昨日の演劇時評。
*東日本大震災の死者・行方不明者 2万2629人
警察庁の発表によれば、7月3日現在、東日本大震災による死者・行方不明者は約2万3千人にのぼる。行方不明者とは「警察に届出があった行方不明者」を意味する。家族全員が津波に流され、届出が出されていないケースも想定されることから、実際の死者はさらに多いと思われる。
今次震災の特殊性は、地震・津波と原発事故の二段構えになったことだ。そして後者は依然収束の見通しが立たない。そのため、2万人以上の人間が死んだ事実に日本人は向き合いきれていない。日本の「公」を担うはずの政治家たちも、日々の政局と原発問題に追われ、「死者の追悼」という問題には思い至らない様子だ。来年の3月11日が近づくまで意識することもないだろう。
2011年3月11日は日本人と日本国家の関係性に歴史的な楔を打った。日本人は地震・津波対策や原発問題によって日本国家への信頼を失った。今後、日本を「国家の強化」によってまとめることは難しい。わたしは、これからの日本人は「国家」と「公」を分離し、「国家」をより小さく、しかし「公」をより大きくすべきだと考える。社会的・経済的な基礎を国家に委ねては「国家」も「公」も揃って崩壊すると考えるからである。アメリカで議論されている政府2.0のような形態が一つのモデルになるだろう。
そう考えると、「死者の追悼」という、国民国家にとって極めて重要な意義をもっていた行為も、考えなおさねばならない。むしろ政治家や官僚にはもはや「死者の追悼」を先導する権利はないと考えるべきだ。「国家」のために「公」が組織される時代は過ぎた。それでも「死者の追悼」が必要だとすれば、なぜ必要で、誰がそれを組織すべきなのだろう。「国家」から分離される「公」とはいかなる理念に支えられ、「死者の追悼」はそれとどのように関係するのか、しないのか。
追悼の理念と形式を更新しなければならない。
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