レーマンの『ポストドラマ演劇』においても、フィッシャー=リヒテの『演劇理論事典』(「コロス」の項の執筆はウルリケ・ハス)においても、近年の演劇でコロスを革新した演出家として、アイナー・シュレーフの名が挙げられている。曰く、
近代のドラマが古代のコロスと縁を切ったのは、集団と個人との相互関係を忘れようとしたからだ、とシュレーフはいう。市民的な個の誕生は、市民としての主体の成立を最大限に可能にするために、集合的現実性に結ばれていたへその緒を切り離した。ゆえに新しい演劇形式は、「コロス/個人軸」に関する基本モデルがなお維持されているような残余とその遅延された形姿にこそ、結びついているのだ。 [前掲書、174頁]
集団で麻薬を摂取することにより、共同体が創設される、もしくは更新される。コロスの組織原理としての麻薬は、したがって、関係性の構築と組織において、血縁関係の代替となる原理なのである。 [Metzler Lexikon Theatertheorie, S. 51]
シュレーフは近代的な個人と集団の関係性をコロス演劇によって問い直した。具体的には、「コロス的なもの」が含まれていると彼が解釈した戯曲を、もともとの登場人物の指示とは関係なく、集団の合唱を取り入れて演出したのである。『母たち』や『スポーツ劇』の演出が特に知られている。
シュレーフが行ったことは、「近代的な個人と集団の関係性」を揺るがすほど強烈な舞台を、舞台上につくることだった。演劇を「知覚の政治学」と捉えるレーマンはこれを高く評価する。しかしそこからさらにもう一歩歩みを進めた演劇実践をわたしたちはすでに目にしているのではなかろうか。それは直接「観客の組織」に向かっている演劇である。
前回書いたように、古代ギリシャのコロスは一般市民であり、見物席の観客とコロスを演じる者たちのあいだには実は明確な境界線がなかった。言い方を変えれば、純粋な観客などというものは存在しなかった。彼らは常にコロス/観客であり観客/コロスだった。この視点から、現代演劇の一部を「観客をコロスとして組織する演劇」として考察する可能性が生まれる。次回はそれについて論じたい。
[続く]
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