2011年5月12日木曜日

クライスト(2)

クライストにおいて踏み越えられてしまうもの、度を越されてしまうものとは、論理の支配、すなわち因果関係の支配そのものである。しかしそれが凌駕されるのは、観念論的な意味においてではない。つまり単に無限に連鎖する因果が理念へと弁証法的に止揚されて凌駕されるのではない。アリストテレス的伝統に従えば、美的なもの、とりわけドラマは、現実というカオスに秩序をもたらす(美的なものはロゴスの類似物とみなされる)ものと解釈しなければならないが、しかしながらクライストにおいては、ドラマのプロセスは逆に、いかなる秩序の中にも存在する「統治不能なもの」、偶然性、偶然的事態とそれがもたらす「[危機的]事態」そのもの、過剰な知への意志が招く偶然性への墜落、ひび割れ、盲目性を展開するのである。クライストにおけるこの反転が、これまで常に困惑をもたらしてきた。歴史の法則ではなく、法を欠くものの生産力。知ではなく、欺瞞と自己欺瞞の力。愛の調和ではなく、服従と攻撃という両極(ケートヒェンとペンテジレーア)が不可分になっている受難的情熱。 [レーマン「Kleist/Versionen」、161頁]

システムの現状の無根拠性そのものが明白になる。悪名高いクライストの過剰さ(残酷さ、偶然性、魂の傷つきやすさ)は、外部からの脅威として現れるのではなく、基準、モラル、論理、魂そのものの中心に内在しているのである。だからこそクライストのドラマトゥルギーは過剰なものを追い求めるのだ。[…]潜在的に破滅的な公正さ[Rechtschaffenheit]だけが、限界も基準も知らない公正さであるがゆえに、法を創造できる[Recht schaffen]。しかしこの性質のために、その法も常に危険にさらされかねないという条件がつきまとう。 [同上、159頁]

 クライストが秩序の中の「統治不能なもの」として発見するもの、クライスト作品でシステムを内破させるものは、多くの場合「民衆」である。

 知や権力を備えた個人が秩序を更新するのではない。力をもった民衆が「統治不能なもの」として内側からあらわれる。彼らは権力による承認も国家的な枠組みも必要としない。むしろ彼らは国家を代替していく。彼らが変革を主導する。

 主人公において問題となるのは、むしろこうした民衆をどう扱うかである。代表者が先導するのではなく、民衆が先導する。代表者はその力を既存の秩序と折り合わせることに注力する。民衆の「法を欠くものの生産力」、「潜在的に破滅的な公正さ」を既存の秩序の法として迎えるのが代表者の使命である。

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