディアが貧弱すぎる。九電社長の「進退」を問題にしているが、トップが辞めても問題は変わらない。九電という組織、ひいては日本の倫理の再設定を問う好機にもかかわらず。

 詳細は不明だが、今回のことが公になったのは、「関連子会社」からのリークによるのだろう。日本が「場の論理」の強さという特殊性を抱えた国なら、その「場」自体を複数化し、多数化し、相互抑制と均衡を生じさせることが一つの可能性かもしれない。先日の松本復興相の件も、東北放送がテレビという場でのみ報じたら危うかったかもしれないが、東北放送は情報がネット上に流れることを確信していたはずだ。だからこそ報道できたのだと思う(むしろみずから流した可能性も考えられる)。ひとびとが複数の場に属していることが当然の前提になれば、いくら大臣や親会社の人間でも下手な指示は出せまい。

 閉鎖性を複数性によって代替する。それが日本の倫理の可能性だと考える。

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