2011年5月31日火曜日

5/31 プロセスの質

 本日の「演劇的ニュース」。

1. 「布川事件」で無罪判決

 1)ビデオニュース:刑事司法の欠陥を全てさらけ出した布川事件
 2)北海道新聞:布川事件無罪 証拠の全面開示を急げ

 今日のニュースではないが、今月の締めとしてこれを。

 わたしは今後の日本のキーワードの一つは「プロセス」だと思う。「正解・不正解」という結果だけを追い求めるのではなく、どのようなプロセスを組織できるかがポイントになる。政治も、メディアも、文化も、学問も、この点では同じだと考える。

 布川事件の際、マスコミは杉山卓男さんと桜井昌司さんを逮捕の時点から完全に犯人扱いした。しかし今回は検察によって犠牲になった無実の一般人として悲劇の主人公扱いをしている。そこには時間軸が欠けている。かつて犯人扱いしたことへの謝罪や反省は微塵もなく(北海道新聞は例外)、そのときどきの「正解」を提出し続けるだけだ。また、プロセスを認識できずその都度の結果に反応している限り、主権者たるはずの国民はたんなる傍観者にすぎない。プロセスを組織できてこそ、結果に対する責任を意識できる。

 今月は「プロセス」や「時間」という切り口から政治を考えることが多かった。

1)政治・プロセス
2)政治と時間
3)政治という時間
4)時間を与える
5)結果からプロセスへ
6)決定・責任・時間

 ところで、「プロセス」に関して一つ問題なのは、これまでの日本にプロセスがなかったわけではない、ということだ。布川事件でも、違法なプロセスの結果として冤罪が生じたのではなく、「合法」なプロセスが冤罪を生んだのである。行政も、司法も、形式的なプロセスは存在する。しかし実質的に欠陥がある。したがってプロセスの「質」が問題にされなければならない。

 しかしプロセスの「質」を最終的に根拠づけるような規範が日本社会に存在するだろうか。わたしは理念としては存在しないと思う。むしろ「利害」をテコにプロセスの「質」を変化させるべきではないか。プロセスが変わらなければ不利益をこうむる、危険である、利益が少ない、そういったかたちでしか日本は変わらないような気がする。日本の「再帰的近代」は、ある理念のもとにまとまった社会としてではなく、より一層利害に敏感な社会として実現されるのではないか。少なくとも、わたしには利害以外にこの国で通用しそうな合理的規範が、何一つ思い浮かばない。

0 件のコメント:

コメントを投稿