2011年5月18日水曜日

5/15 複数論理の(未)衝突

 15日(日)の「演劇的ニュース」。

1. 国民負担で東電救済か?

河野太郎ブログ:政府与党案をぶっつぶせ

池田信夫ブログ:東電の分割で賠償原資を

池田信夫ブログ:電気代を上げなくても被災者の補償はできる

池田信夫ブログ:賠償スキームの謎


 アンティゴネーとクレオンの対立、つまり「死者を埋葬すべきだ」「すべきでない」というような対立であれば、誰にでもその「問題の所在」は理会できるし、感覚的に判断を下すこともできる。「Yes or No」「友か敵か」の二項対立は、その意味でやはり公共圏を形成する有効な手段である。

 「東電をいかに賠償すべきか」という問題の場合は、どうだろうか。「国民負担」や「被害者への賠償」、あるいは「日本経済の安定性」を軸に「Yes or No」の二項対立をつくれば、問題はより明確化するのだろうか。しかし問題の所在が明確化したところで、わたしのような一「コロス」はどうしたらいいだろう。

 今回の出来事を通じて明らかになっている「古典的演劇的事実」は、世の中には複数の論理がある、ということだ。国家の論理、組織の論理、個人の論理。しかも、国家は「国家の論理」を、まるで「個人の論理」であるかのように装い(=国家にとって最善の選択が国民一人一人にとっても最善であると装い)、個人は「個人の論理」を、そのまま「国家の論理」に延長できるかのように考えている(=わたしは値上げが嫌だから、国家も値上げを容認するな)。

 そこでは、複数の論理が複数の論理として、「ドラマ的に衝突する」ことがない。国家の論理も、組織の論理も、個人の論理も、すべてが曖昧に混じり合って議論されている。もしかすると、アテネにとって演劇とは、複数の論理を複数の論理として切り分けて理会するためのトレーニングだったのかもしれない。

 ドイツ語にUrteilという言葉がある。「判断、判決、審判」という意味だが、もともとは「一番最初の分割」という言葉である。「分かる」ためには「分ける」が必要であり、判断し、審判を下すためには、分けるべきものは分けておかねばならないのではないか。

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