2011年5月19日木曜日

5/18 変化と演劇

 昨日の「演劇的ニュース」。

1. 日本のこれから

 1)堀江貴文×東浩紀「日本に止まること、日本を離れること」

 2)堀江貴文×池田信夫「結局、世の中を変えるのは技術革新しかない」

 3)宮台真司「「どう生きるのか」という本当の問いに向き合うとき」


 上記の記事に共通するのは、「日本は変化を望まない社会である」という認識だ。「出る杭は打たれる」、「今さらやめられない」、「天皇制が続く事を誇りに思ってみたり、とにかく長続きする会社が一番良い会社だと思い込んでいる」…。変化を望まない社会に変化をもたらそうとするとき、いくつかの選択肢が考えられるなかで、これらのインタビュー・文章の著者たちは、各自がそれぞれ独自の路線を選択している。

 変化には、どうのような可能性があるだろうか。演劇は、変化のためのメディアであったことは歴史上少ないと思う。しかし「更新」のためのメディアであり、「想起」のメディアであったことは間違いない。急激な変化ではなく「更新」、新しいものの導入だけでなくかつて存在したものの「想起」(しかし懐古趣味的でないそれ)。そうした機能によって、演劇は世の中に変化をもたらすことができるはずだ。それはもちろん劇場の中で行われる必要もないし、演劇として認識される必要もない。重要なのは「演劇による変化」ではなく、「変化の演劇的可能性」である。「変化の演劇的形態」である。

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