2011年3月20日日曜日

地震の9日後

 先日書いたことの続きが少しわかってきた。

 何か別のひと/ものを否定する言葉はあまり役に立たないので、とりあえずなんでも肯定してみたい、という気持ちらしい。前回も書いたけど、たぶん世界には「正しい想像力」と「誤った想像力」の区別がない。人間だって動物だから、なにか理由があってみんないろいろやっている。どんなめちゃくちゃなことにもきっと主観的な合理性があり、何らかの想像力が働いている。だから、まずは否定するよりも、そこから自分が何かを学んで役立てるほうが、ぼくの動物としての生にとって都合がいいわけです。

 数学は忘れてしまったので不正確なたとえだと思うけど、否定は「微分」って感じがする。複雑な時間の経過を瞬間的な一点にして、ものごとの厚みをうばいさる力を感じる。違いで分けていく力。「否定はいやだ」と書いたので、否定を否定することもしないけど、ぼくは肯定の方が好きですね。肯定は「積分」。瞬間的な一点にも、ものごとの厚みを見ようとする態度。小さなものをもう少し大きなものに統合する力。ものごとの厚みを実感するなんて、タテマエはかっこいいけど、実際はきついことだ。ここ数日で明らかになってきた「東京電力の厚み」なんて、知るだけでたいへんつらい。それでも、そこに厚みを見出し、ときには自分の中に取り込んでみたほうが、なんかいいことあると思う。面白いことをする力、生きのびる力になる気がする。

 ただし肯定は「感情移入」じゃない。嫌いなひとに「なる」必要はない。これがブレヒトの教え。

 しかしこうして書いていても、「否定するひと」をさらに否定する言葉に流れそうになる。むずかしいものだ。肯定するというのは、「好きだ好きだ」とか「楽しい楽しい」とだけ言い続けることなのかな。ちょっとあほっぽいけど…。たぶんちがうよな…。

 あ、それともういっこだけ。今すごく気になっているのは、何かを否定する言葉のほうがなんかかっこいいってこと。大事なのは言葉の意味だけじゃなく、言い方。ひとを巻き込む空気をつくるのは「言い方」かもしれない。何が悪で何が善かなんて、実質的にはどうでもいいのかもしれない。悪をやっつけ善へ導く、ロマンチックな「言い方」が問題なのかもしれない。ロマンチックな「言い方」が「感情移入」の波をつくる。

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