2011年5月28日土曜日

村上春樹(4)

 村上春樹の「物語」とは、『ねじまき鳥クロニクル』に描かれているように「井戸」に潜ることだが、それだけではない。「物語」とはある種の「装置」を生み出すこと、あるいは「装置」になることである。「メディウム」になること、と考えてもよい。

 村上春樹の物語の人物たちは、自分のなかに深く潜ることによって、他人を通過させるための装置にもなる。自分に必要なことが、自分だけでなく、誰かの役に立つ。ただし、誰かを害することもある。いずれにせよつまり、自分のなかに潜ることが、逆説的にひとと結びつくことへとつながる。

 一般に、「自分の中へと沈潜すること」は、「ひととつながること」と対立するように考えられるかもしれないが、村上春樹の物語は、これらが矛盾なく両立すること、さらに言えば、両立するときにしか各々も成立していないことを示し続けている。

 「個人か共同体か」、「抵抗か権力か」といった、不毛な歴史を積み上げる様々な「あれかこれか」を解体し、個人のモデルと共同体のモデルが両立する可能性を描いている点で、村上春樹の実践は非常に政治的である。

 今回の記事に関連する内容は、以前にも書いた。「配電盤としての悪」を参照されたい。

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