2011年7月14日木曜日

7/13 国民は失敗してもよい

 昨日の演劇時評。

*菅首相、「脱原発依存」への政策転換を表明

 菅直人首相は13日、今後のエネルギー政策について、これまで国策としてきた原子力発電には過大なリスクが伴うとし、「脱原発依存」への方針転換を打ち出した。菅首相は記者会見で、「将来は原発がなくてもやっていける社会を実現する」と述べた。「脱原発」の時期的なメドは明言しなかった。(WSJ日本版より)

 わたしは以前から、「政治家の寿命」よりも「政策の寿命」の方が長い場合、最終的に責任をとらない代表者に決定を委ねるべきではなく、国民投票をはじめとする別の方法が模索されるべきだと考えてきた。しかし、ここまで来たらそうも言っていられない。

 「退陣を表明した首相が何を語っても、そういう国づくりが進むとはだれも考えない」と語った自民党議員は、政権奪取の暁にはこの流れを転換すると予告したに等しい。「企業は生産計画を立てられない」と言う経団連幹部は、企業の意思など存在しないかの口ぶりだ。

 国民投票のような明示的形式をとらなくても、「国民の意思」は存在する。今現在、「政治家の意思」と「国民の意思」がある程度重なって「脱原発依存」という方向性が出てきたのだとすれば、今後必要になるのは、「首相の意思」が消えても「国民の意思」を存続させることだ。菅首相が退陣した瞬間に「国民の意思」が変わるわけではない。今の「国民の意思」を貫徹させるための圧力を可視化・組織化する必要がある。

 「国民の意思」には責任が伴う。政治は「いいとこどり」できない。「原発の代わりに化石燃料を使うと、法人税3割増税と同じコストアップが発生する」という主張があるようだが、もしそれが事実なら、日本経済に対するその帰結を含めて「脱原発」なのだから、採ればよい。結果が現れてから「騙された」とは言えない。

 しかし、だからといって「失敗は許されない」とはわたしは考えない。日本社会は自らの責任において行動し、場合によってはあっという間に失敗すればいいのではないか。そして反省し、ふたたび行動すればよいのではないか。それが時間であり、歴史だ。特定の政治家や、国策など、常に「自分以外の誰か」に責任を押し付ける限り、時間/歴史はそこでリセットされてしまい、国民主権の民主制社会としての反省・成長はありえない。

 今の日本は「時間づくり」の主体を「国家から社会へ」とシフトする好機にある。今後、国家は小さくなる。ここで国家への依存を強めてはならない。社会に力を与えなければならない。

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