2011年5月21日土曜日

5/19 パフォーマンスと喝采

 19日の「演劇的ニュース」。

1. 電力事業:菅首相、発・送電の分離検討 保安院独立も

 1)Bloomberg:菅首相:地域独占など電力供給の在り方議論する段階来る
 2)毎日新聞:電力事業:菅首相、発・送電の分離検討 保安院独立も
 3)時事ドットコム:自民にも発送電分離論=若手ら主張、谷垣氏及び腰
 4)読売新聞:電事連会長、「発送電分離」に否定的見解
 5)池田信夫:発送電の分離はエネルギー産業のイノベーションを生み出すか
 6)河野太郎:東電の国有化


 例によって「政治的パフォーマンスだ」などと批判されている、発送電分離の提案。

 現代の民主主義の困難は、「世論」の「喝采」を得なければ政治家は活動を続けられない一方で、個別の課題は「喝采」するかしないかを一瞬で決められるほど単純ではない、ということだろう。発送電分離のメリットが大きいとしても、それをいかなる法的枠組みで行うのか、政治はいかに官僚や電力業界との折り合いをつけるのか、複雑である。

 だからといって知識と技術を備えた一部の「選良」に政治と行政が委ねられるべきだとは、絶対に思わない。

 むしろ、この「提案→喝采or野次」というサイクルをさらに増加させるべきではないか。一見複雑な課題でも、個々の部分をみれば理会不可能ではない。問題を解剖し、ネットを活用して情報提供し、さらにそれに対するフィードバックを可視化するような恒常的な仕組みを整備すれば、政治は「民意の喝采」をテコに官僚や経済界を動かせるのではないか。

 要するに、今は一瞬の点でしかない「喝采」を「時間化」するのである。「民意の喝采」が一瞬の点にすぎないからこそ、そのあとの具体的な法的枠組みに官僚が利権構造を組み込んだり、経済界の意向で細部が変更されたりするのではないか。また、「民意の喝采」が一瞬の点にすぎず、恒常的なチェックになっていないからこそ、政治家は責任をとらないでも追求されないのではないか。

 今日は議論が粗くなったが、個人的にはパフォーマンスおおいに結構と思う。しかしそれを「一発芸」ではなく「パフォーマンス」として「作品化」するためには、「パフォーマンス」は時間的な持続と一貫性をもち、目的を達成しなければならない。そして「観客」の視線と、場合によっては激しい野次に、常にわがみをさらしておかねばならない。それが「パフォーマー」というものだろう。パフォーマンスとは一発芸をやってから舞台裏でもぞもぞ動くことではない。政治家が真のパフォーマーとして振舞わざるをえないような枠組みを、新しい「劇場」を、つくっていかなければならない。

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