2011年5月2日月曜日

5/2 「声」を増やす

 以下、「くそ勉強」ブログの転載。最近考えていたことの一つ。

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問題24 「声」を増やす

 そろそろ誰でも書きやすい「問題」を設定してこのブログを盛り上げたいところですが、やはりちょっと違った角度から。

 例のごとく地震と津波と原発ですが、この2ヶ月のあいだにわたしが実感したことのひとつは、「日本ではほとんど誰も正面きった質問をしない」ということでした。どういうことかというと、つまり突然「ドイツ語翻訳者として今回の原発事故をどう思うか」とか、「画家として津波をどう考えるか」とか、あるいは「映画保存技師として一連の出来事をどう見ているか」とか、誰も聞かないわけです。聞いてこないわけです。正面から立場を問い、大きなことを語るよう求める動きは、とても少なかったし、今も少ないと思います。

 ところが、逆方向は溢れている。逆方向というのは、「アーティストとしてできることをやりたい」とか、「自分の生活の中で役に立てることを続けたい」とかです。

 「大きなことを語れ」と求めるひとは少なく、「小さなことをします」と言うひとは多い。外側から「問い」にさらされることは少なく、内側で自分のテリトリーを再確認する言動は多い(敢えていじわるな言い方をしますが)。

 これはちょっと「災害の過ごし方」としてもったいないのではないかと思います。せっかくだからもっと揺さぶられたり、場合によっては立場を問われたり、大きなことを語ったりした方がよい経験になるのではないか。これまで存在しなかった接続が生まれるのではないか。そう思います。

 そこで。外側から問いが来ないなら、自分で自分に問いを立てようと考えました。「ドイツ語翻訳者として今回の原発事故をどう思うか」と自分で聞いて自分で答えるわけです。またこういう場所で枠組みをつくって問いを立ててもらえばいいと思いました。それを今回やってみたい。

 ポイントは、「複数」の問いを立てることだと思います。「〜として…する」が陥りやすい罠は、自分で自分を限定してしまうことです。でも人間は複数的な存在なので、たとえばぼくは今回のカタストロフィを「翻訳者として」「クライスト研究者として」「父親として」「猫と暮らす者として」「日本人として」「新潟県出身者として」等々、いろいろなふうに考えることができるわけです。そしてそういう複数性にこそ、さまざまな困難と可能性の両方が含まれていると思います。

 こういう自分自身のチェック機関のような働きを「声」と呼んでみました。個人、組織、社会、国家、どのレベルでも、根本をきちんと問い直す「声」が不足している気がします。大企業や国家機構だけでなく、やっぱり個人にも「声」が不足しているのだと思います。自分に対して、あるいは他人に対して、今回のような枠組みを利用して直球の問いを立ててみたい(直球じゃなくてもいいんだけど)。ただ、こういう問題だからこそ、変に深刻にならず、気楽にやりたいと思います。深刻さは思考を停止させます。外から見てイタイやりとりにならないよう気をつけましょう。

 自分にも、他人にも、シンプルな問いを立てて、正面から答えてみたい。なんか盛り上がらない気がしてならないけど、どうにかして面白くしてください。とりあえずリリースするので、すぐに始めてもらってもいいし、今回の問題設定自体について感想をもらってもいいと思います。今回はとにかく盛り上がる気がしないので、みなさんの力にかかっています。いつも通り飛び入りの参加も歓迎です。よろしく。

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