2011年3月22日火曜日

「空気」の「劇場」

 昨日は山本七平『「空気」の研究』を紹介し、言葉の内容だけでなく文体あるいは文彩(フィギュール)が「空気」づくりにつながる可能性を指摘した。

 ところで同書は、日本社会の分析に際し、演劇と演劇用語を繰り返し引き合いに出す。たとえば以下のように。

問題の焦点は、なぜ感情移入を絶対化するのかにある。[…]そういう状態になれなければ、そうさせないように阻む障害、または阻んでいると空想した対象を、悪として排除しようとする心理的状態が、感情移入の絶対化であり、これが対象の臨在感的把握いわば「物神化とその支配」の基礎になっているわけである。 [山本七平『「空気」の研究』、文春文庫、39頁、強調は引用者、以下同様]

虚構の存在しない社会は存在しないし、人間を動かすものが虚構であること、否、虚構だけであることも否定できない。[…]それは演劇や祭儀を例にとれば、だれにでも自明のことであろう。簡単にいえば、舞台とは、周囲を完全に遮断することによって成立する一つの世界、一つの情況論理の場の設定であり、その設定のもとに人びとは演技し、それが演技であることを、演出者と観客の間で隠すことによって、一つの真実が表現されている。端的に言えば、女形は男性であるという「事実」を大声で指摘しつづける者は、そこに存在してはならぬ「非演劇人・非観客」であり、そういう者が存在すれば、それが表現している真実が崩れてしまう世界である。だが「演技者は観客のために隠し、観客は演技者のために隠す」で構成される世界、その情況論理が設定されている劇場という小世界内に、その対象を臨在感的に把握している観客との間で“空気”を醸成し、全体空気拘束主義的に人びとを別世界に移すというその世界が、人に影響を与え、その人たちを動かす「力」になることは否定できない。従って問題は、人がこういう状態になりうるということではなく、こういう状態が社会のどの部門をどのように支配しているかと言うことである。 [同161−162頁]

このまま行けば、日本はさまざまな閉鎖集団が統合された形で、外部の情報を自動的に排除する形になる、いわばその集団内の「演劇」に支障なき形に改変された情報しか伝えられず、そうしなければ秩序が保てない世界になって行く、それは一種の超国家主義にならざるを得ないであろう [同163頁]

 東日本大震災以降の現状が思い起こされる。あるいはまた、WikiLeaksが世界を揺るがしても歌舞伎俳優のスキャンダルを追いかけ、エジプト情勢が急変しても「邦人安否」にしか焦点をあてず、「日本」という「演劇」に支障なき形に改変された情報しか伝えられてこなかった歴史が想起される。

 山本七平のようなすぐれた思想家が演劇のメタファーによって社会という「劇場」を分析している一方で、実際の演劇や演劇学者は社会とどのような関係を築けてきたのだろうか。演劇によって社会という「劇場」の分析が可能なら、その延長線上には、逆に演劇の再定義によって社会変革を提言する可能性が浮上するはずだ。たとえばブレヒトを知る者は、上記の分析になんらかのかたちで現実的に応えられるのではないか。演劇理論は常に社会理論だ。ギリシア語において「ドラマ」は「祭り」と語源を同じくし、日本語において「祭り」は「まつりごと」につながっている。これまで、「劇場政治」という言葉が一般に流布しても、「エジプト革命はソーシャル・メディアが生んだ『祭り』だ」という分析があらわれても、演劇学あるいは演劇関係者による言説は、社会の現状と展望に関して有力な提言を行うことができなった。今回がその転換点になることを期待するし、自分としてもその作業を続けたい。

0 件のコメント:

コメントを投稿