2011年5月14日土曜日

5/13 劇場と野次

 昨日の「演劇的ニュース」。

1. 政府、原発賠償策を決定

 河野太郎ブログ 読売新聞 日経新聞 東京新聞 毎日新聞

 正直、まったく意味がわからない。ぼくだけわかってないのか、みんなわからないのか知らないが、この「賠償策」の意味がまったくわからない。

 「東電以外でも、原発を持たない沖縄電力を除く8電力会社と日本原子力発電の計9社が機構に負担金を拠出することを義務づけた」という。なぜこんなことが可能なのか? これらは私企業だ。どうしてこんな介入ができるのか? それこそ憲法違反ではないのか? 直接責任のない会社が他社のために賠償金を負担するなんて資本主義ではない。意味がまったくわからない。

 さらに「官房長官、銀行に債権放棄促す」とのこと。これも企業だ。「法人」だから、ひとつの人格だ。この「ひと」にとっては何億円もの借金が突然生じることになる。立憲民主制国家でこんなことが許されていいのか? 東京である劇団が大きな事故を起こして賠償が必要になったとき、九州の劇団にも負担義務があるなんて政府に言われたら納得できるのか。意味がまったくわからない。

 「国民負担の極小化」などと聞こえのいいことを言うが、常にこうして「一番エライひと」(政治家にとっては国民)の顔色をうかがい、「あなた様にご迷惑はおかけしませんから」と平身低頭し、それ以外の面ではプロセスも将来への影響もあったものではない、というのが日本という国なのか。意味がわからない。

 ところでしかし、それよりもなによりも重大なのは、この「意味がまったくわからない」ということを有効に示す回路をぼく自身が身近に思いつけないということだ。山本七平の『「空気」の研究』を思い出す。

舞台とは、周囲を完全に遮断することによって成立する一つの世界、一つの情況論理の場の設定であり、その設定のもとに人びとは演技し、それが演技であることを、演出者と観客の間で隠すことによって、一つの真実が表現されている。端的に言えば、女形は男性であるという「事実」を大声で指摘しつづける者は、そこに存在してはならぬ「非演劇人・非観客」であり、そういう者が存在すれば、それが表現している真実が崩れてしまう世界である。だが「演技者は観客のために隠し、観客は演技者のために隠す」で構成される世界、その情況論理が設定されている劇場という小世界内に、その対象を臨在感的に把握している観客との間で“空気”を醸成し、全体空気拘束主義的に人びとを別世界に移すというその世界が、人に影響を与え、その人たちを動かす「力」になることは否定できない。従って問題は、人がこういう状態になりうるということではなく、こういう状態が社会のどの部門をどのように支配しているかと言うことである。 [文春文庫、161−162頁、強調は引用者]

 「その女形は男だ」と言いたくても、どこでどう言えば意味があるのかわからない。どうすれば効果的な「野次」を飛ばし、「水を差す」ことができるのか。どうすれば「非演劇人・非観客」になれるのか。「非演劇人・非観客」とは、「劇場」の外にいるひとではない。「劇場」の中にいるからこそ「非演劇人・非観客」になれるのだ。どうすれば「劇場」に入ることができるのか。「劇場」はテレビの向こうにしか存在せず、自分が「劇場」の中にいるという感覚をもつことさえできないひとは多いのではなかろうか。

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