2011年5月28日土曜日

5/28 決定・責任・時間

 本日の「演劇的ニュース」。

1. 「2020年代の早い時期に『自然エネルギー』20%以上に」

 1)朝日新聞:新エネ目標―太陽と風で挑戦しよう
 2)産経新聞:「4つの挑戦」 実現の具体性欠け無責任
 3)東京新聞:自然エネ20% 目標倒れは許されない
 4)日経新聞:自然エネルギー拡大の条件
 5)毎日新聞:エネルギー目標 国民合意形成に全力を
 6)読売新聞:新エネルギー策 安全性高めて原発利用続けよ

 7)毎日新聞:自然エネルギー:20%前倒し コストの壁高く 技術革新が不可欠
 8)読売新聞:橋下知事、新築住宅に太陽光パネル義務化検討
 9)池田信夫ブログ:太陽光発電という「課税」


 サミットでの菅首相の発言。これがどれだけ現実的な政策なのか、どのくらいのコストがかかり、いかなる制度を必要とするのか、現時点でわたしにはまったくわからないので、議論を追いたいと思う。

 気になったのは、池田信夫氏が菅首相について、「最近の彼の行動は「支持率最大化」という目的に特化しているので、これで支持率が上がればOKだ」と書いていたことである。

 彼の行動が「支持率最大化」という目的に特化しているのかどうか、わたしは知らない。ただ、誰でもわかることは、「2020年代の早い時期」には、もはや彼は首相の座にはなく、したがってそのとき「自然エネルギー」の割合が20%以上になっていないとしても、彼が責任を負うことはないだろう、ということである。

 「政治家の寿命」を越える時間的射程が問題になるとき、民主代表制というこの制度は、極めて重大な困難に陥るのではなかろうか。菅首相の本当の目的が「支持率最大化」であろうとなかろうと、直接の責任を負うことのない未来についてなら、ひとは何でも言える、そう思わせることは事実である。

 広い意味での「決定」は、その「決定」が及ぼす時間的射程に責任を負える者だけが下せるのではなかろうか。

 たとえばある町が、原発を廃炉にすると住民投票で決めたとする。5年後、10年後、その町が経済的に荒廃したとしても、それが住民たちの選択の帰結であり、責任の負い方であるはずだ。もしそれが不満なら、ふたたび方向転換するしかないだろう。そして彼らはそれについても自ら責任を負うことになるのである。

 あるいは、今回の「『自然エネルギー』20%以上に」という提言が、電力事業への参入を狙う企業から出てきたものであれば、その意味はまったく異なる。必要とされる条件を整えた上でその企業が目標を達成できなければ、やはりそれなりの責任を負うだろうからだ。

 「2020年代の早い時期」にどの政党が政権を担当し、誰が総理大臣であろうとも、この目標が達成できなかった場合に責任を負うことはない。菅首相は、責任を負えない発言をすることと「リーダーシップ」が何の関係もないことを認識すべきだ。

 しかしながら、だからといって今これからの日本について語ることは無意味だ、というのではない。むしろおおいに語り、また選択し、決定すべきである。ただし責任を負うことになる者たち自身が決定すべきだ。

 わたしは国民投票をすべきだと思う。「脱原発」へと傾き、「自然エネルギー」利用の流れになることは変わらないだろう。しかしこのままなんとなく事態が進行した結果、いつか電気料金が値上げされれば、確実に「政治家が悪い」という話になる。一方で国民投票の結果として電気料金が引き上げられるなら、「それも自分たちの選択だった」と認めざるをえないはずである。わたしはそれでいいと思う。その経験が必要だと思う。たとえばその後、もう一度「やっぱり原発だ」ということになったり、あるいはそうしてもたついているあいだに日本経済が少しずつ沈没してしまっても、それが選択であり決断であれば、仕方ない。それが民主制だからだ。民主制とは最善の政策を実現する制度ではなく、善だろうが悪だろうが自分たちの決めたことを実現する制度である。

 歴史は「善悪」や「正解・不正解」を原理的に問題としない。選択、決定、修正、選択、決定、修正…と連鎖するだけだ。プロセスの意識と学習の姿勢が重要なのだ。今こそこの問題に向き合うチャンスではなかろうか。

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