演劇時評。
*現代日本のシニシズム
17日分に続き、漠然とした話を続ける。
3月11日以来、というよりも原発事故が明らかになって以来、ある問題を感じ続けてきた。それは「科学的」で「情報強者」なひとびとのシニシズムだ。
たしかに脱原発、反原発、原発危険、すでに絶望的etcを唱える者の中にはまったくの事実誤認や歪曲も含まれているだろう。その意味で本当にひどいひとはいる。
しかし他方で、「科学的」で正確な情報をもっているはずのひとびとには、それを上から目線で指摘して「知らない者たち」を切り捨てる傾向があまりに目に付く(具体例は挙げないし、印象論であることも自認するが)。
彼らは何が起きても、「自分はそうなることがわかっていたし、最初からそう主張していたし、多少ものを考える人間ならそれがわかって当然だから、わからなかったやつは怠惰か党派的かのどちらか」と言う。彼らと論争しても意味はない。彼らを支持する者と彼らに反発する者の溝は深まる一方だ。
それが道徳的にどうこうというわけではない。しかしせっかく情報を収集・分析することが得意なひとびとがいるにもかかわらず、個人の性格や態度に由来する社会的損失があまりに大きいのではないか。知識人は公に尽くす人物たれ、などと言いたいのではないが、しかし知識をもつものとしての個人的なモラル、個人的ノブレス・オブリージュは日本ではどうなっているのか。批判するよりもまずは何かの役に立つ、という気持ちを背負う者があまりに少ないのではないか、と思う。
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