溝口によれば、日本語の「おおやけ」概念には元来以下の特徴があった。
一、おおやけの場とは、諸々のわたくしが主張され利害の衝突が調整されるという場ではない。
一、おおやけの場とは、諸々のわたくし相互の間の自由な交際の場ではない。
一、おおやけの場での公事にはわたくしごとはもち出せず、ましておおやけの場のあり方に変更を迫ったり乱したりすることは許されない。
一、天皇の所為や朝廷の行事、官の諸事はすべておおやけの公事として参加し奉仕することが要請されている。
一、おおやけの場の秩序に従っているかぎり、わたくしの領域は干渉されることなく保持できる。
以上のように、のちにわたくしを人称語とするに至った日本のおおやけ・わたくしの特性は、
一、おおやけを公然の領域、わたくしを隠然の領域とした二重の領域性によってすみわけられている。
一、おおやけ領域はわたくし領域につねに優先する。
一、わたくし領域にとっておおやけ領域は所与的・先験的であり、その場に従属するものとされている。
一、おおやけ領域は天皇を最高位とし国家を最大の領域とし、その上や外に出ることはない。
などとしてとらえられよう。
[溝口雄三『公私』、三省堂、1996年、44〜45頁]
また、溝口によれば、このおおやけ・わたくしの「領域性」は、二重構造をもつ。すなわち、たとえば家族と町内会なら家族が「わたくし」で町内会が「おおやけ」だが、町内会と区議会なら町内会が「わたくし」で区議会が「おおやけ」、区議会と都議会なら前者が「わたくし」で後者が「おおやけ」、都議会と国会なら都が「わたくし」で国が「おおやけ」になる、というのである。したがって、「わたくし」とは何か、「おおやけ」とは何か、という問題を一貫して貫く価値観や原理は存在せず、ただ「領域的」に決定されるにすぎない、というわけである。
溝口はこのことを否定的にとらえている。しかしながら、日本の「おおやけ」は、外部、あるいは上位の審級さえ設定できれば影響を受けるということは、肯定的に捉えることもできるだろう。
折口信夫は『日本芸能史六講』のなかで、日本の芸能の起源を「まつり」もしくは一軒の家の「宴会」であるとしている。このまつり=宴会では、家の「外」から家内へ、客神、すなわち「まれびと」が招き寄せられる。「まれびと」の役割は「鎮魂」あるいは「反閇(へんばい)」である。
あるじはまれびとの力によつて、家又は土地に居るところの悪いものを屈服させてもらひたいといふ考へがありますが、その事をまれびとがして行つてくれます。従ってここに於てまれびとを迎へた効果が、十分にあつた、ということになります。それ故にまた、さういふことをしてもらふ為にまれびとを招く、といふ風になつて来ます。
[折口信夫『日本芸能史六講』、講談社学術文庫、1991年、26頁]
客神を饗応することで良きものをもたらす、あるいは悪しきものを封じることが日本の「まつり」であるならば、日本の「おおやけ」を外部の導入によって更新することは、正統な「まつりごと」と呼べるのかもしれない。
なお、折口信夫は、日本の「まつり」は「宴会」が原型であるから、この饗宴には純粋な意味での「見物」などありえなかった、と主張している。たとえば盆踊りがそうだ。まつり、芸能、演劇、これらの原型には、「純粋な観客」など存在せず、必ず「参加」するものだったのであり、それは前回まで論じてきた古代ギリシャのコロスも同様である。「純粋な観客」は演劇にとって普遍的な事実ではなく、きわめて歴史的な現象なのだ。そしてその耐用年数はもはや切れてしまっているのではないか。「観客」のあり方は不変ではない。「観客の再組織化」こそ、演劇の、そして政治の、技術の、メディアの課題になっているのである。
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