2011年7月5日火曜日

[読書B1]能の世界

『ようこそ能の世界へ 観世銕之丞 能がたり』(暮しの手帖社、2000年)

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 室町という時代をもうひとつの側面からみると、決して泰平の時代ではないんです。平安、鎌倉以降、南朝と北朝に分かれて戦った時代を、足利氏がやっと統一して、特色のある文化が生まれたのも束の間、後半はまた、応仁の乱で京都が焼け野原になるという、累々たる死者がでた戦乱の時代を過ごすわけです。いわば殺戮とはかなさですね。

 ですから室町文化には死者の視点があるのです。人間が死というものを非常に身近かに感じていたし、もちろん飢餓なんていうのも今の比ではないわけです。ですから、能は死者のまなざしからものを見るという点でも、室町の精神風土を色濃く映していて、ほかにはなかなか無い作りなんです。[24−25頁]

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 そもそも、木で作った面をかけるということ自体が絶対に嘘なわけです。ところが、役者が面をつけて舞台に立ったときに、その面にいろんな表情が出てくるのです。そして、その役者の生きてきた時間、理念や感覚、そういうことが面とぶつかることによって表に出てくるんです。そのためには、どこかに役者の生身の部分が露出してないと闘えないわけですよ。[48頁]

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バランスのいい構えというのは、大地から引っ張られる力と、天に向かって引き上げられる力とが拮抗することですから、うまい方っていうのは、決して腰が落っこちていないんですよ。

[…]

 それは、世界宇宙のなかに立って、前後左右から無限に引っ張られているなかに、拮抗して立っている存在感。その緊張感があるからこそ、精一杯の力を発揮することができる。ただ立っているだけではダメなのです。

 立つことのなかに、アクセルを踏めば時速百キロはでるというスピード感を自分にかけておいて、しかも、ブレーキを踏んで止まっている状態です。独楽がいっぱいに回っているときには、まるで静止しているように見える状態と似ていますね。[57−58頁]

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 ふつうの演劇は、舞台に人物が現れて、そこに何か事件がおきてドラマが始まるんですが、能の場合は、事件というのはすでに終わっていて、舞台は、その事件によって引き起こされた何らかの状況を背負った人が現れるところから始まる、みたいなところがあるのですね。[59頁]

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 芝居全体からみると、舞の前後には文学があって、それを謡という形で表現しているわけですが、その謡をあるところで一瞬とめて、そのとめている時間を拡大するというのが、能における舞のいちばんの基本なのだろうと思います。[88頁]

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 能においても、室町の時代というのは人の死というのが激烈だったわけですよ。ですから、そういう社会のなかでドラマを考えたときに、いっぺん死んだ人を死の世界から呼び戻してくる、という方法論を考えついたんではないのでしょうか。ほかの演劇には類例がない、非常にくっきりとした死者の眼差しから生を見るという能の視点は、演劇として今だに新しいのです。[94頁]

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 そういうふうに、面というものは幾多の歴史を超えてきているので、ずっと昔にそれをかけて舞った人の息やなにかが吹きかかっているというのは確かなことですから、そんなことからも、死んだものというより生きているものという感じがするのです。ですから能を演じていても、あんまり下手だったら面に怒られてしまうのではないかって思ったりするのです。[131頁]

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舞ったり演じたりしている役者の内面が、面をかけることによって見えてくるのです。素顔だったら出てこない部分までもが見えてくる、そういう仕掛けが面にはあると思うのです。つまり、オモテに対するウラの存在ですね。面の裏に隠れているからこそ、自分の訴えたいことを思うがままに舞台の上で演じることができるのです。さらに言えば、役者の思いというものを託することができ、かつ闘うことができる相手、それが面ということになるのです。

 もちろん面は木でできていますから、まばたきしたり、ほほえんだりという表情はないですが、その表情を拘束してしまったところから、逆に内面的な動きが出てくる、真実が見えてくるということがあるのです。[135頁]

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 つまり、普遍的な“業”みたいなものを、生身の人間が演じると、どうしても品が悪くなってしまうのです。[144頁]

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 そもそも鬼というのは、歴史的に見ても、その始めは、追うものと追われるものという形態から生まれてきたと考えられています。その追うもの、時によっては追われるものというのは、大自然の脅威であったり、異民族の襲来だったり、暗闇にうごめく、得体の知れない恐怖であったり…。

 そして、そういう諸々の邪悪を追い払う、ということで生まれてきたのが、神社などでやる祭礼的な悪魔払いだったのだと思います。[…]この鬼やらいに使われていた土俗的な鬼の面が時代をへて、能の面へと流れてきたわけです。ですから、能の歴史のなかでも、室町以前には、こういう鬼神の面が圧倒的に多かったし、また発達もしていたのです。[171−172頁]

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能は、その時一回きりの公演ですから、役者同士のあいだに緊張感がないといけませんね。ツレとも何日か前に合わせるだけです。お互いをあんまり分かりすぎないほうがいいんです。[220頁]

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 風流という言葉がありますが、自分の理念のなかにある美学みたいなものを「風」とするならば、その美学をひとつの流れとして広げるというのが「流」、それが風流ということだと思うんですよ。風流というと、どうしても粋とか趣とかいわれるけれど、私はむしろ理念のなかにある美学をもって、いろんなことに接し、伝え残していく、そういうことではないのかと。[245頁]

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