2011年3月4日金曜日

ネットワークと行為

 クライストにおける「悪」の問題に関しては、昨年11月に『シュロッフェンシュタイン一族』について以下のようなメモを書いていた。

結局、すべての根本原因であるような「悪」は存在しないということ。何らかのきっかけで誤解や不信が始まり、それがほとんど自動的に大きくなってしまう。ゲルトルーデの台詞はそうしたシステムにおいてしか語られえない、すなわち、Drehen freilich / läßt alles sich.(「もちろん全ては/反転可能」)ということ。特定の「内容」や「伝統」をひとびとはもはや共通了解としておらず、「言葉」あるいは「論理」そのものが問題となっている。個々人の考えや思いは一般化できない(クライストにおいて「一般的」なものはカタストロフだけだ。それとルソーの「一般意志」の関係、あるいは「伝統」との関係はおそらく非常に重要)。何を言おうとも、常に「逆もまた然り」と反論されてしまう。他方で、自分で自分の論理システムを閉じてしまったルーペルトのような人物には何を言っても無駄になる。そのような時代の「論理劇」としての悲劇をクライストは書く。この点で重要な人物はルーペルト。彼の不安定さ、怒りと不安、復讐の確信と突然の自信喪失、彼こそクライストの時代の人物だ。一貫性のなさ、一貫性の不可能性が「もうひとつの演劇」の可能性だったのではないか。共通了解がなく、一貫性が不可能だからこそ、クライストの人物たちは作中でいとも簡単に変化する。ジルベスターも最後は復讐に赴く。一貫した「善」などない。理想化された、あるいは心理的に典型化された「性格」はない。なぜならそんな「性格」として生きることは現実に不可能だったからである。こうしたことがいわゆる「カント危機」とどれだけ関係しているかはまだわからない。なぜなら、カントが問題にしていたのは究極的な意味での「物自体」の認識、人間の認識能力の限界であって、言語と現実の関係とは必ずしもいえないからである。 [クライスト(9)より]

 クライストもまたネットワーク的な思考で「悪」の問題を考えた。たとえば、一つの「悪」と呼ばれる出来事が後世において数千の「善」と呼ばれる出来事に結果的につながったならば、その原因となった「悪」はそれでも「悪」なのかという問題提起をしている。彼は明らかに絶対的な「悪」を信じていない。むしろ物事の連鎖の仕方に興味があるのだ。

 したがって、クライストにおいては「善悪」それ自体を描くことよりも、むしろ「システムが自動的にカタストロフへと向かうこと」が問題になる。「悪」の問題よりもプロセスの問題。しかもそこでは「言葉」が非常に重要な役割を果たしている。プロセスを先へと押し進めるのは常に「言葉」である。

 ところで、いくつかの単語について。

エマージェンシー(emergency 緊急事態)という語はエマージ(emerge 現れ出る)から生じていて、その反対語のマージ(merge)はラテン語のメルゲレ(mergere 液体に沈められた、浸された)から派生している。“緊急事態”は普通の状態からの分離であり、新しい空気の中への突然の侵入を意味し、そこではわたしたちは危急の事態に際して上手く対処することが求められる。カタストロフ(大惨事)という言葉は、ギリシャ語のカタ(kata 下へ)と、ストレイフェン(streiphen ひっくり返す)から来ている。カタストロフは予想外の展開を意味し、かつてはストーリーのどんでん返しを意味していた。予想外の状況になることは必ずしも悪くないが、これらの言葉は悪運を暗示するようになった。 [レベッカ・ソルニット『災害ユートピア』、亜紀書房、22−23頁]

クライスト作品では、まさに「新しい空気の中への突然の侵入」が生じ、これまで大地を支えてきた秩序が突如としてひっくり返る。そしてその出来事に明確な原因を求めることができない。自然災害や、誰が何の目的でつくったのかわからない契約が、物事を動かし始め、事態は雪だるま式にエスカレートしていく。出来事の連鎖の中で「善」と呼べそうな行為や「悪」と呼ばざるをえない行為が行われる。

 しかしクライストがそうした作品を書いた目的は、もっと大きなところにあったはずだ。事物が終わりなく連鎖し、ネットワーク上の思わぬ部分に影響を与え、手の付けられない自動的なプロセスを生み出していくときに、どうすれば何かを支持したり非難することができるのか。「善悪」が相対的なものになってしまうときに、それでも「善悪」を名指すにはどうすればよいのか。何が何に影響を与えるかわからないときに、どうすれば行為できるのか。哲学者たちが「思考するとはどういうことか」を考えたのと同じように、クライストは「行為するとはどういうことか」を考え、実践していた。その可能性は彼の書き残したものからまだまだ汲み上げられるはずなのだが…。

 今日は時間切れ。これから産婦人科に行くので、続きは明日以降。たいへん混乱したメモになってしまった。

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