9日の分の演劇時評。遅れてしまった。
*「法的」と「政治的」
かつて外務省受験のために国際法を勉強した際、「国際コントロール」という制度を知り、興味深かった。
「国際コントロール」というのは、簡単にいえば多数の国家による「寄合」だ。この寄合は、いろいろなことを話し合い、「あれは問題だ」「これはどうにかしないといけない」と議論する。しかしだからといって、誰か(=特定の加盟国)に対して何かを強制的にやらせる権限はもたない。ただ「あの件は問題だよね」「あの人(国)は問題だよね」と議論する。
ところが、いくら強制力はもたないといっても、国際社会という舞台でそうおおっぴらに話題になれば、問題視された国は対処せざるをえない。国際的な信用、国家間の関係に影響を受けるからだ。
このように、厳密な意味での強制力はないにもかかわらず、相手が動かざるをえない状況にする仕組み、相互利害の均衡を生み出すシステムが国際社会では模索されている。
法学、政治学では「法的」と「政治的」の区別が重要だ。書かれた条文に従って強制的にとらされる責任が「法的責任」。条文に根拠をもつわけではないが、社会の状況に照らしてとらざるをえない責任が「政治的責任」。さきほどの「国際コントロール」の例では、「法的強制力」はないが「政治的圧力」はある、ということになる。
日本の現状は、法的責任が悪用される(例えば検察の横暴)だけでなく、政治的責任も悪用されている(「政治とカネ」)。しかし政治的責任、政治的圧力は、本来であれば法がまだ整備されていない問題意識を「力」に変えるものであり、主権者の意思が社会を変革するためのツールであるはずだ。その力、その意思を、マスメディアというコンバーターを介さずに組織化することが必要だ。今後のソーシャルメディアの発達が「政治的な力」を組織するのだろうか。いずれにしても「規模」が必要だ。
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