2011年5月18日水曜日

5/16 利害としての責任

 16日(月)の「演劇的ニュース」。

1. 福島第一原発事故検証

 橋本努氏による以下の3つの文章を読んだ。

1)東京電力福島第一原発の何が問題だったのか ―― その行政手続きを考える

2)原発に責任、持てますか? トップをめぐる「政治」と「科学」

3)東京電力福島第一原発の何が問題だったのか 検証その2

 1と3には最後に要約がまとめられているので、それぞれ以下に引用する。

(1) 国は、安全政策の主導権をとっていない。事故が起きても、それを教訓に生かすことができない。
(2) 原発のある地域の地元経済は、自立できない。30-40年単位で考えると、また新たに原発をつくらなければ、やっていけなくなる。
(3) 国の役人には、顔がない。後で非難されても、人事異動を通じて、答責性を免れることができる。
(4) 内部告発をうまく生かすことができれば、原発の安全性は改善され、県は原発の稼動と停止を制御することができる。
(5) 使用済み核燃料の処分方法については、だれも実効的な案をもっていないにもかかわらず、政府は新たな原子力政策の指針を立てている。
(6) 原発の耐震指針改定をめぐる立法手続きは、十分に機能しなかった。

東京電力福島第一原発は、
(1)1978年に臨界事故を起こしていた。
(2)大丈夫とされた震度4にも耐えられなかった。
(3)別の地震では、使用済み核燃料プールの水が漏れた。
(4)コストを気にして、多くの損傷を隠してきた。
(5)国も偽装に関与していた。
(6)下請け業者に偽装工作させていた。
(7)チェック機能が長期にわたってマヒしていた。
(8)内部告発によってはじめて、放射性物質漏れが発覚した。
(9)コンクリートの強度は弱められていた疑いがある。
(10)データの改ざんは、2002年以降も繰り返され、企業風土の問題となっていた。
また保安院は、
(11)行政不服審査に対して十分な対応をせず、
(12)40年をこえる原子炉の稼動を認めていた。


 ほとんど日本の「無責任の体制」は変えようもないものに思えてくる。少なくとも、行動原理が「責任」や「倫理」ではなく「利害」であることがよくわかる。

 そうであるならば、もはや「責任」を履行するように制度やチェック体制を整えることよりも、「責任」を細かい「利害」として達成できるような仕組みに組み替えることを目指すべきではないだろうか。

 たとえば、橋本氏の論文2を読むと、福島県と地元だけは原発問題に関して正常な切実さを示していたことがよくわかる。当然だろう。健康被害、経済的被害、避難や移住といったさまざまなコストを抱えている当事者なのだから。このように、ある問題に対してできるだけ「近い」立場にある者たちやコミュニティに「利害としての責任」を分散していくのが、今後考えられる唯一の可能性だと思う。少なくともわたしは社会の仕組みや単位を変えることなく、ただ各方面に「更生せよ」と叫んだところでどうにもならないと考える。

 この「利害としての責任」問題に関してもっとも厄介なのは、言うまでもなく官僚である。この点に関して、橋本氏の論文1は非常に示唆に富む。

最大の問題は、ウルリッヒ・ベックなどのいう「サブ政治」の性質にあるだろう。「サブ政治」とは、メインの政治である「議会制民主主義」を経ないで、もっぱら技術官僚たちの判断によって国策が決められるような意思決定のあり方である。

官僚は、本来であれば、政治のための下僕である。政治家によって立案された政策目標を承って、これを遂行しなければならない。ところが「サブ政治」においては、技術的に高度な知識をもったエリートたちが、非民主的な仕方で政治を行い、重大な政策を導く。たとえば、原子力エネルギーの開発は、それがいったん国策とされれば、民主的な議論を経ずに、技術官僚の手によって進められてしまう。そこにはいわば、国家独占資本主義体制が形成され、民主的な制御が利かなくなってしまう。

すると、どうなるか。サブ政治は、うまくいくかもしれない。技術官僚(電力会社、原子力安全委員会、保安院などの担い手たち)が、科学的にも政治的にも有能であれば、うまく機能するかもしれない。だがわたしたちは、科学と政治という、このふたつの資質に恵まれた技術官僚を、つねに登用しつづけることができるのだろうか。制度的に問われるべきは、この問題である。

[…]

ウェーバーによれば、学者(科学者)と政治家は、まったく異なる資質を必要としている。学者(科学者)は、知的に誠実でなければならない。都合の悪い真実から、眼をそむけてはならない。これに対して政治家は、道徳的に悪い手段を用いてでも、事柄(政策目標)に対して献身しなければならない。人を欺いてでも、善き結果を求め、そして実際に生じた帰結に責任をもたなければならない。

ところが、どうであろう。「サブ政治」においては、これらふたつの資質が、同時に求められている。技術官僚は、一方では学問(科学)の進歩を担いつつ、他方では国策のための政治を担わなければならない。いったいわたしたちは、このふたつの倫理を、一握りの技術官僚に求めることができるのだろうか。

 しかも、技術官僚は、「責任」から逃れられるような仕組みのなかで動くのである。わたしは、中央政府の官僚は、中央政府にとって切実な、中央政府に「近い」問題だけを担当するようになるべきだと考える。

 直接の利害関係者ではない登場人物が事態に対して決定的な影響を与えるというのは、古典的な演劇の概念では理会が難しい。こうした事態を「ポストドラマ演劇」と呼んでもいいのかもしれない。

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