木庭顕『政治の成立』(東京大学出版会、1997年)
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極めて常識的に考えて、暴力ないし特定集団の力に威嚇されて人々が動くとき、特定の者たちの権威に従って人々が動くとき、単に惰性と習慣で人々が動くとき、特定の利益と財力に引かれて人々が動くとき、単にあらかじめ決められた規則に従って人々が動くだけであるとき、そこには政治は存在しないであろう。極めて不正確な言い方にはなるが、例えば、人々が、議論をし、その優劣を評価する、そのことによって動く、自発的に動く、場合にだけ政治が存在する、と言うことができる。[3頁]
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結局Homerosは、軍事化を鍵としてパラデイクマ確定手続の幾つかの構成法を対置して、元来のパラデイクマ伝達メカニズムに伴う複雑な関係を軍事化によって払拭しつつその軍事化そのものとそれに伴う帰結からいかに離れるか、ということを模索している、というように解釈しうる。そうした複雑なディアレクティカの結果においてしか政治システムに伴うパラデイクマ確定手続は成立せず、単に言語が交換されればよいというのでは全くない、ということがここに示唆されている、と言うことができる。[206頁]
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政治システムはHesiodosが用意したパラデイクマによる対抗を受けなければ、Homerosが用意したパラデイクマだけでは、成り立たないのである。政治システムの存立のためには政治システム自体に批判的に関わるというパラデイクマによる補完が必要である。政治はその本来の性質上すべてを呑み込まない。呑み込むと崩壊する。距離をとり、残す。だとすれば残る方の存在を常に前提する。その制度的な表現が都市と領域の区分と対抗関係である。[235頁]
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もし政治が成立したのならば、そこで生息するパラデイクマの生態は特殊なものになる。つまりあらかじめ決定された権威あるパラデイクマ、事例や規則、を持たずに、つまりそうしたものの存在を否定して、自由に判断して決定する、そしてその決定の内容が重要であって文言は二義的である、ということになる。[311頁]
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神殿の形態は、第一に、神々の儀礼的なテリトリー占拠を厳密に区分して他の構造物との枝分節関係を作らせず、第二に、その空間へすべての人が完全に自由にアクセスしうると同時に、どこか特定の空間を特権的に指示しないように、それと特権的な関係をつくり出さないように、第三に、その内部に決して人を抱え込むことができないように、設計される。[336頁]
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〈分節〉は分節単位を一義的にするから、社会構造の破壊のメルクマールも一義的になる。唯一の次元に並ぶ結節関係の破壊、他の〈分節〉単位の破壊・吸収、及び都市中心に集中する〈分節〉のための装置の破壊、これだけがそれにあたる。それだけが「犯罪」とされる。[366頁]
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韻律は、音のレベルでいったん分節を一切解消して明確に再形成する、その快感をもたらす。印象の鮮明さは確かにそれを人々の記憶により深く刻み込むであろう。しかし人々は記憶のために韻律を好むのではない。[397頁]
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書くということを政治システムに矛盾しない仕方で利用するためには、まず第一に、音によって構成される言語の本来の機能に忠実な二重分節を書かれた記号に与えねばならない。このためには表音文字のsyllabismeをまず克服しなければならない。次に、物として直接効果を持つということを遮断するために、いったん音声に戻してでなければ使えない、即ち黙読によって記号が作動するということが許されない、ということにしなければならない。
以上のような歯止めがあれば確かに書くということを政治システムで使うことも可能であるように思われる。しかしながら、他方それに一体どのようなメリットがあるのか? パラデイクマの確定の一義性や精度という観点からすると、一見したところと違って、必ずしも書くことが有益とは限らない。全員が議論して合意が成立した場合、その理由や議論の経過、対抗ヴァージョンの存在、等々の全体が共有されており、決定されたパラデイクマのみが書かれた書面は不正確でかえって不満を残す。もっとも、確かに、全員に対して一義的にパラデイクマを確定するという政治的決定の性質の中には、様々なパラデイクマの連関をいったん一切絶ち切って何かを確定する、という契機が存在する。このためには言語の儀礼化が適合的であり、書くことはまさに儀礼でありうる。しかしそのことの反面、このように確定したパラデイクマにどうしても特権を付与することになる。聖典とその権威的解釈、書面主義、証書主義、等々を排除する思考にはやはり馴染まない。ならば、せっかく成立した政治的パラデイクマを保存し安定化させるために使用できないか? 政治的パラデイクマ自身といえどもそれを聖化してしまえば政治を損なう、というのが初期のギリシャ諸都市の基本的な姿勢であったように思われる。SpartaのRhetra等若干の例外を除いて「国制」を言語で確定するという思考は古典期まで例外的にしか存在せず、このために初期の政治システムの記述は現在の歴史家にとって容易ではない。[…]
書くことを利用する唯一の動機は、政治システムの直接の成員でない者達に対して確定されたパラデイクマを伝える、ということであったように思われる。即ち確定されたパラデイクマを伝える、ということであったように思われる。[398−399頁]
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書くことを利用する、ことにした途端、しかしながらそれがもたらす危険に対処することが要請されるようになる。[…]
J. Svenbroによれば、物体に刻印された文が一人称を取る、即ち「私を作ったのは某である」、「私は某の墓である」、と表記されたのは、かつて考えられていたように初期のギリシャ人がanimismを払拭しえないためではなく、書き手が読み(上げ)手を服従させるという連関を切断するためである。[…]
Rr. Ruzéによれば、書くということが政治システムによって利用され始めるや否や、重大な問題が発生する。即ち実際に書くことに携わる人間をどのように扱うかということである。その存在を極小化しなければならないが、かといって政治システムの外の「別のカテゴリー」の人間に委ねれば、それは危険な存在になる。かくして、書くことに携わる人間をも政治システム固有の官職に就け、そして兼任と再任を禁止する、そのようにして官房や書記局の発生を防ぐ、ということが盛んに行われた。あるいは、どうしても特定の人々に書くことを委ねる場合、それを(他の専門技芸者集団の如く)一つのgenosに組織し、このことによっていわばその存在をトータルに儀礼化してしまう。[401−402頁]
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政治は、恐らくその性質上、常に構造的な問題を抱えつづけることになると思われる。というのも、本来矛盾することを複雑に組み合わせることによって成り立つものであるからである。このことをわれわれの最初の経験自体について言うことができる。
少なくとも二つの点でそれははじめから重大な弱点を内包していた。第一に、中心的な政治システムと領域の第二次的な政治システムとの関係が十分に定まらなかった。こうした構造は、われわれの最初の経験が偶然に持ったものではなく、およそ政治が抱えつづけねばならない問題(政治と市民社会の関係の問題)である。そして、まさにこの問題の困難さがかえって、古典期のギリシャにおいてデモクラシーを、そしてローマにおいて法を、その問題に対する解答として、生み出すことになる。それでもさらにそれはそれで一層困難な問題をその先に生み出したのである(但し、デモクラシー、法、経済・市場・信用システムの自立といった問題群は全て政治の成立を前提とし、従ってこれなしには解決不能である)。第二に、いずれにしても政治システムは領域の上に未分節集団を残す。第一の問題はこれを縮減することにも関わるが、最終的にそれはやはり残らざるをえない。これが徐々に政治を侵食していくのではないか?
事実、われわれの最初の経験はわれわれの最初の失敗であるという栄誉を担う。主として以上の二つの問題によって政治は崩壊していく。[404−405頁]
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