昨日のニュース。
1. 浜岡原発の全原子炉停止へ 首相の要請受け入れ
内容はすでに紹介するまでもないと思う。以下のサイトを参照。
朝日新聞 毎日新聞 小出裕章氏のコメント
わたしのツイッター・タイムライン上では好意的な意見がほとんどだったが、当然反発もある。
読売新聞 小飼弾氏のコメント 池田信夫氏のコメント 経産省の内部文書
反発側からは「これは政治的パフォーマンスに過ぎない」という意見があるようだ。政治的パフォーマンスと言えば、以下のニュースも同様。
2. 東電社長、土下座行脚
スポーツ報知 J-CAST 日刊ゲンダイ
これら二つのニュースに共通する問題を感じる。
広い意味での政治にはパフォーマンスが必要だ。しかし個人がいっときパフォーマンスを行うだけで政治を安定させることはもはや不可能である。ネット上には多様な意見が存在し、それがすぐに可視化され、パフォーマンスを批判する。
問題の本質はなにか。わたしは、今や問題は、代表者や企業のトップがその場しのぎのパフォーマンスを行うことではなく、共同体がどうやって持続的な「時間」を組み立てるか、にあるのだと考える。そのために重要なのは、「時間をつくる主体」である。そもそも民主制国家において、政治の時間をつくるべきは総理大臣や私企業の社長ではない。「国民」である。架空の「民意」をおもんばかって決断したり土下座するのではなく、具体的で現実的な「民意」が可視化され、それに基づいた政治が実現されるべきだ。
民主制とは、正義を実現する制度でもなければ、経済合理性を追求する制度でもない。「みんなで決めたことを実施する」制度だ。総理大臣が決断するから批判が残る。社長が土下座しても何も納得できない。しかし「日本国民」が決断したなら、反対派も「全員で決めたんだから仕方ない。嫌ならこの国を出るしかないんだな」と納得せざるをえないのではないか。
実際、ツイッターなどを観察しても、どちらかが絶対的に正しいと言える問題は、現代ではほとんど存在しない。「◯◯のことを想定してないから正しくない」「☓☓というデータがあるからこちらが正しい」などは、どちらの立場をとっても言えるようだ。「正解」は存在しない。したがって共同体が自己決定するしかない。共同体の自己決定が行われず、ほとんどの場合非常に短期しか続かない政権が場当たり的な決断を下しているから、いつまでたっても議論は尽きず、「とにかくその方向でやってみよう」ということにならない。
原発事故のあとではこういうことは言いづらいが、原則としては間違ったら間違ったで修正すればいいのではないか。時間が流れ、情勢が変化し、技術が進歩する以上、「正解」はないはずだ。そうした普遍的(=無時間的)な政治を実現することは諦めて、試みて駄目なら学んで変えるという「時間軸上の政治」を志向すべきである。
「共同体の自己決定」とは、言うまでもなく国民投票である。しかし東京都知事選のようにわずか数%の得票で決断が行われては、民主制といっても形式ばかりで、実質的には実現されていないことになる。インターネット投票を導入し、投票義務を軽い罰則付きにし、さらには選挙権年齢を引き下げるなどして、「みんなで決めたことを実施する」制度としての民主制の趣旨をふたたび取り戻すべきである。それは技術的にはすでに可能なはずだ。
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