昨日の演劇時評。
*今の原発騒ぎを、未来のひとたちはどう思うだろうか
先日、1960年代に書かれたある本を読んでいた。本の具体的内容は今は関係ない。ただその中に、当時のキューバ危機、および核兵器をめぐる「時代の不安」のようなものが記されていた。以前なら、「ああ、そういう時期があったんだな」で終わっただろう。しかし今回は妙にひっかかった。何にひっかかっているのか考えるうちに、原因がわかった。
当時、キューバ危機や核戦争の不安にひとびとが怯え、社会が騒然としていたことを、わたしは歴史的事実として知っている。だが、その不安や騒動にどれだけの意味があったのか、同時に不思議な気持ちもする。騒ぐだけ騒いで、特に何も劇的なことは起こらず、時代は進んだのではないか、と。
現在、同じようなことが起こる可能性を感じ、わたしはひっかかりを覚えたらしい。脱原発だの、それでは大停電が起こるだの、各自がいろいろなことを言っているが、いつの間にか原発も再稼動し、なぜあんなに騒いだのか思い出せないような日常が戻ってくる可能性もまだあるのではないか、と。
今日(13日)の菅総理の「脱原発路線」発表によってその可能性は多少減じただろう。しかし問題の所在は別にあると思う。何か具体的なかたちを残すこと、何かを現実的・物理的に変え、変えたことを記録し、いずれ過去になる現在の状況、感覚、意思を伝えていくことが必要ではないか。
原発の将来がどうなるにせよ、「なぜそんな問題で盛り上がっていたのか、全然わからない」といつか言われるのは、死にゆく者として惨めな気持ちがする。
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