2010年11月30日火曜日

クライスト(9)

悲劇『シュロッフェンシュタイン一族』(Die Familie Schroffenstein, 1803)

1.あらすじ

シュロッフェンシュタイン一族には二つの分家がある。ロシッツ家とヴァルヴァント家である。両家は「誰が始めたかわからない」奇妙な遺産相続契約を結んでいる。すなわち、片方の分家の血筋が絶えた場合には、その全財産を他方の分家が相続するのである。この契約が両家を疑心暗鬼にさせている。相互不信はやがて悲劇につながる。ロシッツ家の息子オトカールとヴァルヴァント家の娘アグネスが愛し合うようになり、両家の和解の可能性が見えたにもかかわらず、誤解、伝聞、不安、怒りがその成就を妨げ、オトカールとアグネスは、誤ってそれぞれ自分の父親に刺し殺されてしまうのである。


2.メモ

2.1 重要

・クライストのデビュー作であると同時に、クライストとしては例外的に「モデル」をもたない作品(「ロミオとジュリエット」に似た要素はもつが、Handbuchによれば直接の影響関係はないという)。したがって、この戯曲に現れている要素はクライストの問題意識を明確に反映していると(他の作品にもまして)考えてよいだろう。

・作品がコロスから始まっている。しかも「少年少女」のコロスにいきなり復讐を誓わせる合唱をさせている。

・遺産相続契約から全てが始まっている。誰が始めたかわからないその契約は、「堕罪におけるリンゴ」のようなものと喩えられている。近代の堕罪は「文書」によってなされるのか? あるいは、古代の悲劇が「運命」によって引き起こされたとするなら、近代の悲劇は誰が書いたかわからない「文書」によって生じるのだろうか。また、「遺産」がすなわち「土地」であること。土地をめぐる争いは『ケートヒェン』におけるクニグンデを想起させる。さらに土地=大地の相続が「秩序」と深く関わること。「チリの地震」の問題設定。

・作品冒頭からFehdeやKriegという言葉、さらに病、気絶、発作というクライストに典型的な出来事、Rechtgefuehlという問いなどがあらわれている。のちには鏡のシーン(水に映る自己)さえある。

・そもそもタイトルからして「家族」をテーマにしている。のちの作品にも繰り返し現れる問題。重要なのは、このFamilieが「家族」というよりも「一族」を意味しており、婚姻や養子縁組といったのちの作品における「家族」のあらわれ方よりも「血縁」の匂いが濃いことだろう。この処女作で「血族の崩壊」を描き、のちの作品ではそれ以後としての核家族や非血縁的家族を描いたと考えることもできるかもしれない。Familieは語源的には「集団」というくらいらしいが、もっと調べる価値あり。

・この作品もまた裁判劇である。さまざまな謎と秘密を明らかにしていく裁判劇であると同時に、いわばロシッツ家が原告、ヴァルヴァント家が被告の、当事者しかいない裁判。ルーペルトははっきりと「原告を被告にした」と台詞で言っている。第三者の審級がない、当事者だけの裁判こそ演劇の起源であるとしたのがベンヤミンだった。他方、キリスト教世界の裁判劇は、「有罪/無罪(Schuld/Unschuld)」を法的のみならず道徳的、宗教的にも捉えるため、裁判劇が同時に宗教劇、道徳劇になる。この二重性、三重性に留意せよ。

・信頼と不信(Vertrauen / Misstrauen)。開く/隠す。アグネスがオトカールを信頼したのは、同じ水を飲み、それが毒だったら一緒に死ぬことを示したからだった。行動によって信頼や愛は勝ち取られる。

・クライストにおける「気絶する(in Ohnmacht fallen)」こと。OhnmachtとはMacht(力、権力)がない(ohne)状態。このohnはfortやwegを意味するそうなので、「力から離れて」と考えられるか。すると「in Ohnmacht fallen」は「力から離れた状態へと落ちる」ことである。これが「気絶」。「力から離れた」状態でしか知らないこと、できない行為がある、というのがクライストの作品。もちろんメスマーの理論なども影響しているのだろう。

・人間と自然の重なりあい。クライストは重要な場面で必ず人間を自然の比喩で語る。民衆を大河や波と喩えたり、怒りに満ちた人間を雷を落とす雲に喩えたりする。その一つの根拠が『シュロッフェンシュタイン』では示されていた。すなわち、「自然(Natur)」と人間の「本性(Natur)」は同じ言葉なのである。したがって本性を示している人間を自然の比喩で語るのはごく自然なことなのだ。枯れた木は強風が吹いても倒れないが、強く健康な木は逆に倒れてしまうという有名な言葉もその一つ。また、『シュロッフェンシュタイン』においては、Stammという語が「家系」と「木の幹」を同時に意味することも重要。

・オトカールとヨハン。母親は別とはいえ、クライストにおいて兄弟が出てくるのはこの作品だけなので重要。アグネスを巡って対立するだけでない。ヨハンは注目すべき人物。「アグネスに殺されたい」という死の欲望を抱き、それに失敗すると発狂して道化と化す。「ヘルマン」における魔女のようである。しかも盲目のジルビウスを伴ってあらわれ、ある意味で「真実」を告げる。道化と盲者、すなわちシェイクスピアとソフォクレス! しかしそれは預言というよりも、結末における確認である。もっとも重要な台詞は、Versehen? Ein Versehen? Schade! Schade! である。そのグロテスクさ!

・fallenが「死ぬ」をも意味すること。一度死ぬこととしてのfallenを経由して、変化が起きる。他方で、キリスト教の洗礼を意味するTaufe、すなわち名付けの儀式ももともとは「水に深く潜ること(tief ins Wasser ein- oder untertaufen)」を意味している。キリスト教文化における「落ちること」「潜ること」の射程と意味とは?

・すでに「民衆(Volk)」が重要な要素としてあらわれている。ロシッツ家からの使者をヴァルヴァントの民衆が「石」を投げて殺してしまう。逆にヴァルヴァント家の意向を伝えにきたイェロニムスは民衆の「棍棒」で殴り殺される。石も棍棒も「チリの地震」に登場し、やはり民衆が使う武器である。ジルベスターが民衆について言う台詞「非行も行う精神も何かの役には立つ。もっと役立たせよう、利用しよう」は重要。

・結局、すべての根本原因であるような「悪」は存在しないということ。何らかのきっかけで誤解や不信が始まり、それがほとんど自動的に大きくなってしまう。ゲルトルーデの台詞はそうしたシステムにおいてしか語られえない、すなわち、Drehen freilich / laßt alles sich.ということ。原因の思考(ゲルトルーデ)と結果の思考(ジルベスター)が対立するが、結局はどちらも等価で決定と選択の問題でしかない。なぜなら特定の「内容」や「伝統」をひとびとはもはや共通了解としておらず、「言葉」あるいは「論理」そのものが問題となっているだからだ。個々人の考えや思いは一般化できない。何を言おうとも、常に「逆もまた然り」と反論されてしまう。他方で、自分で自分の論理システムを閉じてしまったルーペルトのような人物には何を言っても無駄になる。そのような時代の「論理劇」としての悲劇をクライストは書くのである。この点で重要な人物はルーペルトだ。彼の不安定さ、怒りと不安、復讐の確信と突然の自信喪失、彼こそクライストの時代の人物だ。一貫性のなさ、一貫性の不可能性が「もうひとつの演劇」の可能性だったのだ。共通了解がなく、一貫性が不可能だからこそ、クライストの人物たちは作中でいとも簡単に変化する。ジルベスターも最後は復讐に赴く。一貫した「善」などではない。理想化された、あるいは心理的に典型化された「性格」ではない。なぜならそんな「性格」として生きることは現実に不可能だったからである。こうしたことがいわゆる「カント危機」とどれだけ関係しているかはまだわからない。なぜなら、カントが問題にしていたのは究極的な意味での「物自体」の認識、人間の認識能力の限界であって、言語と「真実」の関係とは必ずしもいえないからである。

2.2 その他

・クライストにおける「抱きつく(um den Hals fallen=首のまわりに落ちていく)」こと。「チリ」のエルヴィーレなど。

・「死んだら誰も罪人ではない」というジルベスターの言葉。

・谷で見つけたアグネスを「マリア」と名付けたオトカール → 「チリの地震」

・有名な台詞:Das Leben ist viel wert, wenn mans verachtet.


3.今後

・クライストは裁判劇であると言うだけでは仕方がないので、いよいよもう一歩。

2010年11月29日月曜日

時間・歴史・演劇(9)

1.ベルトルト・ブレヒト「感情同化について」(『ブレヒト演劇論集1』、河出書房新社)

君らはけっして農民から、農民であることを
地主から、地主であることを剥ぎとって
しまってはいけない。そうなればかれらは
君や私と同じ、人間そのものになり、君も私も
かれらの感情に参加できるようになろう。
君と私だって同じではない。農民であるか
地主であるかすることで、はじめて人間になるのだ。
だのにどうして感情を分けあえるなどと言えるのだ。
農民は農民のままにしておきたまえ、俳優さん
そして君は俳優のままでいたまえ! そして農民を
他のあらゆる農民とは違ったままにしておきたまえ。
地主だって、他のあらゆる地主とは相当に違っているのだ。


2.ベルトルト・ブレヒト「精神の不在」(『ブレヒト演劇論集1』、河出書房新社)

こうして私の精神は不在になり、なすべきことを
そらでやってのける。私の理性が
そのあいだを、整理してまわる。


3.ヴァルター・ベンヤミン「ベルト・ブレヒト」(『ベンヤミンコレクション1』、ちくま学芸文庫)

この反社会的な存在、ならず者を、潜在的な革命家として描くこと、これこそブレヒトがたえず目指しているところなのだ。そこには、このタイプに通じるものをブレヒト自身がもっていることだけではなく、理論的な契機もひと役買っている。マルクスがいわば革命を、まったく異質のもの――つまり資本主義――の内部から出現せしめるという問題を、それに対する倫理感への要求を完全に抜きにして提起したとすれば、同じ問題をブレヒトは人間的な領域に移しかえる。彼は悪しき利己的なタイプから、完全に倫理感抜きに、革命家を出現させようとする。 [530頁]

造り直しということ――ブレヒトがそれを文学の形式として告知するのを、私たちはすでに聞いた。書かれたものは彼にとって作品ではなく、装置であり、道具である。書かれたものは、高次のものであればあるほど、それだけいっそう変形、解体、転換のできるものになる。偉大な規範的文学、とりわけ中国文学を考察して、そこから彼は、書かれたものに対してそこでなされる最高の要求は引用可能性である、ということを学んだ。暗示的に言っておけば、剽窃の理論――これを聞けば駄洒落屋などたちまち息絶えだえになるだろう――はこの点にこそ基づいている。 [532頁]


4.ヴァルター・ベンヤミン「叙事演劇とは何か」(『ベンヤミンコレクション1』、ちくま学芸文庫)

この演劇が時間の流れに関係する、そのあり方は、悲劇の場合とまったく異なっている。緊張の照準は結末部分よりも、個々の場面でのそれぞれの出来事に合わされているので、この演劇の上演はきわめて長い時間にわたることが可能である。 [539頁]

ブレヒトの考えるところでは、叙事演劇は筋を展開させるよりも、状況を表現しなければならない。だが、ここに言う表現とは、自然主義の理論家たちがいう意味での再現のことではない。むしろ、なによりも重要なのは、まずもって状況を発見することなのだ。(状況を異化すること、と言ってもよいであろう。)状況のこの発見(異化)は、出来事の流れを中断することによってなされる。 [542-543頁]


5.ヴァルター・ベンヤミン「生産者としての作家」(『ベンヤミン著作集9』、晶文社)

作家の仕事は、決して制作品にかかわる仕事であるだけでなく、つねに同時に生産の手段にかかわる仕事でもあるのだ。いいかえれば、かれの制作品は、作品という性格とならんで、あるいはその性格をそなえるまえに、組織化の機能をそなえなければならない。そして、作品を組織化に役立てるということを、決してプロパガンダに役だてるということに限定すべきではない。傾向だけではダメなのだ。[…]まず自分以外の生産者に生産のための支持をあたえ、つぎによりよい装置をかれらの自由にまかせられるようにする生産モデルとしての性格が、決定的に重要になる。しかもこの装置が、消費者をますます多く生産の側にひきよせること――手みじかにいえば、読者あるいは観客から共同制作者をつくりだすこと――ができるようになれば、それだけその装置はより有効なものとなる。 [182頁]

「音楽家や作家や批評家のあいだを支配している自身の状況についてのこの無知は」と、ブレヒトはいっている、「とほうもない結果を生みだしているのに、これはあまりにも過小評価されている。なぜなら、現実には自分の方がその機構に所有されているのに、自分がそれを所有していると思いこむことによって、自分たちがもはやコントロールしえない機構を擁護しているからである。しかもその機構は、かれが信じこんでいるのとはうらはらに、もはや生産者のための手段ではなく、生産者に敵対する手段と化している。」 [183頁]

知的生産手段を社会化するという要求を、知識人は有効にはたすことができるであろうか? かれは、生産過程そのもののなかで、頭脳労働者を組織化する方法を発見するだろうか? ロマンやドラマや詩の機能を転換するためのプランをもつだろうか? 作家がこの課題にこたえる活動を完遂する能力をそなえればそなえるほど、それだけ作家の傾向も正しいものとなり、それにつれて作家の仕事の技術的な質も必然的にたかめられるのである。そして他方、生産過程における自分の立場をめぐる事情について正確に知れば知るほど、「精神的人間」などと自称する考えからは、ますます遠のいていくだろう。ファシズムのふりまくことばとしてはっきりきこえてくる精神という名称は、消えなければならぬ。そして、自己の神通力をあてにしてファシズムに反対するような精神などは、消えてしまうだろう。 [189頁]


6.ルイ・アルチュセール「ベルトラッチとブレヒト」(『マルクスのために』、平凡社ライブラリー)

同一化という古典主義的な形式は、観客を「主役」の運命から離れられぬようにし、彼らのあらゆる感情の働きを演劇によるカタルシスでつつんでしまっていたが、ブレヒトはこの同一化の古典主義的な形式と縁を切ろうとした。 [253頁]

古典劇においては、すべてが単純なすがたをとることができた。すなわち、主役の時間性が唯一の時間性だったし、他のすべては主役に従属していた。主役の敵対者でさえも主役にあわせられていたし、敵対者が主役の敵対者であるためには、その必要があったのである。彼らは主役自身の時間、主役自身のリズムを生き、主役に依存し、その付属物にすぎなかった。敵対者はまさしく主役の敵対者だった。すなわち、争いにおいて敵対者は、自分自身が自己に属すると同様に主役に属していた。主役の複製、その反映、その対立物、その暗闇、その誘惑、主役自身に逆らう主役の無意識だった。じっさい、主役の運命こそは、ヘーゲルが記したように、敵の意識であると同じく自己の意識だった。その結果、争いの内容は主役の自己意識と同一だった。で、ごく自然に観客は、主役、すなわち主役自身の時間、主役自身の意識、――観客にしめされる唯一の時間や唯一の意識と「同一化」することによって、その戯曲を「生きている」ように思われた。ベルトラッチーの戯曲やブレヒトの大作においては、その構造の分裂という理由そのものによって、上述のような混乱は存在しえないのである。 [255-256頁]

ブレヒトは正しかった。つまり、演劇というものが、自己のあの不動の認知-非認知にかんする、「弁証法的」でさえある注釈である、ということ以外の目的をもたないとすると、――あらかじめ観客は音楽を知っていることになる。それは観客の音楽なのだから。反対に演劇があのおかすことのできぬ姿をゆり動かすこと、人をまどわす意識という空想的世界のあの不動の領域たる動かざるものを動かすことを目的とする場合、戯曲はまさしく観客における新しい意識の形成と生産、――あらゆる意識と同様に未完成ではあるけれども、あの未完成そのもの、あの距離の制服、あの無尽蔵の現実的な批評行為によって動かされる、意識の形成と生産なのである。しかも戯曲はまさしく新しい観客、つまり芝居がおわるとき演じはじめ、芝居を完成させるためにのみ――ただし実人生においてだが――演じはじめる俳優をつくりだすものなのである。 [261-262頁]


7.ハイナー・ミュラー「ドイツ 所在不明」(『悪こそは未来』、こうち書房)

ブレヒトの『ファッツァー』断章に含まれる、次のなにやら不可思議な言葉は、わたしの頭に取り憑いたまま離れようとしません――かつて幽霊は過去から立ち現われたが/いまそれは未来からもやって来る。 [138頁]


8.ヴァルター・ベンヤミン「ブレヒトとの対話」(「ベンヤミン著作集9」、晶文社)

ブレヒトはいった、「あいつは気狂いだったと取沙汰されるのは、自分でもよく判っているよ。この現在の時が後々にまで伝えられて行くなら、ぼくの狂気に対する理解も一緒に伝えられて行くだろう。時代が狂気の背景となるだろう。しかし、ほんとうにぼくが願っているのは、いつか、あいつは中くらいの気狂いだった、といわれることなのだ」 [216頁]

ブレヒトの箴言の一つ。「よき古きものにではなく、悪しき新しきものに結びつくこと」 [218頁]

2010年11月28日日曜日

政治・経済・生活(8)

1.クリスティアン・マラッツィ『現代経済の大転換』(青土社)

フォーディズム期には、労働時間や生産方式は厳格な計画に即して決められていたが、今日われわれすべてが生きているポスト・フォーディズム期には、いずれもはるかに計画性を欠いているのであって、市場がもたらす諸状況、逸するべからざる時期にますます依存せざるをえなくなっている。なぜなら、熾烈な競争と市場の飽和の時代には、需要のほんのわずかな変化次第で、企業にとって、企業が生産を存続する上で、それが致命傷になりもすれば、起死回生にもなったりするからである。 [14頁]

フォーディズムのシステムでは、コミュニケーションが生産に直接入りこむと、生産業務の阻害、不安定化、障害につながっていた。寡黙に労働にとりくむか、さもなければ、コミュニケーションをとりあうなら、生産活動を一時中断していたのである。ポスト・フォーディズムのシステムでは逆に、コミュニケーションをくみこむことは、直接、生産的な価値をもっている。 [18頁]

コミュニケーションが生産に関与し、言語機械――機械の物理的な殻、固定資本(ハードウェア)よりもデータ集積プログラム(ソフトウェア)のほうがはるかに重要である――を利用して話しあいながら生産する。こうした方式は、生産分野と流通分野のあいだの古典的な関係の危機が招いた歴史的な帰結である。 [19頁]

新しい労働方式では、企業の目標に対する硬い忠誠心が必要とされる。 [43頁]


2.

 「消費」も「コミュニケーション」も否定的に捉えるのは簡単だから、それを明るく楽しくストレスの少ない生活につなげることを考えたい。どうみても流れ作業の一部になるよりコミュニケーションのある仕事の方がましなんだから。

2010年11月27日土曜日

クライスト(8)

悲劇断片「ロベール・ギスカール ノルマン人たちの王」(Robert Guiskard, 1808)

1.あらすじ

ノルマン人たちは戦争中だが、仲間内でペストが流行してしまう。民衆は不安になり、戦争をやめたい。しかもノルマン人たちの王ロベール・ギスカール自身もペストに冒されたという噂が流れ、動揺は一層高まる。ギスカールの王子二人が民衆に対応するが、一方は民衆に愛されておらず、他方は民衆をさらなる不安に駆り立ててしまう。ついには王があらわれ、健在を印象付けようとするが、病に冒されている事実を隠すことが出来ない。民衆の代表者たる老人は、王に向かって祖国へ戻ることをあらためて訴え、断片は終わる。


2.メモ

・演劇と裁判の根源的関係を更新し、民衆を彼の時代に見合ったかたちでふたたび「裁判官」の地位につけようとした点に、近代演劇におけるクライストの特異点がある。重要なのは「主人公」ではなく民衆なのだ。この「演劇」は「裁判」と同時に「政治」にも近い。それは当然である。すべては民衆の「声」に関わる。判決も「声」であり、人民の投票も起源においては「声」であった(現在でも「票」と「声」は同じ単語だ)。『ギスカール』においては、「声を率いる Stimme fuehren」ことが問題となる。王が「声」を聴くか否か。法、民主主義、代表制。あるいは民主主義以前の共同体の組織。

・クライストとソフォクレス。クライストがソフォクレスを継承しているのは、『ギスカール』において『オイディプス王』のように人々がペストに襲われている、というようなレベルだけでない。演劇が本来裁判であること、演劇においては共同体における法の更新が問題となり、その法の更新には犠牲が伴われること、法には国家の法、神の法など様々な側面があることなど、演劇の本質に関わることをクライストは受け継いでいる。

・「流体」としての民衆。民衆は波、大河として表現される。すなわち無定形。それは「かたち」としての秩序と対立する。民衆に「かたち」がないわけではない。しかし常に揺れ動く。民衆が「声」として表現されることも無定形性を意味する。

・民衆はコロスである。しかし冷静に状況を観察し客観的な判断を下すコロスではなく、不安定である。シラーやヘーゲルらのコロス理解と比較せよ。

・カタストロフ。ペスト、地震、戦争。秩序が動揺をきたすとき、共同体がどのような事態に直面するか。その思考実験。ペストに毒された民衆は、もはや行為できず、呪いの言葉を吐くだけ。無事な者たちは一刻も早く祖国に帰りたがる。

・二人の王子。ロベールとアベラール。分身? 「チリ」や「拾い子」と比較せよ。二人はその価値観において対照的。伝統と感情によって王にふさわしいと自認するアベラールと、その身分によって王になる権利を主張するロベール。この「双子」の善悪は揺れる。あるいは善悪で評価できない。

・言葉の問題。「真実」は告げるべきか、その必要があるか。民衆は噂(=言葉)で動揺し、秩序を揺るがす。王は「言葉」によって損なわれた秩序を回復しようとするが、彼の身体は言葉を裏切ってしまう。言葉と秩序(政治)。

2010年11月26日金曜日

時間・歴史・演劇(8)

1.ヴァルター・ベンヤミン「近代悲劇とギリシア悲劇」(『ドイツ悲劇の根源』下巻、ちくま学芸文庫)

近代悲劇の法則は、まさにこの反復に基づいている。[…]近代悲劇は、ある高次の生の像ではもちろんなく、二つの鏡像のうちの一方にほかならず、またその〔反復的〕続演も、この劇そのものに劣らず幻影的である。死者たちは亡霊となる。近代悲劇は反復という歴史的理念を、芸術的に利用し尽くすのであって、それゆえ近代悲劇は、ギリシア悲劇とはまったく別の問題を捉えているわけである。罪と偉大さは、近代悲劇にあっては、あの状況の罪と偉大さのためにではなく、あの状況の反復のためにこそ、より大きな伸張を、このうえなく普遍的な広がりを要求するものであるので、それだけにいっそう、被規定性を、ましてや過度の被規定性を必要とはしない。 [191-193頁]

ギリシア悲劇はなんといってもやはり、閉じた形式なのである。この閉じた形式の時間特性が、演劇的な形式のかたちで汲み尽くされ、造形されているのだ。近代悲劇はといえば、それ自身において閉じてはおらず、また、その解消という理念も、もはや演劇の領域のうちに存してはいない。そしてこのことこそ、――形式分析という観点から見た場合の――近代悲劇とギリシア悲劇の相違を決定的に示す点にほかならない。近代悲劇が演劇の領域におさまりきらない、その剰余部分とは、音楽である。ギリシア悲劇が、歴史的時間の、演劇的時間への移行を表しているように、おそらく近代悲劇は、演劇的時間の、音楽の時間への移行点にある。 [193-194頁]


2.ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ悲劇の根源』(ちくま学芸文庫、上巻)

死にゆくソクラテスにおいて、ギリシア悲劇のパロディとしての殉教者劇が生まれた。実にしばしばそうであるように、ここでも、パロディはひとつの形式にその終焉を予告する。[…]ソクラテス対話篇においては、この競技的なものが、弁舌と意識のあの見事な展開に、取って代わられたのである。ソクラテス劇からは競技的なものが剝れ落ちてしまっており――実際、ソクラテスの哲学的格闘さえもが、なぞり風の稽古なのだから――、そして突然、英雄の死は殉教者の死に変貌したのだった。 [241-242頁]

英雄の生という代償を払って沈黙の権利を手に入れる悲劇的傲慢を知りえたのは、古代だけである。神々の前で申し開きをすることを撥ねつける英雄は、いわば契約的な調停手続きにより神々と折り合うのだが、この手続きはその二重の意味に応じて、革新された共同体の言語的意識のなかで、古い法制を再建することのみならず、とりわけ、その古い法制を徐々に破壊してゆくことを目指している。スポーツ・技芸競技、法、そして悲劇、というギリシア人の生活における大いなる競技的三つ組は――ヤーコプ・ブルクハルトの『ギリシア文化史』は、範型としての競技[アゴーン]、ということを指摘している――、契約というしるしにおいて一体となる。 [247頁]

古典古代の訴訟――とりわけ刑事訴訟――は、原告と被告という二つの役割だけに立脚し、裁判官による審理手続きを欠いていたがゆえに、対話である。古典古代の訴訟は合唱隊をもっていて、これは、一部は誓言保証人のなかに[…]、また一部は裁判に対して慈悲を嘆願する被告の盟友たちの一団のなかに、そして最後の一部は、裁きを下す人民集会のなかにあった。[…]ギリシア悲劇は、訴訟手続きのこのイメージのなかに入ってくる。ギリシア悲劇においても、ひとつの調停審理が行われるのである。[…]劇作家の意識において神話が審理なのだとするなら、彼の作品は、その審理の写しであると同時に再審でもある。そして、この訴訟全体が、円形劇場の広がりの分だけ膨らんだ、この再審には、共同体が監督機関として、いやそれどころか、裁きを司る機関として臨席する。共同体の側では、和解について裁定しようとし、この和解の説明のなかで劇作家は、英雄たちの事蹟の記憶を更新するのである。だが、ギリシア悲劇の結末にはつねに、<証拠不十分>という響きがまじっている。[…]悲劇のまえかあとに演じられるサテュロス劇は、上演された訴訟のこの<証拠不十分>の結末に対する準備もしくは応答をなしうるのはただ喜劇による感情の高揚だけである、ということの典型的な現われなのだ。 [248-250頁]

場所の一致とはすなわち裁判の場のことであり、時の一致とはすなわち、昔から――太陽の運行に合わせてであれ、他の何かに合わせてであれ――裁判の日という限られた時間のことであり、そして筋の一致とは、すなわち、審理という筋のことなのだ。ソクラテスの対話をギリシア悲劇の、撤回のきかないエピローグにしてしまうのは、このような事情にほかならない。 [251頁]

ギリシアの三部作は、反復可能なこれ見よがしの誇示ではなく、上級審におけるギリシア悲劇的訴訟の一回限りの再審である。[…]三部作で演じられるのは、宇宙においてひとつの出来事が決定的に遂行される、ということなのだ。この遂行のために、そして、それを裁く者として、共同体が招かれている。ギリシア悲劇の観客が、まさにこの悲劇そのものによって必要とされ、かつ、まさにこの悲劇そのものによって正当化されているのに対して、近世以降の悲劇は、見る者の視点から理解されるべきものなのである。近世以降の悲劇の観客は、舞台――つまり、感情という、宇宙にはまったく関係しない内部空間――において、さまざまな状況がどのように、自分に対して心に迫るものとして呈示されるか、ということを経験する。 [256-257頁]


3.ヴァルター・ベンヤミン「歴史の概念について」(『コレクション1』ちくま学芸文庫)

過ぎ去った事柄を歴史的なものとして明確に言表するとは、それを<実際にあった通りに>認識することではなく、危機の瞬間にひらめくような想起を捉えることを謂う。歴史的唯物論にとっては、危機の瞬間において歴史的主体に思いがけず立ち現われてくる、そのような過去のイメージを確保することこそが重要なのだ。 [649頁]

移行点ではない現在の概念、時間の衡が釣り合って停止に達した現在の概念を、歴史的唯物論者は放棄できない。というのも、この現在の概念こそ、ほかならぬ彼自身が歴史を書きつつある、まさにその現在を定義するものだからだ。歴史主義が過去の<永遠の>像を立てるのに対して、歴史的唯物論者は過去に関する経験を、それも、いまここに唯一無二のものとしてあるそれを呈示する。歴史的唯物論者は、歴史主義の売春宿で<昔むかしありましたとさ>という娼婦に入れ揚げてなにもかも使い果たすことは、他人に任せる。彼は自分の精力の使いどころをしかと心得ており、歴史の連続の打破をやってのけられる男である。 [661頁]

唯物論の歴史記述の根底にあるのは構成的な原理である。思考するということには、さまざまな思考の運動のみならず、同じようにその停止も含まれる。思考がもろもろの緊張に飽和した状況布置において突然停止すると、そのとき、停止した思考がこの状況にひとつのショックを与え、そのショックによって思考はモナドとして結晶化する。歴史的対象がモナドとなって歴史的唯物論者に向かいあうとき、もっぱらそのときにのみ、彼は歴史的対象に近づく。[…]彼はこのチャンスを認めるや、歴史の均質な経過を打ち砕いて、そのなかからひとつの特定の時代を取り出す。同じようにして、彼はこの時代からひとつの特定の生を、そしてこの生のなしたすべての仕事のなかからひとつの特定の仕事を取り出す。彼のこの方法の成果は、次の点にある。すなわち、ひとつの仕事のなかにひとつの生のなした全仕事が、この全仕事のなかにその時代が、その時代のなかに歴史過程の全体が、保存されており、かつ止揚されているのである。歴史的に把握されたものという滋養ある果実は、その内部に、貴重な味わいのある、がしかし趣味的な味とは無縁の種子として、時間を孕んでいる。 [662頁]

2010年11月25日木曜日

「チリの地震」(12)[終]

ハインリヒ・フォン・クライストによる物語「チリの地震」(12)

 しかし彼らが、同じように人に満ちた教会前広場へ踏み入るやいなや、追いかけてきた狂ったかたまりの中から一つの声が叫んだ、これがヘロニモ・ルヘラだ、市民諸君、なぜならわたしが父親だ! そして声は、ドニャ・コンスタンツェのわきにいたヘロニモをすさまじい棍棒の一撃で地面に打ち倒した。イエスさま、マリアさま! とドニャ・コンスタンツェは叫び、義兄のもとへ逃げた、しかし、修道院の娼婦め! という声が別の方から響きわたり、それとともに第二の棍棒の打撃が、彼女をヘロニモの隣に投げ倒し命を奪った。なんてことを! と見知らぬ男が言った、これはドニャ・コンスタンツェ・クサレスだったのに! どうして彼らはわたしたちをだました! と靴屋が応えた、正しい女を見つけ出して殺そう! 

 ドン・フェルナンドはコンスタンツェの死体を目にすると怒りに燃え上がった。彼は剣を抜き、振るい、打ち込んだので、この男、惨状のきっかけとなった殺人狂は、二つに切断されそうだったが、向きを変えて怒りの一撃をかわした。しかしドン・フェルナンドは押し寄せる群れに力でまさらなかったので、さようなら、ドン・フェルナンド、子供たちとお幸せに! とホセファは叫び、さあ殺しなさい、血に飢えた虎たち! と言って自由意思で彼らのなかへと飛び込み、この戦いに終わりをつけようとした。ペドリーリョ親方が彼女を棍棒で殴り倒した。そして飛び散った彼女の血を浴びたまま、その私生児も母親の後追いで地獄へ送ってしまおう! と叫ぶと、いまだ満たされぬ殺人欲でふたたび迫ったのである。

 ドン・フェルナンド、この神のような英雄は、いまや背中を教会にもたせかけ、左手に子供たちを抱き、右手に剣を握った。ひと振りするたびに稲妻のごとく一人ずつ地面に打ち倒し、獅子でもこれほど抵抗できはしまい。血を追い求める犬が七匹、彼の前に死んで横たわり、悪魔の群れの王も傷を負った。しかしペドリーリョ親方は休むことなく、ついには子供たちの一人の足を掴んで胸から引き剥がすと、頭上で輪を描くように振り回し、教会の柱の角で潰してしまった。するとあたりは静まりかえり、すべてが遠ざかった。ドン・フェルナンドは、自分の小さな息子ホアンが目の前に横たわるのを見た。頭からは脳髄が流れ出ていた。彼は名前のない苦痛に満たされ、空を見上げた。

 海軍将校が戻ってきて彼を慰めた。また、今回の不幸において何もしなかったことは、いくつかの事情から正当化されることではあるが、わたしはそれを後悔することになるだろう、と確言した。しかしドン・フェルナンドは、君が非難されることは何もないと言って、ただ今から死体を運ぶのを手伝ってほしいと頼んだ。死体はすべて、訪れつつある夜の闇の中を、ドン・アロンゾの住まいへと運ばれた。ドン・フェルナンドも、死体のあとを、小さなフィリップの顔の上でたくさんの涙を流しながら、ついて行った。

 その日はドン・アロンゾの住居に泊まり、そして彼は長い間、偽りの演技をしながら、妻に不幸の全容を教えることをためらっていた。あるときは彼女が病気だから、またあるときは彼女がこの出来事における彼の態度をどのように判断するかわからないから、と言うのだった。しかしその後まもなくして、とある来客によって偶然にも、起こったことがすべて知らされると、この優れた婦人は黙ったまま、母としての苦痛を泣き尽くし、輝く涙をひとしずく残したまま、ある朝、彼の首もとに落ちてきて、彼にキスをした。ドン・フェルナンドとドニャ・エルヴィーレは、その後あの小さなよその子を里子として引き取った。ドン・フェルナンドは、フィリップをホアンと比べ、また二人の子供をどのように獲得したかを比べるたびに、自分はほとんど喜ばなければいけないくらいだと思うのだった。 

[終]

2010年11月24日水曜日

政治・経済・生活(7)

1.ミルトン・フリードマン『資本主義と自由』(日経BP社)

政治の場での意見調整は、社会の安定を成り立たせている市民の関係にひびを入れやすい。分割不能な問題で全員が同じ行動をとらざるを得ない場合、誰もがおおむね同じ意見を持つような狭い範囲についてのみ合意できればよいのなら、ひびは入りにくい。が、合意の表明が求められる範囲が広がるほど、人々を結びつけている弱い絆は危うくなる。そして多くの人が重大な関心を抱き、しかも意見が一致しないような問題ともなれば、社会が分裂することも大いにあり得る。基本的な価値観がまったく異なるような場合、採決ではめったに解決できない。結局は解決するのではなく、戦いで決着をつけることになる。歴史にみられる宗教戦争や内乱は、まさにその例証と言えよう。 [67頁]

市場が広く活用されるようになれば、そこで行われる活動に関しては無理に合意を強いる必要がなくなるので、社会の絆がほころびるおそれは減る。市場で行われる活動の範囲が広がるほど、政治の場で決定し合意を形成しなければならない問題は減る。そしてそういう問題が減れば減るほど、自由な社会を維持しつつ合意に達する可能性は高まっていく。 [68頁]


2.

 まず、自由主義は個人主義だから「社会」や「絆」には無頓着だというのは正しい指摘ではない、ということ。個人の自由が保障されるために社会も絆も必要だとされる。

 次に、フリードマンの自由主義は敷居が高くないということ。ムフのように「合意は不可能だと知りつつも対抗者として承認しあう」などというのは、どう考えても要求のレベルが高すぎる。フリードマンは、討議と合意が難しいだけでなく、それによって社会が分裂し争いに至ることもありうるから、できるだけ討議も合意も不要になるような自動調整システムを導入しようと主張する。それが市場である。もちろん、市場が自動調整システムとして機能するように政府が調整できるのかという問題はあるが、「つまらない問題で対立と分裂を生むのは意味ないし効率も悪いから、自動的に調整できる部分は調整して、本当に大事な問題だけ絞って合意を目指そう」という姿勢は実際的である。何が「本当に大事な問題」かというと、それによって個々人の自由が左右されるような問題、ということになるだろう。

 討議と合意を完全に否定するのではなく、全てにおいて討議と合意を推進するのでもなく、その国の人口や面積、宗教、人種、教育、歴史、技術、文化等のあり方に応じて、どこまで何を討議し合意すべきか、現実的実際的に検討すること。そしてそれ以外の案件に関しては、できるだけ無駄に感情を動かされたり情報に付き合わせられたりしないよう、調整のシステムを導入すること。『資本主義と自由』は、社会を個別具体的に構想することを求めている。フリードマンというと「悪しき」新自由主義者というイメージが強いようだが、その理論と提言は、個人が自らの自由を享受して生きるためにはどのような環境が必要かという点を出発点にして到達点とする一方で、そのために個人の自由だけをイデオロギー的に唱えるものではない。「負の所得税」や「教育バウチャー制度」などをみればわかるように、フリードマンは、個人と社会、個人と国家のバランスの構築が不可欠であると考えている。それが個人の自由のためには必要であり、それを考えることが個人の自由のためにも合理的だからである。現実的、具体的、合理的な思考は、ひとを動かす力をもっている。なぜなら、そこには「近さ」があるからである。

2010年11月23日火曜日

クライスト(7)

「ハイルブロンのケートヒェン あるいは火の試練 偉大な歴史的騎士劇」
(Das Käthchen von Heilbronn oder die Feuerprobe. Ein großes historisches Ritterspiel, 1810)

1.あらすじ

夢の中ですでに恋に落ちていた男女が、いろいろあってようやく現実でも結ばれる。


2.メモ

2.1 重要

・さまざまな裁判(Gericht)。秘密裁判と神明裁判、また、最後の審判(裁判)への言及。裁判に対してどのような信頼をおき、どのような態度をとるか。ケートヒェンは裁判所の問いかけには答えず、シュトラール伯の質問と命令にしか反応しない。なぜなら問題は「事実」ではなく「心」だから(「こわれがめ」のイブと比較せよ)。非人称的な「機関」との関係のもち方の複数のモデルが示されている。また、Richterとは誰か、という問題。誰がRichterでありうるか。Richter(裁判官)、richten(方向付ける)、Recht(法/権利/正義)、recken(手足を伸ばす)、aufrichten(まっすぐに立てる、起こす)。テオバルトとシュトラールも裁判において対照的な「語り」を見せる。テオバルトは宗教や神話を引き合いに出す。「こわれがめ」の村民の語りと比較しうる。近代的な意味での裁判所における語りではない。歴史や価値を語る。

・戦争。ただし、「文書」をめぐる戦争。クニグンデ=土地売買契約の無効を求めて策を弄する。Fehdeという言葉が一回出てくることに注意。「文書」と「権利」。文書を手に入れること、受け取らないこと、自ら破り棄てること、等々。「文書」をめぐる戦争は、ナポレオン戦争のことも示唆されているかもしれない。「文書」さえ手に入れば、相手を殺す必要も民意を味方につける必要もない。「文書」を意味するさまざまな言葉があらわれる。すなわち、Pakt, Dokument, Papier, Rolle, Schreiben, Urteilなど。皇帝がケートヒェンを自分の子供であると認める「文書」。ケートヒェンとシュトラールの「結婚」もまた「文書」をめぐって勝ち取られる「戦い」である。「文書をめぐる戦い」として捉えれば、戦争、契約、養子縁組、結婚、民事・刑事事件は同じレベルで考えることができる。

・「信頼せよ、信頼せよ、信頼せよ!(Vertraue, vertraue, vertraue!)」が一つの主題。ケートヒェンは信じ続けた。

・忘我、意識を失うこと。シュトラール伯もケートヒェンも、意識を失ったときの方が多くを知っているし、より正しい行為をする。クライストにとっての無意識。ペンテジレーアをはじめ、比較の対象は多い。また、無意識/夢/忘我と死の関係。シュトラールは一度死に、幽体離脱する。分身、分裂。セリフにもあるが、墓と揺り籠の同一視。死と誕生の同一視! それは「人形劇について」における「歴史のひとめぐり」につながる。sinkenやfallenとsteigenやaufgehenの関係にもつながるだろう。二重になること、ドッペルゲンガー。シュトラールのセリフ「ich bin doppelt.(二重になってしまった)」。クライストもまたGeistという単語を使うが、それは「精神」というよりも「霊」「魂」。クライストにおいては、一つのもの(目覚めた主体)が成長していくのではなく、一つのものがもう一つのものと出会う、あるいは自らのなかにもう一つのものを発見する。fremdかつheimlichな分身。

・予知夢、運命。全てが決まっている。だとしたら自由意思はどうなるのか。クライストは「意志」と「行為」も重要視していたのだから。

・「近代」と「前近代」の境界面にあるのは「声」かもしれない。Stimmen sammeln=「声を集める」=「評決(裁定)する」かつ「(選挙で)投票する」。近代、あるいは民主主義と「声」の関係。声と民意。クライストにおける「声」は、カール・シュミットの「喝采」に近い。「チリの地震」参照。

・「罪(Schuld)」とはなにか。Schuldだけで考えるのではなく、schuldig, verschuldenといった言葉とともに考えること。返済すべき負い目が残っている状態。だからこそSchuldはまた「借金」を意味する。宗教的、道徳的であると同時に、社会的、経済的な言葉! 

・Volkの存在。随所にVolkが顔を見せる。


2.2 他の作品と共通する要素

・ケートヒェンの「父親」テオバルト親方 → またしても「職人」。

・テオバルトのせりふ「山道には割れ目がある」、「神が継ぎ合わせたものを人が引き離してはならない」。

・手紙の誤配。偶然がもたらしたVerwechselungという問題。

・「火の試練」→火事になった建物が崩れ、瓦礫に埋まり、そこからケートヒェンは生き延びる。ケートヒェンは一度sinkenする。それもまた死=誕生ということなのか。

・表面と背後の関係。クニグンデは物理的に表面と背後が分かれているが、精神的な主体としては統一的である。他方、ケートヒェンとシュトラールは精神的に表面と背後が分裂している。クニグンデはせいぜいのところ「飾ること=演技」ができる「俳優」である。ケートヒェンとシュトラールは「人形」になった。

・符牒。「肖像入りのメダル」。

・占い。「鉛占い」という小道具。


2.3 その他

・前半がとにかくめちゃくちゃ。長く、わけがわからない。ひたすら過剰。

・ロマン派っぽいところがある。山、森、洞窟、雷鳴、夢。1)クライスト自身がどこまで意識していたか。共感とパロディと双方の意味で。ノヴァーリスに影響を受けたという指摘もある(Handbuch)。2)ロマン派との近さと遠さを検証すること。

・「火の試練」が変。クニグンデの利己的な意図から試練が生じる。まったく神聖な発端ではない。むしろたまたま試練になった、というほどの形式。また、ケートヒェンとシュトラールの幸福は、実質的に事前に運命として定められている(prädestiniert)わけだから、なぜ試練が必要なのか、謎。シュトラールが真実に気付くためのきっかけ、あるいは手続き、プロセスのひとつということか。たしかに「火の試練」においてクニグンデとケートヒェンの対比は最も鮮明になる。

・名前とその変更。「ハイルブロンのケートヒェン」が「シュヴァーベンのカタリーナ」に。

・クニグンデは生き延びた。

2010年11月22日月曜日

時間・歴史・演劇(7)

1.マルティン・ハイデッガー「物」(全集79巻、創文社)

時間と空間における距離は、すべて収縮しつつある。[…]しかしながら、距離という距離をあわただしく除去したところで、近さは決して生じない。というのも、近さなるものは、わずかな分量の距離というのとは別物だからである。 [5頁]

そこに起こっているのは何であろうか。距離をごっそり除去したはずなのに、すべてが同じように近く、かつ遠いとすれば。この同形で画一的なものは何であろうか。そこではすべてが遠くも近くもなく、いわば隔たりを欠いているとすれば。[…]距離がどんなに克服されようとも、有るといえるものの近さはいっこうに現れない。 [6頁]

われわれが物を物として思索するとき、われわれは物の本質をいたわり、物が本質的にあり続ける領域へと守ってゆく。物化のはたらきとは、世界を近づけるはたらきである。近づけるはたらきが、近さの本質なのである。われわれが物を物としていたわるかぎりにおいて、われわれは近さに住まう。 [26頁]


2.

 いわゆる学問的な知は、自然科学と形而上学とを問わず、それぞれの思考方法に従って表象することを通じて、物を「対象」として設定してきた。「イデア」にせよ「物自体」にせよ「科学的真理」にせよ、である。だが、物を「対象」として表象する限り、物は虚無化<vernichten>されざるをえない。なぜならば、物が「対象」であるとき、物に関する経験と知が分離され、かつ知の方が経験に先立って現実をあらわすと思い込まれるからである。

 物が物としてあるとき、「わたしたち-物」という自-他関係は存在しない。わたしたちはすでに物のうちにあるはずなのだ。自と他、経験と知は、それぞれでありながら一つであるはずなのだ。

 物としての物は、対象ではないから、一方的に掴むことも表象することもできない。物としての物は、到来する。それは存在の本質的な経験である。つまりそのときわたしたちは、物に襲われる。そのときわたしたちは、物的に-制約された<be-Dingt>存在としてある。わたしたちは世界の本質において、この本質によって語りかけられ、そしてこの本質の内部でこの本質に応答して語る。それが物としての物の到来であり、経験である。それは知と分離されない経験である。

 「対象」としてある限り、全ては近くも遠くもない。「近さ」も「遠さ」もない。そもそも隔たりがないのである。だからいくら距離を除去しても近くならない。むしろすでに物のなかにいるときにのみ、遠さが遠さのままで近づいているのがわかる。


3.

 表象し、自-他、主-客を切断するということは、それ自身のうちにすでに、物から時間と空間、すなわち隔たりを奪い、経験を消滅させ、一切を算定し、所有し、使用することになる契機を含んでいる。

 ところで、技術の本質とは、総かり立て体制<das Gestell>である。それは引ったくりの総体<Geraff>と言ってもよいし、駆動の総体<Getriebe>と言ってもよい。

 総かり立て体制とは、使えるものは全て取り上げて使う(「徴用可能なものを徴用して立てる」)こと自体を自己原理として循環をなしている、(人間・機械・自然を含む)一切を代替可能な断片として構成要素とする、自律的な駆動の総体である。総かり立て体制においては、一切が取り替え可能であるから、一切が同価値となり、ゆえに一切がどうでもよいものとなる。ここにおいて、現実的なものが全て画一的で同形で隔たりを欠き、近さも遠さもあらわれないという事態が現出する。そして人間はこの隔たりを欠いたものに没入せざるをえない。なぜなら、人間もまたすでにこの総かり立て体制の構成要素なのであるから、人間はこうして隔たりなく掛かり合ってくるものどもをさらに先へと駆動するように、本質において規定されているのである。

 どんなに多様なあり方や変化が存在すように見えても、総かり立て体制においては、独立し依存から自由な位置を占めるものなどない。全てが駆動の総体のうちにある。これは生産→流通→販売→消費→さらなる生産…といった流れを考えてもわかる。こうした事態にあっては、自-他という関係において何かが完結的であることは不可能となる。それはすなわち、「対象」の崩壊、あるいは拡散を意味する。


4.マルティン・ハイデッガー「総かり立て体制」(全集79巻、創文社)

同じはたらきによって、大気は窒素に向けて、大地は石炭と鉱物に向けて、それぞれかり立てられ、さらに鉱物はウランに向けて、ウランは原子力に向けて、原子力は徴用可能な破壊行為に向けて、というふうに、次々にかり立てられる。いまや農業は、機械化された食糧産業となっており、その本質においては、ガス室や絶滅収容所における死体の製造と同じものであり、各国の封鎖や飢餓化と同じものであり、水素爆弾の製造と同じものなのである。 [37頁]

ふたたびわれわれは問うてみよう。そのような徴用して立てるはたらきの連鎖は、最終的にはどこへ行き着くのであろうか、と。この連鎖はどこにも行き着かない、というのがその答えである。というのも、徴用して立てるはたらきというのは、かり立てるはたらきの外部に、独立して現前的にあり続けるはたらきを有することがありえたり許されたりするようなものを、何一つ制作して立てはしないからである。徴用して-かり立てられたものは、つねにすでに、またつねにひたすら次のことをめざして、かり立てられている。つまり、徴用される別の何かを、おのれの帰結の連鎖として、得られた成果のうちへとかり立てることをめざして、である。徴用して立てるはたらきの連鎖は、どこにも行き着きはしない。むしろ、おのれの連鎖の円環運動のうちへ入り込んで行くだけである。 [38-39頁]

「人間」なるものは、どこにも実在しない。[…]人間は、現前的にあり続けるものとの係わり合いにおいて、次のことをめざしてすでに挑発されている。つまり、現前的にあり続けるものを、徴用して立てるはたらきによって徴用可能なものとして、前もって、それゆえくまなく、かつ不断に、表象して立てることをめざして、である。人間の表象して立てるはたらきが、現前的にあり続けるものを、徴用可能なものとして、徴用して立てるさいの勘定に入れてすでに立ててしまっているかぎり、人間はその本質からして、徴用して立てるはたらきのうちへあくまで徴用して立てられているのである。 [40頁]

総かり立て体制は、徴用可能なものを徴用して立てるという、この同じことをめざして一切をかり立てるのであり、その結果、一切は同じ形式で不断に繰り返しかり立てられる。しかも、徴用可能性というこれまた同じことのうちへとである。 [45頁]


5.

 技術の危機/好機とは、物を「対象」として捉えることが不可能になることである。技術の時代においては、「対象」としての物と対峙することはできない。むしろ、全てがつねに「渦中」にある。「対象」としての物の真の在り方を表象することから離れて、まさにその「渦中」にあるところの「渦」の流れを、「渦」の力そのものを利用しながら、転回してゆくことができるのかもしれない。

2010年11月21日日曜日

政治・経済・生活(6)

1.シャンタル・ムフ『政治的なものについて』(明石書店)

敵対関係は、われわれ/彼らが、いかなる共通の土台も共有しない敵同士の関係性であるが、闘技は、対立する党派が、その対立に合理的な解決をもたらすことなど不可能と知りつつも、対立者の正当性を承認しあう関係性である。そこでは、彼らは「対抗者」であり、敵ではない。つまり彼らは対立において、自分たちが同じ政治的連合体に属しており、共通の象徴的空間――そこに対立が発生する――を共有する者と把握する。民主主義の課題は、敵対関係を闘技へと変容させることといえるのである。 [38頁]

異議申し立てする声のために闘技的で正当性をもった政治的回路が存在するなら、敵対的な対立は出現しにくくなるだろう。さもなければ異議申し立ては、暴力的な形態をとる傾向を帯びるのであって、このことは国内政治であれ国際政治であれ、同様にあてはまるのである。 [38-39頁]

人びとが同一化することのできる陣営が対峙し、そのことで情念が、民主主義の過程における勢力分布内で政治的に動員されるかぎりにおいてのみ、政治過程は存在するのだ。[…]人びとは、政治的に行動するためには、集合的アイデンティティと同一化することができなくてはならない。なぜならそれは、人びとに、自分自身を価値評価できる観念を与えてくれるからである。政治的な言説は政策のみならず、アイデンティティもまた提供しなければならない。 [44頁]

対抗モデルの特質である政治的境界線が薄れつつあることと政治の「道徳化」とのあいだには直接的な関連がある。[…]「われわれ」/「彼ら」の敵対が、政治的な見地からではなく、いまでは「善」対「悪」という道徳的な範疇にしたがって構築されているということだ。[…]用語のこのような変化においてあきらかになるのは、しばしばいわれるように、政治が道徳に取って代わられたということではなく、政治が道徳の作用領域で実践されるようになったということである。[…]政治が道徳の作用領域において実践されるならば、敵対性は闘技的な形態をとることができない。事実、敵対者たちが政治用語ではなく道徳用語で定義されるとき、その者たちは「対抗者」ではなく「敵」とみなされるのである。「悪しき彼ら」とはいかなる闘技的な討論も不可能であり、ただ抹殺されなければならない。そのうえ、彼らはしばしばある種の「道徳的な病」のあらわれとみなされるため、彼らが出現し、そして成功をおさめつつあることについての説明さえもなされるべきではない。[…]友/敵型の政治モデルは乗り越えられたとする主張が、政治の敵対モデルを時代遅れのものと宣告しておきながら、その再生の条件をつくりだしてしまったのは皮肉な事態である。しかしながら、ポスト政治の立場は、活発な闘技的公共圏の形成を妨げることで、「彼ら」を「道徳的なもの」、つまり「絶対的な敵」とみなすことにいたりつき、それによって、民主主義の制度を危険にさらしかねない敵対性の出現を促しているのである。 [113-115頁]

「ヘゲモニーを超えること」などありえないと認識すれば、単一の権力に依存する世界を乗り越えるための戦略で可能なのは、ヘゲモニーを「多元化していく」方途をみいだすことだけだ。 [171-172頁]


2.

 「集合的アイデンティティ」との同一化が政治には不可欠なのだろうか。個人主義・自由主義は必ずしも非政治的ではない(ハイエク)。むしろ私的領域の政治性を指摘するベックやギデンズに同意したい。ムフの「対立を承認・共有しあう者たち」の方が、ずっと理性的な個人を想定しているのではないか。

 異議申し立てができれば対立はなくなるというのもちょっと…。ただ、敵対が道徳的なレベルにあらわれているというのはそのとおりだと思う。

2010年11月20日土曜日

クライスト(6)

喜劇「アンフィトリュオン」(Amphitryon, 1807)

1.あらすじ

二人の神様が人間の姿をとって現われたので、みんなが困る。


2.メモ

2.1 重要

・Riß。クライストの作品においては、どこかに必ず「ひび」が入る。その「ひび」をめぐって思考実験が行われる。「ひび」が入ったときでもunerschütterlichなものとはなにか、ということがクライストの典型的な問い。カント危機。

・裁判劇。証拠、証人、証言。自分を証明するための裁判。力で解決することはできない。また、証人として「民衆」があらわれる。「チリの地震」における「自分の証明」とも比較せよ。

・fallenが問われる。Los fallen(サイを投げる、運命を決する)とUrteil fallen(判断する、判決を下す)。判断力批判。判決力批判。

・「判断」とは何か。何が「判断」を決するのか。「言葉」か、「感覚」か、「心」か。

・「わたし」が問いになった時点で「主体」は敗れるのか。しかし、「わたし」は問いに対する答え(=他者にとっての「わたし」)としてしか存在しない、というのがユピターの教えでもある。「わたしは誰か」は、自分で決め、自分で言うものではなく、相手に言わせるもの、相手が決めるもの。

・ユピターの答えは、「わたし」は「あれでもあり、これでもある」。

・アンフィトリュオンは、なぜ見返りに「息子」を求めるのか? 家族のテーマ。

・ラストシーンの「ああ!」。それは「言葉」なのか。一つの「意味」を付与できるのか。


2.2 その他

・さまざまな「性格」。ゾージアスはプラグマティスト。分身と「双子」で構わないと言う。また、問題が神によって起こされていたと知っても畏れおののかない。

・何も知らない王と神の対比。オイディプス? 舞台もテーベ。

・理性的vernünftigとはなにか。

・AとJの問題。よく意味がわからない。これがアルクメーネーにとっては決定的。「拾い子」と比較せよ。TäuschungとTausch?

・「報告者」の分身があらわれる。クライストにおいて「報告者」はしばしば「語り手」。その確かさが崩れる。Zeitungを運ぶ者としての報告者。

・分身。分身との出会い。二重化。Doppelter。

・Das Ich=「その私」/「自我」

・ゾージアスとメルクールの関係。「戦い」に負けた者は「わたし」が誰なのかについても命令に服するしかない。

・自分で自分を意識できないこと。夢? しかし完全な夢や眠りは全く出てこない。「わたし」についての「知」が「わたし」なのか。

・「わたしがわたしでないとしても、わたしはなにかetwasであるはずだ」。

・Schuldとschuldig。「罪」=「なにかを負っている」とは?

・「知らずに犯した罪」の問題。姦通。

・結局神様の魅力に人間はかなわない。

・Recht haben=正しい/権利をもつ。

・さまざまな「区別 Unterscheidung」。夫と恋人、徳と愛。

・感情をもった神。「機械仕掛け」ではない。「誤解」を恐れ「約束」をさせるのはユピター。

・「語り」「言葉」の信用の問題。信頼のテーマ。もっとも信頼できるものは何か? 五感ではなく、「心」。

・「主人公」は誰か。アルクメーネー?

・entsosiatisieren, entsmphitryonisieren.

2010年11月19日金曜日

時間・歴史・演劇(6)

1.ジークムント・フロイト「自我とエス」(『自我論集』ちくま学芸文庫)

すべての抑圧されたものが無意識的(ubw)なものであることはあくまでも正しいが、すべての無意識(Ubw)が抑圧されたものであるとは限らない。自我の一部が、しかも自我にとって非常に重要な部分が、無意識的(ubw)なものでありうるのであり、そして確実に無意識的(ubw)なものである。[…]ここでわれわれは、抑圧されない無意識(Ubw)という第三のものを想定することを迫られる。 [212頁]

知覚システムから発生し、当初は前意識的(vbw)であるものを<自我>と名づけ、無意識的(ubw)なものとしてふるまうものを<エス>と名づけることを提案する。 [220頁]

われわれにとっては個人とは、一つの心的なエス、未知で無意識的なものである。自我はその表面にのっているのであり、自我からその核として知覚(W)システムが形成される。 [221頁]

自我はエスに対して、自分を上回る大きな力をもつ奔馬を御す騎手のようにふるまう。[…]自我は騎士の場合と同じように、馬から振り落とされたくなければ、馬が進みたい場所に行くしかない場合が多いのである。すなわち自我は、あたかもそれが自分の意志であるかのように、エスの意志を行動に移すしかないのである。 [222-223頁]


2.ルイ・アルチュセール『フロイトとラカン』(人文書院)

フロイトは、すべてが言語に起因するとすでに言っていた。ラカンはそれをはっきりさせて言う。「無意識の言説は一つの言語のように構造化されている」と。 [40-41頁]

コペルニクス以来、われわれは地球が宇宙の「中心」ではないということを知っている。マルクス以来、われわれは人間主体、経済上、政治上あるいは哲学上のエゴが歴史の「中心」ではないということを知っているし、――啓蒙の《哲学者》たちに抗して、それから、ヘーゲルに抗して、歴史というのは「中心」をもたず、イデオロギー上の誤認のなかでしか必然的な「中心」をもたないような構造を有しているにすぎないということさえ知っている。フロイトがわれわれに暴いてくれたのは、現実の主体、特異な本質から見た個人というのは、「自我」、「意識」、あるいは「実存」――それが、対自のであれ、固有な身体のであれ、「行動」のであれ――に中心化されたようなエゴの形象をもたないということであり、また人間主体は、「自我」の想像上の誤認のなかでしか、すなわち、自我がみずからを「認知する」場合のイデオロギー構成体のなかでしか「中心」をもたないような構造によって脱中心化され、構成されているということであった。 [50頁]

≪文化≫の≪掟≫が押しつける劇的な構造、「演劇的機械」 … フロイトの言い方(「もう一つの演劇…舞台」)を踏まえたラカンの表現(「機械」)。「ドラマ」という言い方をしたポリツェルから、演劇、舞台、演出、機械仕掛け、演劇ジャンル、演出家などの言い方をしたフロイトとラカンまでには、みずからを演劇と取りちがえている観客から――その演劇そのものまでの距離がそっくりそのままある。 [48頁、350頁]

2010年11月18日木曜日

「チリの地震」(11)

ハインリヒ・フォン・クライストによる物語「チリの地震」(11)
(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)(10)

 ――怒り狂ったかたまりは、ヘロニモの発言に混乱し、立ちすくんだ。複数の手がドン・フェルナンドを離した。まさにこの瞬間、重要な地位にあるさる海軍将校が急いで近づいてきて、この騒ぎを突き抜けながら訊ねた、ドン・フェルナンド・オルメス! きみたちに何が起こった?


 いまや完全に解放されたドン・フェルナンドは、真に英雄的な落ち着きをもって答えた、「ああ、見てくれ、ドン・アロンゾ、この殺戮のしもべたちを! わたしにはどうしようもなかった、もしこの威厳溢れる男性が、狂った群れを鎮めるために、ヘロニモ・ルヘラだと名乗ってくれなければ。きみが善意を尽くしてくれるなら、彼を逮捕してくれ、この若い婦人も一緒に、二人の安全が確保されるように。そしてこの無に値する男も逮捕してほしい」とペドリーリョ親方を捕まえて、「彼がこの暴動全体を煽動したんだ!」


 靴屋は言った、ドン・アロンゾ・オノレハ、あなたの良心にかけてお尋ねします、この娘はホセファ・アステロンじゃありませんか? このときホセファをよく知るドン・アロンゾが返事をためらい、そのため複数の声があらためて怒りに燃え、この女だ、この女だ! この女を死刑にしろ! と叫んだので、ホセファはこれまでヘロニモが抱いていた小さなフィリップを、小さなホアンとともにドン・フェルナンドの腕にあずけ、言った、行ってください、ドン・フェルナンド、あなたの二人のお子さんを救ってください、わたしたちのことはわたしたちの運命にゆだねてください! 
 ドン・フェルナンドは二人の子供を受け取り、言った、わたしは、自分の集まりに危害が加えられるのを許すくらいなら、むしろ死にます。彼はホセファに、海軍将校の剣を借りると、腕をさしのべ、後ろの二人にもついてくるよう求めた。彼らは実際、こうした公共施設では敬意を払われ場所をあけてもらえたので、教会の外まで出た、そして救われたと思った。

2010年11月17日水曜日

政治・経済・生活(5)

1.ウルリヒ・ベック『世界リスク社会論』(ちくま学芸文庫)

世界共通の問題は、存在しないならば、つくり出されなくてはならないものなのです。というのも、そうした問題は、コスモポリタン的な共通性を編み出す助けとなるような戦略の宝庫だからです。 [9頁]

リスクの概念は、近代の概念です。それは、決定というものを前提とし、文明社会における決定の予見できない結果を、予見可能、制御可能なものにするよう試みることなのです。[…][しかし]それらの問題や危険は、(チェルノブイリ原発事故や米国同時多発テロなどの)全世界の人々の目に明らかになった大惨事に見られるように、それらをコントロールできるという公にされた言葉や約束とはまったく相容れないものです。 [27-28頁]

危険のグローバル性を認知することによって、国際政治と内政の固定したように見えるシステムが流動化し、つくり替え可能なものになるということです。この意味で恐怖というものが、疑似革命的な状況をつくり出しますが、そのような状況は様々な仕方で利用することができます。 [29頁]

「世界リスク社会」というものの日常経験空間は、したがって万人の万人に対する愛情関係によって生まれるわけではないのです。それは、文明世界による行為のグローバルな結果としてわたしたちが認識する惨状において生まれるのです。[…]一方では、言葉の沈黙を打ち破り、自分の生活連関におけるグローバル性を、痛みを伴って意識させ、他方では、新たな対立の方向を示し、同盟を生み出すということが、世界リスク社会における自己再帰性なのです。自分が危険にさらされていることについて、たえず語り合うことによってのみ、自らを保つことができるのだ、ということを近代国民国家は学んできました。このことは、世界リスク社会においても同じだと思われます。 [33-34頁]

テロ攻撃は国家というものを強化します。しかし、その本質的な歴史的形態の価値を低下させます。その形態とは、国民国家のことです。[…]諸国家は、自国の利益のために、脱国家化しなくてはいけないし、超国家化しなくてはいけません。つまり、グローバル化された世界において自分のナショナルな問題を解決するために、自己決定権[自律]をある程度、放棄しなくてはいけないのです。[…]国家の自己決定権の縮減と国家主権の増大とは、論理的に決して排除しあうものではなく、それどころかお互いに強め合い、進展を助け合うものなのです。 [52-53頁]

主権と自己決定権とを区別するのが重要になります。国民国家は、主権と自己決定権との等置を基盤としてきました。[…]国家の世界的な評価は、もはや(冷戦のときのように)、対立図式によってではなく、協調する能力と才覚や、ネットワーク化された国家間関係における位置付けや世界市場における立場や、超国家的組織における存在感によって測られるものになります。 [54頁]

コスモポリタン的な国家は、国家がナショナリズムに対して冷静であるという原則に基づいています。宗派によって形づくられていた16世紀の内戦が、国家と宗教の分離によるウェストファリア条約で終結したのと類似して、(これはひとつのテーゼなのですが)20世紀と21世紀初頭が国家主義的な世界(市民)戦争に対して、国家とネーションの分離によって応じることができるのかもしれません。無宗教国家がさまざまな宗教の実践を可能にしているのと類似して、コスモポリタン国家は、国境を超える民族的、宗教的アイデンティティの共存を、立憲的寛容の原則によって保障しなくてはいけないでしょう。 [58-59頁]


2.

 出版メディアが国民国家成立の重要な一因となったように、インターネットがコスモポリタン的な国家への変化を担うはずだ。「国家がナショナリズムに対して冷静である」ためには、メディアの状況が変わることが必要だ。しかし、どんなにネットがその可能性を拡大しても、現在の非ネット人口の行動と意識がそれによって変わるとは思えないから、ネットに触れないみなさんが天命を全うして、ネット人口の割合が限りなく高い世代がメインになるまで、量的な時間が経過するのを待つことも仕方ないだろう。

 ベックは「ピンチはチャンス」というヘルダーリン的社会学者だ。ところで、それは当然、「チャンスはピンチ」でもあるということだ。流動性、ネットワーク、協調、超国家。時間の流れが変化したことを感じなければならない。

2010年11月16日火曜日

クライスト(5)

日刊紙「ベルリン夕刊新聞」(Berliner Abendblätter, 1810.10 – 1811.3)

1.概要

クライストが一人で編集・発行人として毎日夕方に販売した夕刊紙(日曜を除く)。ベルリン中心部の飲食店で購入できたほか、郵便による配達や書店を通じての購読も可能だった。ドイツ語圏における最初の日刊紙の一つとして歴史的意義も高い。第一期は出版人ヒッツィヒのもとで、第二期はクーンのもとで発行された。新聞が半年で挫折したのは、検閲が厳しくなり、内容が制限され、商業的な成功を収められなかったためといわれている。


2.特徴

クライストの「ベルリン夕刊新聞」の最大の特徴は、現在の「新聞」という概念からは想像もつかないような「テクストの混在」が見られることである。「ベルリン夕刊新聞」は、警察発表をそのまま紙面に載せたことで「犯罪」をジャーナリズムの本質的要素として導入したとされるが、それ以外にも、ほとんど寓話のような記事(幽霊が出たという話題など)や、連載小説、芸術批評、演劇批評、手紙の形式をとった論考、いわゆるニュース、さらには詩などが並置されていた。どこまでが事実で、どこからがフィクションなのか、読者には明確にわからないこともあったはずである。なお、クライストは、他の新聞や雑誌に掲載された記事に自ら手を加えて自分の新聞に転載することも多かった。


3.メモ

・クライストの創作は必ず資料とともに始まる。パロディも多い。「こわれがめ」は聖書とソフォクレス、「アンフィトリュオン」はモリエール、「公子ホンブルク」は史実であり、短編小説も歴史や伝説に題材をとったものが多い。そう考えると、クライストが新聞を発行して警察発表をそのまま載せたり、あるいは他の新聞雑誌の記事を「改作」して掲載するということは、クライストの創作原理を明確に示しているとさえいえる。

・新聞はドイツ語でZeitung。そこにZeitがあること。Zeitは「時代」だけでなく「時間」。Zeitungの語源は「ある特定の時間に生じた出来事」らしい。そこから「ある出来事についての知らせ、報告」となり、そうした「報告の集合」を意味するようになった。クライストの新聞はそのかつての語義に近い。

・事実と虚構の区別がつかない新聞。当時の読者はそれをいかに受容していたのか。「事実と虚構の区別がつかない」ことを問題にするのはむしろ今日的視点なのか。「事実」や「虚構」という概念自体がクライストにおいて検討されなければならない。「事実」と「虚構」の区別など知らなかったのかもしれないとさえ思える。

・「事実と虚構」問題は、クライストの認識論(意識論)ともつながる。「事実」などというものを知ることはできるのか。「虚構」と区別されるような「事実」を知ることが重要なのか。むしろそうした区別の溶解したところで考えたり行動したりすることが必要なのではないか。クライストのカント。

・偶然、分身、揺らぎ、秩序といったクライスト作品の問題系は彼の新聞にも現前している。他人の書いた記事の「分身」をつくって自分の新聞に掲載していた。秩序の揺らぐ偶然の新聞。

2010年11月15日月曜日

時間・歴史・演劇(5)

1.フリードリヒ・ニーチェ「遺稿」

意識は、まさにひとつの道具である。そして、意識なしでもいかに多くの、また重要なことがなされているかを考慮するならば、意識は最も必要なものでもなければ、驚嘆に値するものでもない。正反対である。おそらく、これほどまずく発展した器官はないし、これほど様々な欠陥のある、誤作動する器官はない。意識はまさに最後に成立した器官であり、したがってまだ子供なのである――われわは、その様々な幼さを勘弁してやろう!


2.ミシェル・フーコー「ニーチェ、系譜学、歴史」(『コレクション3』ちくま学芸文庫)

至る所にわれわれ自身を認めさせ、過去のあらゆる移動に和解の形を与えることをわれわれに許してくれるような歴史、歴史自身の背後にあるものに世界の終りの視線を投げかけるような歴史。こういう歴史家たちの歴史は時間の外に視点をこしらえている。[…]それは歴史が、永遠の真理、不死の魂、つねに自己との同一性をもち続ける意識を想定したということである。 [368頁]

実際の歴史の世界はただ一つの王国しか知らないのであって、そこには摂理も窮極原因も存在せず、存在するのはただ「偶然のさいころ筒を振る必然性の鉄の手」だけである。 [371頁]

実際の歴史はある展望に立つ知であることをおそれない。[…]ニーチェの考えるような歴史的感覚は、自分がある展望に立っていることを認めており、自身に固有の不公正の体系をもつことを拒否しない。評価し、イエス、ノーをいい、毒のあらゆる痕跡をたどり、最良の解毒剤を見つけようという明白な意図をもって、ある角度から対象を眺めるのである。自分の眺めるものの前で控えめに自分を消すふりをするとか、自分の眺めるもののうちにその法則を探し求め、これに自分の動きの一つ一つを従わせるとかするのではなくて、これはむしろ、自分の眺めているものも、自分がそれを眺めている場所がどこからなのかもよく知っている視線なのである。歴史的感覚は、知がその認識の運動そのものの中で自分の系譜を作製する可能性を、知に与えるのである。 [373-374頁]

歴史を反‐記憶とすること――そしてその結果として、そこでまったく別の形の時間を展開させることが問題なのである。 [379頁]

さまざまな仮面がたえ間なく立ち戻ってくるような、時間の大謝肉祭を開かせようとするのである。われわれの蒼ざめた個体性を過去の強度に現実性をもつアイデンティティーと同一化するよりもむしろ、再び現われてくる無数のアイデンティティーのうちでわれわれを非現実化することが問題なのである。 [380頁]

尚古的な歴史においては、われわれの現在がそこに根づいている連続性を認識することが問題であった。大地、言語、都市の連続性である。[…]系譜学もまた、われわれの生まれた土地、われわれの語る言語、あるいはわれわれを支配する法則の問題を立てるが、それはわれわれの自我の仮面のもとにあらゆるアイデンティティーをわれわれに禁じているさまざまな異質の体系をさらけ出すためなのである。 [382-383頁]


3.ジル・ドゥルーズ『ニーチェと哲学』(河出文庫)

多様なあるいは多元的な肯定、これが悲劇的なものの本質である。[…]悲劇的なものはもっぱら多様体のうちに、つまり肯定それ自体としての多様性のうちに存在するのだ。悲劇的なものを定義するのは、多様なものの喜び、多元的な喜びである。この喜びは、昇華、浄化、補償、諦観、和解といったものの結果ではない。悲劇的なもののあらゆる理論のなかで、ニーチェは本質的な無理解を、つまり美的現象としての悲劇に対する無理解を告発できる。<悲劇的>とは、喜びの美的形式を示すのであって、医学的処方も、苦悩や恐怖や同情の道徳的解決も示してはいない。 [50頁]

ニーチェは偶然を一つの肯定にするのだ。天空そのものは「偶然の天空」、「無垢の天空」と呼ばれる。ツァラトゥストラの支配は「大いなる偶然」と呼ばれる。「<偶然に>、これこそ世界のもっとも古い高貴さであり、私はこの高貴さをすべての事物に取りもどしてやった。私はすべての事物を目的への隷属状態から救出してやったのだ。…私はあらゆる事物のうちに幸福の確信を見出した。すなわち、事物はむしろ偶然という足で舞踏するのを好むということである」。「私の言葉はこうだ。<偶然が私のところに到来するに任せよ。偶然は幼子のように無垢である>」。したがって、ニーチェが必然(運命)と呼ぶものは、けっして偶然そのものの消滅ではなく、その組み合わせである。必然は、偶然そのものが肯定される限りその偶然について肯定される。というのは、偶然そのものとしての唯一の組合せしかなく、偶然のあらゆる分肢を組合せる唯一の仕方――すなわち<多>の<一>として、つまり数あるいは必然として存在する仕方――しかないからである。 [66-67頁]

歴史一般とりわけヘーゲル主義は、勝利するニヒリズムのうちに自分たちの帰結を、しかし自分たちのより徹底した崩壊を見出していた。弁証法は歴史を愛し管理するが、しかし弁証法は、自分が苦しみ、また管理していないような歴史をそれ自身もっている。一つに統合された歴史と弁証法の意味は、理性の実現でも、自由の実現でも、種としての人間の実現でもなく、ニヒリズムであり、ニヒリズム以外の何ものでもない。 [314-315頁]

2010年11月14日日曜日

政治・経済・生活(4)

1.フリードリヒ・アウグスト・フォン・ハイエク『隷属への道』(春秋社)

個人主義とは、「人間としての個人」への尊敬を意味しており、それは、一人一人の考え方や嗜好を、たとえそれが狭い範囲のものであるにせよ、その個人の領域においては至高のものと認める立場である。それはまた、人はそれぞれに与えられた天性や性向を発展させることが望ましいとする信念でもある。 [10頁]

真の自由主義者の政策が目指すところは、社会の諸力がうまく動いていくのを助け、必要とあらばそれを補完していくことであり、そのために第一にしなければならないことは、その力自体を理解することであった。 [15頁]

諸個人の活動が相互にどのような影響を生み出しているかを自動的に記録し、同時に、諸個人がどんな決定をしたかという結果を明らかにし、またそれに従って諸個人が決定を下していくためのガイドとなるような、何らかの記憶装置が必要になる。[…]一見不可能に思われるこのような機能、他のどんなシステムも請け合うことのできぬこの働きを、まったく見事に果たしているのが、競争体制における「価格機構」なのである。 [59-60頁]

現代文明がさらに複雑になればなるほど、中央統制が必要になるのではなく、逆に、意図的な統制に頼らない方法を用いることがより重要になってくるのである。 [61頁]

われわれの複雑な社会が崩壊してしまわないようにするためには、二つの道しかなく、一つは、市場における個人を超えた非人格的な、非合理にさえ思われる諸力に身を任せる道で、もう一つの道は、これと等しく人々にとっては制御不能で、したがって恣意的なものにすぎない権力を、他の人々が振るうことに対して身を任せる道でしかない。 [280頁]

様々な行動規範というものは諸個人によって生み出され、進化させられてくるものであり、それこそが、社会集団の政治的行動がどのような道徳的規準を持つかを決定していくのである。それなのに、個人的な行動に関する道徳基準が緩んでいる一方、社会的な行動基準がレベルアップしている、というようなことがあるとすれば、これはまったくのところ驚くべきことではないだろうか。 [293頁]

あらゆる権力や最も重要な決定の大半を、普通の人が調査したり理解するにはあまりに巨大すぎる組織へと任せることになれば、民主主義を維持していったり、その発展を育て上げていくことができなくなるのは必然である。民衆一般や将来の指導者たちのために、政治的訓練をしてくれる学校を提供するのが地方自治である。この地方自治という偉大な手段に依存せずに、民主主義がうまく運用されたためしはどこにもない。普通の人々が公的な事象に、自分たちが知っている世界と関わりがあるという理由で真剣に関与できるのは、次のような場合だけである。すなわち、大半の人々が身近によく知っている事柄に関して、これらに対する責任がどういうことであるかを学び取ることができ、実際にも責任を取ることができる場合である。言い換えれば、人々が行動する際の指標となるのは、人々の必要についての理論的知識などではなく、近隣の人々への気遣いのようなものである場合、ということである。政治的な手段や措置の関係する範囲が大きくなりすぎて、そこで必要とされる知識は官僚だけがほぼ独占的に握っているという状態になってしまうと、民間の人々の創造的な衝動は必然的に衰えていく。この点については、オランダやスイスなどの小国の経験は極めて貴重なものであり、大英帝国のような最も幸運な大国でさえもそこに多くを学ぶことができると私は信じている。様々な小国が生存していくのに適切な世界を創り出せるなら、世界の人々の全員がこれによって利益を得ることになるのは間違いない。 [324-325頁]


2.

 大きな政府か小さな政府かという議論は無意味で、「遠い政治」か「近い政治」かという問題にしか重要性はない。そしてやっぱり、なんだかんだいって「個人」は大事で、「個人」から始めるしかない。この二つは別個の問題ではなく、相互に影響を与え合う。したがって、必ずセットで考えなければならないし、連動する仕組みが必要になる。

2010年11月13日土曜日

クライスト(4)

戯曲「公子フリードリヒ・フォン・ホンブルク」(Prinz Friedrich von Homburg, 1811)

1.あらすじ

公子フリードリヒ・フォン・ホンブルクは夢遊病。夜、意識なくさまよっているときに公女ナターリエと会ったことが夢か現実か自分でもわからない。ナターリエを見ながら思いに耽っていたため、軍事作戦会議で下された重要な指令も話半分に聞いてしまう。そのため戦闘では命令がないにもかかわらず敵を攻撃し、結果的にはそれが大勝利につながるものの、指令に背いたとして軍法会議にかけられ、死刑を宣告される。ホンブルクは恩赦を求めるが、「それでは自分に生じたことは不正だと思うか」と問われ、今度は逆に自ら進んで死を決意する。ナターリエの画策とホンブルクの部下たちの嘆願書にも関わらず、選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムは死刑を撤回しないが、最後はホンブルクの言葉と彼の部下たちの支持によって判決を破棄し、ホンブルクは勝利をもたらした英雄として讃えられ、一同は次なる戦場へと向かう。


2.メモ

2.1 重要

・ひとつの法、ひとつの秩序を形式的に守ったために他の法や秩序が動揺をきたしてしまうとき、どうすればよいのか。「選帝侯」は「テュニスの頭目」とは違う、というセリフの意味。とりわけ、「法」と「正義」が衝突するときの調整。法の遵守が反逆を生み出してしまうとき、その法に固執すべきなのか? 秩序の柔軟性と硬直性はどのようなバランスを見出すべきか。「国家の秩序」をどうつくるか。その思考実験として、ホンブルクを「犯罪者にして英雄」という「ホラティ人」的人物にしている。

・「書くこと」というテーマ。ホンブルクは軍事作戦のディクテーションに失敗する。「命令」を「書き写す」ことによって「計画」を「身体化」できない。いわく、自分が「分裂する(geteilt)」。しかしこの身体化こそ官吏や職業軍人といった「近代人」の条件。軍隊の識字率の問題も見えてくるか(Vgl. 「こわれがめ」)。「書くこと」のテーマは最後まで続く。すなわち、死刑判決、選帝侯による判決文への署名、ナターリエの手紙、恩赦についての手紙、軍人たちの請願書。しかし戯曲は最後は「全員」の「声」で終わる。

・さまざまな対立。「言葉の命令 Order」と「心で感じる命令」、「偶然」と「計画」。近代化とは「偶然の除去」(リスクの計算)か。ProzessとPlanの相違。「戦略」「軍事作戦」とは何か。「法」と「勝利」。いわく、法は「勝利の一族」を生むが、一度の勝利は単なる「偶然の子供」である。また、SiegとTriumphの対立。

・「法」と「裁判」は別々に考えるべきだ。

・最上位の法は書字Buchstabではない、というナターリエの発言。それは「祖国」である、と。

・「主人公」がいない。ホンブルク、ナターリエ、選帝侯、それぞれ中心になる部分はあるが、「主人公」ではない。

・ホンブルクは「成長」したのか。おそらく「成長」ではない。弁証法的なものはない。むしろ「性格」が破綻している。「わたし」は不安定である。

・「主権」の問題。主権は動揺しているのか。選帝侯は、最後の決断をもはや自分で下さず、ひとびとに委ねている。

・ヘーゲルの「歴史」が拒む「歴史」をクライストはもっているのか。

・ヴォルフ・キットラーの指摘。ホンブルクの部下たちが上官に示す忠誠は「古い」、国家=選帝侯に示す忠誠こそ「新しい」。しかし他方で、ホンブルクの臨機応変な軍事行動は「新しい」、選帝侯の軍事作戦は「古い」。この交差、あるいは混淆にクライストの考え方がある。あらゆるレベルで新しい時代が到来すればよいのではない。


2.2 他の作品と共通する要素

・「予知夢」→「こわれがめ」

・夢(無意識)の状態の方が覚醒した状態よりも多くを知っている。夢のなかで呼んでいた名前を目覚めると忘れている。

・Fallen(落下)。ホンブルクは「落馬」する。

・「熊」

・「養子」

・Trieb(情動)。そのために話を聞かない。

・ひとの「群れ(Schar)」。「チリの地震」などと比較せよ。

・結末部分は夢の実現? 円環の完成? あるいは仮死の通過儀礼?

・分身。結末部分の「花」の誤解。夜/昼、死/生の二重性を示している(Vgl. Handbuch)。


2.3 その他

・「不死 Unsterblichkeit」とは何か。

・前半のテンポの良さと後半の細部の長さが対照的。

・これまでのクライスト研究は「人物」をみて失敗している。むしろ「構造」を読むべきなのに。

・多くの秘密と謎と投げかけているとされるテクストだが、むしろ「秘密は何もない」という読み方が重要。

・課題は、カント、アダム・ミュラー、17~18世紀の演劇理論、クライストにおけるジャーナリズム。

2010年11月12日金曜日

時間・歴史・演劇(4)

1.ルイ・アルチュセール『資本論を読む』(ちくま学芸文庫・中巻)

周知のように、ヘーゲルは時間をこう定義する――「現存在する概念」、すなわち直接的に経験的に実在する概念。というのも、時間はその本質としての概念へとわれわれを送り戻すのであるから。すなわち、歴史的時間は、概念(ここでは理念)の発展の契機を体現する歴史的全体性の内的本質の、時間の連続性における反照にすぎないとヘーゲルは自覚的に宣言するのだ。われわれはヘーゲルの承認の下に、歴史的時間は、時間がそれの現実存在であるところの社会的全体性の本質を映しだすにすぎないと考えることができる。 [58頁]

ヘーゲル的全体は、物質的または経済的規定であれ、政治制度、宗教的、芸術的、哲学的形式であれ、全体の各要素が特定の歴史的時期における概念の自己への現前にほかならないといった統一のタイプをもっている。 [60頁]

誰も自分の時代を飛び越すことはできないというヘーゲルの有名な公式[…]――哲学には、明日は本質において禁じられている。[…]未来の知が存在しないために、政治の科学、現在の現象の未来の結果に関する知が存在できなくなる。まさにそのゆえに、厳密な意味で、ヘーゲル的政治はありえないし、事実、ヘーゲル的な政治的人間をかつて見たためしはない。 [61-62頁]

われわれは、マルクス主義的全体の特有の構造についてこう結論することができる――全体の異なったレベルの発展過程を同一の歴史的時間のなかで考えることはもうできないと。これらの異なった「レベル」の歴史的現実存在のタイプは同じではない。反対に、われわれはそれぞれのレベルに、相対的に自律した、したがって他の諸レベルの「時間」に依存しつつ相対的にそれから独立した、固有の時間を割り当てなくてはならない。[…]政治的上部構造の固有の歴史がある。哲学の固有の時間と固有の歴史がある。美的生産の固有の時間と固有の歴史がある。科学的形成体の固有の時間と固有の歴史がある、等々。これらの固有の歴史のそれぞれは固有のリズムによって刻まれるし、それの歴史的時間性とその刻み方(連続的発展、革命、切断等々)の独自性の概念を規定したときにはじめて認識される。 [70頁]

目に見える測定可能な時間の実在をこのように反省するだけで満足してはならず、それぞれの目に見える時間の外見の下に暴きだされる見えない時間、見えないリズムと刻み方の存在様式の問いを、必ず提起しなくてはならない。『資本論』を少しでも読めばわかるように、マルクスはこの要求に実に敏感であった。例えば、経済的生産の時間は、もしそれが特有の時間であるとすれば、(異なった生産様式に応じて異なる)特有の時間として非線形の複合的時間であり、複数の時間の時間、複合的時間であり、それは生活時間ないし時計時間の連続性のなかでは読むことはできず、生産に固有の諸構造から出発して構築しなくてはならない。マルクスが分析する資本主義的経済生産の時間はその概念において構築されなくてはならない。この時間の概念は、生産、流通、分配の異なった操作を刻む異なったリズムの現実から出発して、構築されるべきである。[…]この時間は、その概念のなかで、つまりあらゆる概念と同じく決して直接には与えられておらず、見える現実のなかで決して読み取られえない概念においてはじめて、前述の異なった時間、異なったリズムや回転の複合的な「交錯」として接近できる。この概念は、どの概念とも同様に、生産され、構築されなくてはならない。 [73-74頁]

経験的歴史においては、あらゆる歴史の時間は単純な連続性の時間であり、その「内容」はそこで産出される出来事の真空であって、しかる後にこの連続性を「時代区分する」ために切断の手続きに従ってこの真空を規定する試みがなされる。およそれきしの平板な神秘を要約する連続と非連続のカテゴリーに代えて、われわれはそれぞれの歴史のタイプに応じたそれぞれに特有の、無限に複雑なカテゴリーを作らなくてはならない。 [78頁]

2010年11月11日木曜日

「チリの地震」(10)

ハインリヒ・フォン・クライストによる物語「チリの地震」(10)
(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)(9)

 ヘロニモの腕につかまったまま震えながら、ドニャ・コンスタンツェが言った、ドン・フェルナンド! しかし彼は激しくひそやかに、二つが結びつくように答えた、「黙ったままで、ドニャ、眼球も動かさず、気絶して沈んだようになさい、それを合図にこの教会を出ます。」


 しかし、ドニャ・コンスタンツェがよく練られたこの救出策を実行するより先に、一つの声が叫びを上げ、司教座聖堂参事会員の説教を大声で中断した。離れろ、サンチャゴ市民、ここにその神を冒涜した人間たちが立っている! するともう一つ別の声が、恐怖に満たされ、周囲に驚愕の輪を生みつつ、訊ねた、どこだ? ここだ! と第三の者が応え、神聖な卑劣さに満たされ、ホセファの髪を掴んで引き倒そうとしたので、ドン・フェルナンドが押さえてなければ、ホセファはよろめいて彼の息子ともども地面に倒れるところだった。

 あなたたちは気が狂ったのか? と青年は叫び、ホセファの体に片手をまわした、「わたしはドン・フェルナンド・オルメス、あなたたちみなが知るこの町の司令官の息子だ。」ドン・フェルナンド・オルメス? と言ったのは、彼のすぐ前に立ちふさがった靴職人だった、彼はかつてホセファのために働いたことがあり、ホセファのことを少なくともその小さな両足と同じくらいよく知っていた。

 この子の父親は誰だ? と彼は生意気な反逆を見せながらアステロン家の娘に言った。ドン・フェルナンドはこの問いに蒼ざめた。彼はためらいがちにヘロニモを見たり、自分を知る者がいないか集会を見渡したりした。恐ろしい状況に強いられてホセファは言った、この子はわたしの子ではありません、ペドリーリョ親方、あなたが思っていることは違います。彼女は魂の無限の不安を感じつつ、ドン・フェルナンドを見ながら言った、この若い方はドン・フェルナンド・オルメス、あなたたちみなが知るこの町の司令官の息子です! 


 靴屋は訊ねた、市民諸君、あなたたちのなかにこの若い男を知っている者はいるか? すると周りの幾人かが反復した、ヘロニモ・ルヘラを知っている者はいるか? いたら出てきてくれ! 


 このときたまたま、全く同じ瞬間に、小さなホアンが騒ぎに驚き、ホセファの胸を離れてドン・フェルナンドの腕に入りたがった。これを見て、あの男が父親だ! と一つの声が叫び、あの男がヘロニモ・ルヘラだ! と別の声が叫び、あの二人が神を冒涜した人間だ! と第三の声が叫んだ。石を投げろ! 石を投げろ! イエスの神殿に集うキリスト教徒よ! すると今度はヘロニモが叫んだ、やめろ! 非人間的な者たちめ! あなたたちがヘロニモ・ルヘラを探しているならここにいる! 無実のその男性を解放しろ!

2010年11月10日水曜日

政治・経済・生活(3)

1.リチャード・ローティ「哲学に対する民主主義の優先」(『連帯と自由の哲学』岩波書店)

<われわれに先行し、われわれに与えられているところのある秩序>に正確に合致することが、正義に関する考え方を正当化するのではない。われわれのより深い自己理解やわれわれの熱望するものと一致すること、<自分たちの公的生活に組み込まれている自分たちの歴史と伝統においては、それがわれわれにとって最も理にかなった教説である>ということをわれわれが認識すること――こういったことが、それを正当化するのである。 [ロールズ、180頁]

話相手が議論の話題として提出するものをまじめに受け取ることに気が進まなければ――われわれは好意と寛容を停止させなければならない。このような見解をとることは、<ただ一つの道徳的語彙とただ一組の道徳的信念だけが、どこの人間共同体にとっても適切である>という考えを捨てて、<われわれは、歴史の展開にしたがって、問いと、その問いを提出する際に用いられた語彙とを、あっさりと捨ててしまうことができる>と認めることである。 [188頁]

<人間は中心のない信念と願望の網目であり、その語彙と意見は歴史的状況によって決定される>という見解は、これとは対照的である。この見解は、<そうした二つの網目の間に十分重なりあうところがないため、政治的話題について合意に達することができず、あるいはそうした話題に関する有益な議論すらできない>という可能性を考慮に入れている。 [190頁]

プラトン的な見方による真理、すなわち、「われわれに先立ち、われわれに与えられる秩序」とロールズの呼ぶものを把握するものとしての真理は、民主政治には何の関わりもない。したがって、そうした秩序と人間本性との関係を説明するものとしての哲学も、これまた民主政治には何の関わりもない。それらが衝突するときには、民主政治が哲学に優先するのである。 [191頁]

私が依拠する戦略は、<得ようとする必要があるのは反省的均衡だけである>[…]と主張する全体論的戦略である。 [195頁]

ジェファーソンとデューイは、どちらも、アメリカを一つの「実験」と考えた。もしその実験が失敗すれば、われわれの子孫は大切なことを学ぶであろう。だが、その場合、彼らは宗教的真理を学ぶのではない。それと同じように、彼らは哲学的真理を学ぶわけでもない。彼らは、次の実験を行なうときに何に注意しなければならないかということについて、ヒントを得るだけである。民主主義革命の時代から存続しているものがほかにないとしても、<社会制度は普遍的・非歴史的秩序を具体化しようとする試みではなく、むしろ共同で行なう実験と見なしうるものだ>ということは、彼らの記憶するところとなるであろう。この記憶が持つに値しないということは、信じ難いことである。 [200頁]


2.

 プラグマティズムは「議論すべき話題」を認めず、「議論されることを望まれている話題」しか認めないだろう。それはやはり「生産の理論」ではなく「消費の理論」ではなかろうか。ローティの論文を読んでいると、ロールズというのは、「マーケット」を分析したうえで「政治(正義)のマーケティング戦略」を生み出した人のように思われる。

 ところで、上記ローティ(とロールズ)の引用は、すべてがクライストについて論じているかのように読めることが、わたしにとっては驚きである。現代アメリカの正義論を検討することは、クライストを読む可能性を創造的に拡げてくれるように思う。

2010年11月9日火曜日

クライスト(3)

喜劇「こわれがめ」(Der zerbrochene Krug, 1802-1806)

1.あらすじ

「かめが壊された」という訴えが村役場に持ち込まれる。村長にして裁判官のアダムが裁判を行うが、実は彼が犯人であることが、次第に明らかにされる。


2.メモ

・クライストのキーワードであるFallとGericht(あるいはProzess)を象徴する作品。

・法が近代化されるプロセスそのものを描いた戯曲。「村の法」と「国の法」の対立。

・あるいは、より大きな射程で近代化を捉えた作品かもしれない。例えば、「かめ」という「物」の扱い方。マルテ夫人はそれが「どんな」かめか、いかなる「歴史」と「価値」をもつかめか力説する一方で、司法顧問官(Gerichtsrath)ヴァルターは、そのかめに「何が」生じたかにしか関心をもたない。「物(Ding)」と「事(Sache)」の対立と考えることもできる。

・また、語りの複層性。アダム、マルテ夫人、ループレヒトがなかなか先に進まず同じ事を延々と違う角度から述べる垂直的な語りをするのに対し、ヴァルターは再三「先を続けて!先を続けて!(Weiter! Weiter!)」と急かす。

・あるいは「語り」と「質問」の対立と捉えられるか。ヴァルターは問う。「たずねよ、さらば与えられん」。

・以上のことから、喜劇であり裁判劇であるが、同時に「歴史劇」である。

・名前の象徴性。アダム、イブ、ヴァルター(「統治者/管理者」)、リヒト(「光」)など。

・作品がパロディであること。おもに「オイディプス王」と「聖書」のパロディ。

・リヒトは、「啓蒙の“光”を受けた者」という意味だろう。

・ヴァルターは、「(神のように)この世を統べる者」か「(官僚的)管理者」か、あるいは両方か、どちらでもないか、これは重要なポイント。

・分身のモチーフ。「ループレヒト」と「レープレヒト」。他の作品と比較できる。

・レープレヒトが「靴屋」であること。「チリの地震」でも靴屋が重要になる。

・書類の偽造、ねつ造のモチーフ。「拾い子」にも出てくる。

・「顔」の重要性。出来事が生じる場所。「チリ」や「拾い子」でも同様。

・「夫婦」のテーマ。多くの作品に共通。

・近代の法律家としてのヴァルターが最もよく示されているのは、彼が「適正手続」を遵守するところである。ヴァルターは、たとえアダムが犯人であったとしても、アダムが裁判官として下した判決を無効とはしない。その代わりに「控訴せよ」と助言する。これこそ近代法の原理である。手続きに瑕疵がなければ、内容にどのような問題があったとしてもその判決は尊重される。内容は控訴審で争えばよいからである。

・ヴァルターがGrundという言葉を使うこと。クライストの重要語であるGrundは近代的な思考と関係するものか。

・イブの行動原理。「真実」は問題でない。むしろ事実、現実がどうなるかが重要。そしてそれを支える「徳」は、名誉、信頼、献身といったものである。

・「異曲(Variant)」の重要性。「民兵と国防」というテーマ。言葉だけでは「真実」は伝わらないし、「現実」にも影響をもたないという(いわゆる「カント危機」的)テーマ。そして「財布」と「硬貨」のシーンの意味(「硬貨」といえば「チリ」だが)。

・決定的な瞬間が言葉では表現されないこと。「拾い子」でも復讐を決意する場面やセリフはない。あるいは、決定的な瞬間は言語的に生じるのではない、ということか。

・「国家の信用とは何か」という問題(Vgl. Handbuch)。貨幣と信用の問題(なのか?)。

・財布と硬貨のシーンは、イブが文盲であって手紙や布告、書類を読めないこととも関係している。近代化と識字率の関係。文盲の人々に対していかに「国家」を信用させるかという問題?

・最終場は近代法の勝利なのか? 全体として近代化を肯定的に描いた作品なのか?

2010年11月8日月曜日

時間・歴史・演劇(3)

1.G. W. F. ヘーゲル『美学講義』(作品社)

さて、悲劇的紛糾の結果として出てくるのは、たたかいを交えた双方の正当性が確認されるとともに、双方の主張の一面性が除去され、安定した内面の調和[…]がもどってくるという事態です。真の発展は対立そのものが破棄され、葛藤のなかで相手を否定しようとした行動の大義がたがいに和解するところにしかありません。となると、不幸や苦しみではなく、精神の満足が最終結果として訪れ、そうなってはじめて、個人の起こったことの必然性が絶対の理性としてあらわれ、心情は共同体精神として真の安定を得ます。英雄の運命に衝撃を受けた心情が、事態の推移のうちに安息を見いだすのです。そのことをしっかりと洞察できれば、古代の悲劇の本質をとらえたことになります。 [下巻452頁]


2.G. W. F. ヘーゲル『歴史哲学講義』(岩波文庫)

世界史の本体は精神であり、精神の発展過程です。 [上巻36頁]

世界史においては、国家を形成した民族しか問題とならない。[…]共同体の真理とは、公共の精神と主観的精神が統一されることであり、公共の精神とは、普遍的かつ理性的な国家の法律のうちに表現される。[…]かくて、世界史の対象を明確に定義すれば、自由が客観的に存在し、人びとがそこで自由に生きる国家がそれだ、ということになる。というのも、法律とは精神の客観的なあらわれであり、意思の真実のすがたであって、法律にしたがう意思だけが自由だからです。意思が法律にしたがうことは、自分自身にしたがうこと、自分のもとにあって自由であることです。 [同73-74頁]

世界史とは、すでにのべたように、精神が時間のなかで展開していくものです。 [同126頁]


3.G. W. F. ヘーゲル『精神現象学』(作品社)

こうして、精神の秩序ははじめて自己意識にとって本来の掟として存在することになる。[…]そこにあらわれる掟は、特定の個人の意志に根拠をもつのではなく、正真正銘の絶対的な万人の純粋意志が、そのまま形をとってあらわれたような、永遠の掟である。それは、「…すべし」と命令するだけでなく、みんなに受けいれられて実行されるのだ。すべての自我のうちにあるカテゴリーが、そのまま現実となったのが永遠の掟であり、その現実のうちには世界がこめられている。目の前の掟がそのように文句なく受けいれられるとき、自己意識の掟への服従は、自分の納得できないようなわがまま勝手な指令を出す君主への服従とは、おのずとちがったものになる。掟は、自分の内なる絶対意識がそのままことばとなってあらわれた思想なのだから。意識が掟を信じる、といういいかたすら適切ではない。信じるというのは、自分とは異次元の存在に対面することなのだから。共同体を生きる自己意識は、その自己がすべての自己に通じるものであることによって、共同体と一体化している。[…]共同体を生きる意識は個としての存在を脱却し、共同体との交流を実現しているのであって、それを実現しているからこそ、共同体の秩序をそのまま自分の秩序として受けいれるのである。 [292頁]

わたしは自分の好きなように掟をきめ、また、なに一つ掟としないこともできるが、掟の吟味をはじめた時点ですでに共同体の秩序を外れている。正義を絶対的なものとして意識することによって、わたしは共同体の一員として生きているのであり、そのとき、共同体の秩序は自己意識の本質となっている。逆にいえば、そのとき自己意識は共同体の生きた現実であり、共同体の核心をなす意志なのである。 [294頁]


4.アレクサンドル・コジェーヴ『ヘーゲル読解入門』(国文社)

ヘーゲルの念頭に置く時間が、我々にとっては歴史的(かつ非生物的、非コスモス的な)時間としての時間であることがよく示されている。実際、この時間は未来が優位に立っていることによって性格づけられる。ヘーゲル以前の哲学が考察していた時間においては、運動が過去から現在を通り未来に向かっていた。それに反し、ヘーゲルの語る時間においては、運動が未来においてそれ自身を生み出し、過去を通り現在に向かっている。すなわち、未来→過去→現在(→未来)となっている。これこそは、本来人間的時間、すなわち歴史的時間に固有の構造である。 [202頁]

「時間は経験的に現存在する概念そのものである」という文は、時間が世界-内-人間及びその実在する歴史である、ということを意味することになる。だが、ヘーゲルはまた「精神は時間である」とも述べている。すなわち、人間は時間であるとも述べている。我々はこれが意味するものを今しがた見て来たばかりであった。それによれば、人間は他者の欲望に向かう欲望、すなわち承認を求める欲望であり、すなわちこの承認を求める欲望を充足せしめるために遂行される否定する行動、すなわち尊厳を求める血の闘争、すなわち主と奴との関係、すなわち労働であり、すなわち終局において普遍的で等質的な国家と、この国家において、そしてこの国家により実現される全人類を開示する絶対知とに至る歴史的発展である。要するに、人間が時間であると述べることは、ヘーゲルが『精神現象学』において人間に関して述べたことをすべて述べることにほかならない。[…]精神と時間とを同一化するこの一文は、ヘーゲルの全哲学を要約しているわけである。 [206頁]


5.ハンス=ティース・レーマン『ポストドラマ演劇』(同学社)

ドラマの核心は、『劇的な衝突』とヘーゲルが名づけた葛藤の中心にある人間主体にあった。この葛藤が、敵対者への間主体的な関係から本質的な自我主体を構成するのである。ドラマ演劇の主体が存在するのは、この葛藤の空間においてだけであるとも言える。その限りにおいて主体とは間主観性そのものであり、葛藤を通して構成されるライバルの主体である。そういう間主観性の時間は、葛藤を通して敵を同一化する単数の時間であるために、均一な時間とならざるを得ない。そもそも敵同士が出会うことのできるような時間が必要になる。 [236頁]


6.ルイ・アルチュセール『マルクスのために』(平凡社ライブラリー)

古典劇においては、すべてが単純なすがたをとることができた。すなわち、主役の時間性が唯一の時間性だったし、他のすべては主役に従属していた。主役の敵対者でさえも主役にあわせられていたし、敵対者が主役の敵対者であるためには、その必要があったのである。彼らは主役自身の時間、主役自身のリズムを生き、主役に依存し、その付属物にすぎなかった。敵対者はまさしく主役の敵対者だった。すなわち、争いにおいて敵対者は、自分自身が自己に属すると同様に主役に属していた。主役の複製、その反映、その対立物、その暗闇、その誘惑、主役自身に逆らう主役の無意識だった。じっさい、主役の運命こそは、ヘーゲルが記したように、敵の意識であると同じく自己の意識だった。その結果、争いの内容は主役の自己意識と同一だった。で、ごく自然に観客は、主役、すなわち主役自身の時間、主役自身の意識、――観客にしめされる唯一の時間や唯一の意識と「同一化」することによって、その戯曲を「生きている」ように思われた。ベルトラッチーの戯曲やブレヒトの大作においては、その構造の分裂という理由そのものによって、上述のような混乱は存在しえないのである。 [255-256頁]

2010年11月7日日曜日

政治・経済・生活(2)

1.ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』(紀伊國屋書店)

現代資本主義の基本問題はもはや「利潤の極大化」と「生産の合理化」との間の矛盾(企業主のレベルでの)ではなくて、潜在的には無限な生産力(テクノストラクチュアのレベルでの)と生産物を売りさばく必要との間の矛盾である。この段階に達したシステムにとっては、生産装置だけでなく消費需要を、価格だけでなくこの価格に応じて求められるだろう内容をコントロールすることが死活問題となる。[…]「自動車を売ることの方が作ることより困難になった時にはじめて、人間そのものが人間にとって科学の対象となった」というわけだ。 [84-85頁]

消費はひとつの社会的労働なのだ。消費者は(今日ではおそらく「生産」のレベルでと同様)このレベルにおいても、やはり労働者として必要とされ動員されている。[…]消費者は決して普遍的存在ではない。彼は政治的社会的存在であり、ひとつの生産力であって、そのような存在として根本的な歴史的問題を再び提起するのである。 [106-107頁]

消費はそれだけであらゆるイデオロギーに取ってかわることができ、長い目で見れば、未開社会のヒエラルキー的あるいは宗教的儀式がそうしたように、社会全体の統合をひきうけることができるのである。 [123頁]


2.東浩紀「一般意志2.0」(「本」2010年11月号)

政治の領域を、理性的なコミュニケーションの正統性/正当性のみで基礎付けることには限界がある。[…]いくら高邁な理念を掲げ、制度を開放的にしたとしても、だれもそこへの参加を欲望しないのであれば政治は形骸化する。実際、いまの政治の困難は(とくに日本では)、結局はこの「政治への欲望の欠如」に集約されるのではないだろうか。現代民主主義の最大の危機は、二大政党制の限界にあるのでもなければ官僚制度の肥大化にあるのでもなく、単純に政治が人々の欲望の対象でなくなったことに存在するのだ。 [20頁]

したがってぼくは、じつに理知主義的だった20世紀後半の社会思想のもろもろを前提としながらも、ふたたびルソーに戻り、公共性や正義、自由といった観念をめぐる概念装置に、もういちど情念=無意識(一般意志)の取得という課題を接合するべきだと提案したい。そしてそれは、繰り返しになるが、ルソーの時代やシュミットの時代と異なり、必ずしも独裁者やカリスマを必要としない。ナショナリズムや全体主義も必要としない。21世紀の現在においては、集合的無意識は、ネットワークのうえでおのずと可視化されるからである。 [同]

したがってぼくは、これからの政策審議は、専門化と政治家の会議であることを前提としながらも、原則としてすべてそのような「素人」たちの感想、いわば「一般市民の可視化された気分」に囲まれながら進むべきだと考える。熟議とデータベース、小さな公共と一般意志が補いあう社会という本論の理想は、具体的にはそのような制度設計によって可能となる。 [22頁]


3.

 生産の理論から消費の理論へ。経済(学)も政治(哲学)も。

 いかに政治を生産するか(二大政党制、官僚制…)ではなく、いかに政治を消費させるか。

 テレビに出ないでニコ生に出た小沢一郎には消費の理論があるわけだ。中間選挙でティーパーティーに敗れたオバマも、その「生産物を売りさばく」技術が稚拙であると指摘されている。

 いわゆる「熟議」は、「大事な議論をすればひとは声をあげる」=「いいものさえつくれば売れるはず」という生産の理論の枠内におさまっている。たぶんそれには限界がある。

 誰もが消費者でしかありえない社会なら、消費者であることを徹底させることで、逆に消費者のあり方が変わっていく、ということがありえると思う。消費文化と政治の関係は、理論においても実践においても、もっともっと本気で検討されていい。

2010年11月6日土曜日

クライスト(2)

「人形劇について」(Über das Marionettentheater, 1810)

1.概要

一人称の語り手が、「オペラ座の主席舞踊家C氏」と偶然公園で出会い、人形劇について交わした会話を記録したという形式のフィクション。C氏は、あやつり人形のほうが人間よりも優美だ、と言う。人間は自分を「飾ろうとする」ため、人形にかなわないのである。C氏は、義足で踊るイギリス人や、フェンシングのフェイントに決してひっかからない熊の話を例に挙げながら、人間が意識をもたないか(=人形)、もしくは無限の意識をもてば(=神)、ふたたび優美さはあらわれる、と言う。認識の木の実(知恵の実)をもう一度食べて無垢へと「落ち戻る」ことが「世界の歴史の最終章」なのである。

「クライストは期待を膨らませてベルリンに戻った。官吏に雇われ、自作は王立国民劇場で上演されると思っていた。どちらの希望も、ハルデンベルク首相の緊縮政策とイフラントの低レベルな演劇論の前に頓挫した。これがきっかけでクライストは、彼の考えによればプロイセンの内政と演劇文化の双方を規定している硬直的な統制経済を、自ら構想していた王立国民劇場改革の観点から、様々な批判の中で攻撃することになったのである。ハルデンベルクは検閲を強め、クライストは1810年11月末には国立劇場における演劇に関するいかなる出版も許されなくなったので、クライストに残された選択肢は、ジャーナリストとしての活動を完全に諦めるか、あるいは別の、遠まわしな形式で批判を試みるしかなかったのである。」(Kleist-Handbuch, s.152-153)


2.抜粋

どんな運動にも、と彼は言った、重心がありますから、姿形の内部にあるその重心を統治すれば十分なのであって、振り子に過ぎない四肢は、それ以上何もしなくても、自ら機械的に重心に従うのです。
―――――
しかし楽園は閂をかけられ、天使はわたしたちの背後にいます。わたしたちは世界をまわる旅をして、ひょっとしたらどこか後ろがまた開いてないか、見てみなければならないのです。
―――――
わたしは言った、人間のもつ自然な優美のなかに、なんという不秩序を意識が引き起こすことか、わたしもわかっているつもりです。
―――――
有機的なこの世界では、反省的思考が冥く弱くなればなるほど、優美がますます輝き、ますます支配的にあらわれるのです。[…]認識がいわば無限を通過したとき、優美はふたたび姿をあらわします。まったく意識をもたないか、あるいは無限の意識をもっているか、そのどちらかである人間の身体において、優美は最も純粋にあらわれるのです、つまり人形においてか、あるいは神において。

それでは、とわたしはやや心ここにあらずのまま言った、わたしたちはもう一度認識の木の実を食べて、無垢の状態に落ち戻らねばならないということでしょうか? その通りです、と彼は答えた、それが世界の歴史の最終章です。


3.メモ

・演劇論、認識論、政治哲学(統治論)、歴史哲学。

・「重心を統治する」ということ。

・肯定的な意味で「秩序」という語があらわれている。

・意識という問題。意識なき優美。意識なき世界史。ヘーゲルとの対照。

・Fall:落ちること/崩壊/堕罪/事件/事態/法的事件/(病の)症例/発作 
→ クライストにおいては、これらすべての意味が、同時に込められている。クライストの最重要概念。

・Zurückfall:堕罪のあと、もう一度堕ちることで楽園に戻る。
→ 「無限」を通過すると、もとの場所に戻ってくることができる。円環。しかし回帰ではない。差異と反復。

2010年11月5日金曜日

時間・歴史・演劇(2)

1.フリードリヒ・ヘルダーリン「『オイディプス』への注解」(『省察』論創社)

法則、計算、ならびに一つの感覚体系、すなわち、全的な人間が元素の影響のもとで成長する際の有り様、また、表象や感覚や理性的判断が、さまざまに継起しながら、しかし常に確実な規則に従って次々と生じてくる際の有り様は、悲劇的なものにおいては、純粋な連鎖というよりも、むしろバランス(平衡)である。

つまり、悲劇の移し換えは、本来空虚で、最も制約されないものなのである。

そのため、そうした移し換えが描き出されるリズム的な表象の連鎖のなかに、韻律において中間休止と呼ばれるもの、純粋な言葉、反リズム的な中断が不可欠となってくる。それは激流のような表象の交替に、その頂点でぶつかり、その結果、それ以後はもはや表象の交替ではなく、表象そのものが現れるのである。

これによって、計算の連鎖、およびリズムは分割され、分割された二つの部分が平衡をとりながら現れるように関係しあう。 [158-159頁]


2.マルティン・ハイデッガー「ヘルダーリンと詩の本質」(『選集Ⅲ』理想社)

ヘルダーリンは詩の本質を詩作している――但し無時間的に妥当する概念の意味に於てではない。詩のこの本質は特定の時間に帰属している。但し既にそこにあるものとしてのこの時間に単に適応するという意味に於てではない。そうではなしに、ヘルダーリンが詩の本質をあらたに建設するというとき、それによって彼は始めて新しき時間を規定するのである。それは過ぎ去れる神々と来るべき神との間の時間である。それはまことに乏しき時間である。何故ならそれは過ぎ去れる神々のもはや無いということと、来るべきものの未だ無いということとの二重の無と欠乏とのうちに立っているから。

ヘルダーリンの建設する詩の本質こそ最高度に歴史的である。何故ならそれは歴史的な時間を先取するから。 [68-69頁]


3.ペーター・ソンディ『ヘルダーリン研究』(法政大学出版局)

ベンヤミンの言によれば、「この詩[「臆心」]の中心のまわりには、人間、天上の者、王侯が、いわばかれらの古い秩序から転がり落ちて、たがいに向き合って列なっている」。文を統語論的に統一するという伝統的位階秩序も同様に「硬い結合」により粉砕され、個別な不可分なものとしての個々の語には、その重みが、その自由が確保される。アドルノはベンヤミンの列なりReiheの考えを受け継ぎ、ヘルダーリンの後期抒情詩の構造に関する洞察をパラタクシス(並列)の概念に導いた。

「ことばの物語る契機はみずから思想への従属を逃れる。綜合は叙述が叙事的になればなるほど、完全には支配できない出来事に臨んでよりゆるやかなものになる。ピンダロスの隠喩がその指示物に対しもっている固有の生[…]それにもっとも近いのは、一群の持続的な流れとなったもろもろの形象であろう。詩において物語へと傾いてゆくものは、ときとともにこの流れに身を任せ、前ロゴス的媒体のほうへ下ってゆこうとする。このように語りが滑落してゆくことに、ロゴスは語りを客体化するために抗してきた。このことを詩人ヘルダーリンの後期の自己省察は思い起こさせる。」 [150-151頁]

2010年11月4日木曜日

「チリの地震」(9)

ハインリヒ・フォン・クライストによる物語「チリの地震」(9)
(1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)

 50歩も歩かないうちに、これまで激しくひそかにドニャ・エルヴィーレと話していたドニャ・エリーザベトが、ドン・フェルナンド! と叫ぶのが聞こえ、落ち着かない足取りで急いで列を追いかけてくるのが見えた。ドン・フェルナンドは立ち止まり、振り返った。彼女が近づいてくるのを待ち、ホセファから身を離さないまま、訊ねた、というのも彼女が、まるで彼のほうから近づいてくるのを待っているかのように、いくらか離れて立ち止まったのである。どうした? ドニャ・エリーザベトはそう言われて彼に近づいた、抵抗感があるようだった、そして彼に、しかしホセファには聞こえないように、二言三言そっと耳打ちした。それで? とドン・フェルナンドは訊ねた、そこから生じるかもしれない不幸というのは? ドニャ・エリーザベトはその先を、取り乱した顔の彼の耳にささやいた。ドン・フェルナンドの顔に怒りの赤が昇った。彼は答えた、もういい! ドニャ・エルヴィーレには落ち着いていてほしいと伝えてくれ。そして彼は、彼の婦人をそのまま先へと導いた。


 彼らがドミニコ会の教会に着いたときには、すでにオルガンが壮麗な音楽を聴かせ、計り知れないほどの人の群れが建物の中で波打っていた。この雑踏は教会の入口前の広場まで伸びていた、壁沿いに高く掛けられた絵画の額縁には少年たちが腰かけ、期待に満ちた目をしながら手には小銭を握っていた。すべてのシャンデリアから光が注ぎ、柱は夕暮れのはじまりとともに謎めいた影を投げ、一番奥の巨大なステンドグラスの薔薇窓はそれを照らす夕陽そのもののように赤く燃え、そしてオルガンが沈黙すると、静寂が集会を支配した、誰一人、一つの音さえ胸にもたないかのようだった。かつていかなるキリスト教の大聖堂であっても、今日のサンチャゴのドミニコ会大聖堂ほど情熱の炎が天に向かって上がったことはなかった。そしてどんな人間の胸よりも暖かい火をそこに加えていたのは、ヘロニモとホセファの胸だった! 


 聖祭は説教で始まった、最長老の司教座聖堂参事会員の一人が礼装をまとい、説教台から執り行った。彼は、ゆったりと流れる上着に包まれた震える両手を高く天に上げながら、すぐに称讃、讃美、感謝を捧げ始めた、世界の中でこのように崩壊し瓦礫と化した部分でも、人間は神に向かってどもりながら話しかけることができるのです。彼は述べた、全能の者の合図一つで何が起こったことでしょう。最後の審判もここまで恐ろしくはないでしょう。しかし彼が、昨日の地震を、にもかかわらず、大聖堂が受けた一つの亀裂を指差しながら、最後の審判の前触れに過ぎなかったと名指したとき、集会全体に戦慄が走った。続けて彼は、聖職者の雄弁術の流れに乗って、この町の風紀の乱れに触れ、ソドムとゴモラでさえ目にしなかった残虐行為の数々を非難し、ひとえに神の無限の寛容のおかげで地震によっても町は完全には壊滅しなかったのですと述べた。


 しかしこの説教によってすでに完全に引き裂かれていたわたしたちの不幸な二人の心が、まるでナイフに貫かれてしまったのは、司教座聖堂参事会員がこの機会を捉えて、カルメル派修道院の庭で犯された瀆神行為に詳細に触れたときだった。彼はこの瀆神行為が現世で受けた寛大な措置を神をなみするものと名指し、呪いの言葉で満たして話をわきにそらしながら、その行為者たちを文字通り名指し、その魂を地獄の悪魔たちに引き渡してしまったのである!

2010年11月3日水曜日

政治・経済・生活(1)

1.マイケル・サンデル『これからの正義の話をしよう』(早川書房)

公正な社会を達成するためには、善良な生活の意味をわれわれがともに考え、避けられない不一致を受け入れられる公共の文化をつくりださなくてはならない。(335頁)

われわれは、同胞が公共生活に持ち込む道徳的・宗教的信念を避けるのではなく、もっと直接的にそれらに注意を向けるべきだ。(344頁)

道徳に関与する政治は、回避する政治よりも希望に満ちた理想であるだけではない。公正な社会の実現をより確実にする基盤でもあるのだ。(345頁)


2.ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』(紀伊國屋書店)

マス・コミュニケーションの描く軌跡でありその眩惑的な感傷癖の源泉でもあるこの核心とは、まさしく何も起らない場所なのである。
[…]
われわれは記号に保護されて、現実を否定しつつ暮らしている。これこそまさに奇蹟的な安全というものだ。世界についてのさまざまなイメージを目にする時、束の間の現実への侵入とその場に居合わせないですむという深い喜びとを誰が区別したりするだろうか。イメージ、記号、メッセージ、われわれが消費するこれらのすべては、現実世界との距離によって封印されたわれわれの平穏であり、この平穏は現実の暴力的な暗示によって、危険にさらされるどころかあやされているほどだ。(26頁)

同時に、消費の場所についても定義することができる。それは日常生活である。日常生活とは、単に日常的な出来事や行為の総体、月並みと反復の次元のことではなくて、解釈のシステムのことである。また、日常性とは、超越的で自立した(政治や社会や文化の)抽象的領域と「私生活」の内在的で閉ざされた抽象的領域への、全体的な実践の分裂のことである。(27頁)


3.

 共同体的自己決定、討議的民主主義、熟議。その理念は否定しないが、現実的にどのようなインフラとどのような手続きで実現できるのか。いかにして日常生活に組み入れうるか。手段・規模・質、どの面においても生活の時間と溶け合うことが重要だろう。この点において、メディアの革新だけでなく、消費文化を新たな政治参加の可能性として肯定的に評価する東浩紀の議論(朝日新聞「論壇時評」)は、一つの新しい理論の出発点となりうるように思う。


4.ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造』(紀伊國屋書店)

[消費の社会的論理は、]財とサーヴィスの使用価値の個人的取得の論理[…]とはまったく別のものであり、欲求充足の論理でもない。それは社会的シニフィアンの生産および操作の論理である。この視点に立つと、消費過程は次の二つの根本的側面において分析可能となる。すなわち、(一)消費活動がそのなかに組みこまれ、そのなかで意味を与えられることになるようなコードに基づいた意味づけとコミュニケーションの過程としての側面。この場合消費は交換のシステムであって、言語活動と同じである。[…](二)分類と社会的差異化の過程としての側面。この場合、記号としてのモノはコードにおける意味上の差異としてだけでなく、ヒエラルキーのなかの地位上の価値として秩序づけられる。(67頁)

人びとはけっしてモノ自体を(その使用価値において)消費することはない。――理想的な準拠としてとらえられた自己の集団への所属を示すために、あるいはより高い地位の集団をめざして自己の集団から抜け出すために、人びとは自分を他者と区別する記号として(もっとも広い意味での)モノを常に操作している。(68頁)

2010年11月2日火曜日

クライスト(1)

短編小説「拾い子」(Der Findling, 1811)

1.あらすじ

商人ピアキが商用のため幼い息子パオロを連れて旅行に出ると、ペストの流行に出くわす。そこで身寄りのない少年ニコロと出会うが、彼はペストに感染している。結局ニコロは快復し、逆に息子パオロがペストに感染して死ぬ。ピアキはニコロを連れ帰り、養子にする。ニコロは愛情を受けて育つが、悪人になる。ニコロが原因でピアキは妻エルヴィーレを亡くし、家財を合法的に奪われる。ピアキはニコロを殺す。ピアキは死刑を言い渡される。


2.抜粋

この二重の苦痛に刺激され、ピアキは、例の裁定書を鞄に入れたまま家に入り、そして怒りにまかせて力強く、生まれつき体の弱いニコロを投げ倒すと、脳味噌を壁で押し潰した。家の者たちが気づいた時には行為はすでに生じたあとで、彼らが発見したとき、ピアキはニコロを膝のあいだにはさみ、その口に例の裁定書を詰め込んでいた。
[…]
教会領[教会国家]をひとつの法が治めていた。すなわち、犯罪者であっても、罪の許しを受けない限り死刑にすることはできないのである。ピアキは断罪を受けると、かたくなに許しを受けることを拒絶した。[…]「聖餐を受けるつもりはないのか?」―ない、とピアキは答えた。「なぜだ?」―わたしは天国に行こうとは思わない。わたしは地獄のいちばん底まで降りて行きたい。わたしはそこで天国にはいないだろうニコロをまた見つけ出し、この世では十分できなかった復讐を再開するのだ![…]彼は憤激した身振りで両手を高く上げ、彼を地獄へ行かせようとしない非人間的な法に呪いの言葉を浴びせた。彼は自分を連れて行ってくれるようあらゆる悪魔の群れに呼び掛け、わたしの唯一の願いは処刑され地獄に落とされることだと宣言し、ニコロを地獄でまた捕まえるためなら最も位が高く最も善良な司祭でも絞め殺してやると断言した。―ローマ教皇にこのことが伝えられると、教皇は許しの儀式なしで処刑するよう命じた。一人の司祭も付き添うことなく、彼は絞首刑にされた、まったくの静寂の中で、ポポロ広場で。


3.メモ

・この作品もクライストのProzessspiel(裁判劇/プロセス劇)の一つである。

・法/権利/正義Rechtの主題。「誰が何を決定するか/決定できるか」という問題。法と自己決定が対立するケースFall。自己決定はときに共同体が下し(「チリの地震」)、ときに個人が下す(「拾い子」「ミヒャエル・コールハース」)。正義Gerechtigkeitの問題。

・他の作品と共通する要素:分身/鏡、イメージ、見せかけ、アナグラム、非血縁的家族(父-母-子)、養子縁組、宗教、復習、私仇、揺れ、運動、電光、アーチ、偶然

2010年11月1日月曜日

時間・歴史・演劇(1)

1.アリストテレース『詩学』(岩波文庫)

というのも、美は大きさと秩序にあるからだ。[…]筋の場合にも、それは一定の長さをもち、しかもその長さは容易に全体を記憶することができるものでなければならない。 (40頁)

叙事詩による再現は、悲劇にくらべて統一性が少ない。 (108頁)


2.ハンス=ティース・レーマン『ポストドラマ演劇』(同学社)

アリストテレスの『詩学』は、悲劇の美と秩序を論理学から類推して構想している。[…]アリストテレスの『詩学』からみると、ドラマとは、人間存在の錯綜的なカオスと充溢を論理的(すなわちドラマ的)な秩序に組み入れる構造なのである。この内的秩序は有名な三一致の法則に支えられ、悲劇という人工的な意味の産物を外部の現実に対して厳重に閉ざしてしまう。[…]つまり筋行動の「全体」は理論的なフィクションであり、統一性の論理を基礎づけて、そこにおいて美は本質的に制御可能な時間の経過とみなされる。ドラマとは制御されて見通し可能になった時間の流れなのだ。 (51頁)