感情のある種の興奮がどれだけ必要不可欠か(たとえすでにもっている考えを再生産するためだけでも)ということは、授業を受けて勉強しただけの偏見ない人々が試験を受け、前置きもなく「国家とはなにか」「財産とはなにか」などと問われているのを目にするとき、よくわかることが多い。もしこうした若者たちがなんらかの社会で国家や財産についてある程度話し合ったことがあるなら、彼らは様々な概念の比較、抽象、統合によって容易に定義を下せるかもしれない。しかし感情の準備がまったく欠けているならば、彼らは口籠るだろう。そしてそこから、彼らは知らないのだ、と結論づけるのは、ただ愚鈍な試験官だけである。というのも、「わたしたち」が知っているのではなく、知っているのは、何よりもまずわたしたちのある種の「状態」なのだから。国家とは何か、昨日暗記して明日忘れるような人々、そんなまったく卑しい精神だけが、こうした場合に答えを用意しているものだ。自分の優れた面を示すためには、公開試験はどんな機会よりも悪いかもしれない。
「語るにつれて思考が次第に完成していくことについて」(ハインリヒ・フォン・クライスト)
「知」は「状態」においてしかあらわれない。あるいは「状態」そのものが「知」である。要するにクライストは、「何事も現場でしかわからない」と言っている。「国家とはなにか」「財産とはなにか」という問いを試験会場で答えることはできない。国家が動いている現場、財産が動いている現場でしか答えを知ることはない。それを信じたからこそ、彼は哲学者でなく実作家の道を選んだ。彼にとって物語とは「現場」である。「国家とはなにか」という問いに対して哲学的・抽象的に与えられた答えを暗記するだけでは、わたしたちは何も知ることができない。しかし物語という「現場」に「状態」が置かれた場合には、そのとき限りかもしれないが、何かを知る可能性が生まれる。何かを知ることはまったく容易でない。読者が何かを知ることができるように、読者に現実的に役立つように、クライストは戯曲や小説を書き、雑誌や新聞を発行した。
人間は知を支配できない。知を備えていると自称できるのは「まったく卑しい精神だけ」だ。知を支配しようとせず、みずからの「状態」に応じて「知る」ことができなければならない。理性ではなく、知覚、感情、反応が必要だ。脳ではなく身体が重要だ。事態を事前にコントロールし尽くそうとするのではなく、状況を知覚し、感情に従い、すばやく反応すること。それが「知る」ことであり、知と行為が一致するその瞬間を、クライストは構想していたのである。
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