昨日の「演劇的ニュース」。
1. ドイツ人原子力研究者・技術者を中国が自国に誘致
Spiegel:Energiehunger der Volksrepublik: China buhlt um deutsche Atom-Fachkräfte
独政府の脱原発路線で行き場をなくすドイツ人原子力研究者・技術者を中国が自国に誘致している。中国は現在13基の原子炉を所有し、さらに28基を建設中である。
原発の「善悪」を議論することは、現在の日本の「わたしたち」の輪郭を構想する上で不可欠だ。加えて、電力事業の「経済性」を現実的に検討しなおすことも避けられない。いずれにしても、「日本はどうなる」「日本をどうする」を考えるとき、何らかの新たな決定が下されれば、古いものには立ち去ってもらうしかない。しかしながら、そこで切り捨てられる部分をいかにして忘れず、いかにして付き合い続けるか、ある意味では「用済み」になったひとびとやものごとをどのように最期まで看取るか、ということもまた、非常に重要ではなかろうか。
ものごとが変化し、流動化するとき、誰か・何かが突然脚光を浴びる一方で、必ず排除されるひとやものがあらわれる。しかし排除されるひとやものも、その瞬間に消滅するわけではない。彼ら・それらはどこかに行き場を見つけなければならない。そのことをどれだけ具体的、現実的に思考できるか。善が達成されるとき悪は消滅する、というような単純な世界ではないのだ。
恣意的な流動化の帰結を想像できなかった一つの例は、先日殺害されたオサマ・ビンラディンだろう。わたしたちは、排除されたもの、「悪」とみなされたものの「それから」をケアしなければならないのだ。いかにしてケアし、あるいは別のかたちで社会に組み込むかについて、今度こそ歴史に学び、実践を深めなければならない。
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