2011年4月3日日曜日

4/3 安全設計と柔軟性

 以下は「くそ勉強」ブログ「問題19 リズムのつくり方」に関する議論の一部。

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 「予測できない状況になった」というのはぼくは違和感がある。だってこれまでも別に予測なんてしてなかった。習慣という慣性で動いていただけ。むしろ重要なのは、「なにが起こっても反応できるようにならないとな」という考え方が広まっていることではないか。個人、家族、企業、地域、国家等々、さまざまなレベルで「設計思想」や「安全設計」の再考が重要になる。

 そのときの対応としては、1)すぐれたシステムを構築する、2)柔軟な対応力を準備する、という二つがすぐに考えられる。しかしこれは「あれかこれか」ではなく、両者を組み合わせたほうがいい。つまり、一番下の基礎には「安全設計」されたシステム、その上に柔軟性。

 「安全設計」という分野では、「壊れたときに安全であること」が重要らしい。これはたいへん面白い。壊れたときにこそ安全で、そこからシステムの細部を復旧させることのできる基礎を考え直すこと。個人レベルではいろんな実践が考えられると思う。ぼくにとっては走ることが重要。夜走ってから寝ると次の日寝覚めがよくて、スタートダッシュがきく。これがリズムづくりにいい影響をもつ。

 「安全設計」された基礎の上は、もう柔軟性でいくしかない。災害や不幸は個々人の想像力を超えるということが地震と原発で明らかになった。対応力、現場力みたいなものが大事。ジャンルや専門性に依存しない「反応する力」。マニュアル主義の決定的な終焉(のはずだけど、どうも続いているらしい)。

 ぼくが今回思ったのは、「人間と動物のハイブリッド具合を考え直さないといけないな」ということ。人間も動物ですが、今後の成り行きを支配しようとしたり、予測してなかった事態が生じると反応よりも不安や怒りになったりと、まあいろいろただの動物ではない。過去・現在・未来があるからかな。動物はもう少し現在勝負。今必要な行動をする。蓮沼くんが「追い込まれたら必要なことしか出来ない」と言ってたけど、動物はまさに「必要なことしかしない」わけで、その意味では人間ももう少し動物化する必要があるのではないか。近いところ、小さなところ、今必要なところから自分が動き、ものごとを動かしていく。前回臼井くんが言っていたことだね。ずっと先の未来を支配することは不可能だから、基礎だけちゃんとつくったら、あとはその場の柔軟性で対応する。それが今後必要な「人間と動物のハイブリッド具合」だと思う。

 リズムを「流れ」という言葉で考えるなら、「流れ」をつくる力ばかり強化するのではなく、現在の「流れ」に対応する構えをつくっていく、ということ。これは二度と地震や津波や原発事故が起こらなくても役立つ。

 こうした「安全設計+柔軟性」が自分や社会にそなわっているのか、それをチェックする機関も必要。動物と違ってどうしても意志でつくり、維持する必要があるから。個人レベルではぼくはそれを「声」と名付ける。リズムが崩れるときに一番まずいのは、自分の中から自分の「声」が失われること。思考停止におちいること。社会も同じではないか。「声」が失われて思考停止におちいると、リズムは惰性と化し、「安全設計+柔軟性」が機能しているかどうかのチェックは不可能になる。

 ゴーダが「これまでどおりの個人の「リズムの作り方」だけではきっと太刀打ち出来ない」と書いた。個人ではどうにもならないことがあるというのは、たしかにそのとおりだと思う。ただ、「リズムの既製品」に頼るのも難しい。複雑で多様な時代だから、たった一人の自分に完璧にフィットするシステムが外でつくられているわけがない。新興宗教やら何やらの誘いが出てくるのはそこだと思うけど、ぼくはそういうものは信じられない。だから、「安全設計」としての基礎は、外側の助けを借りながら自分(たち)でつくるしかない。それは楽しい作業でもあると思う。「外側」にもいろいろある。自分の好きな小説、映画、音楽や、影響を受けた思想、理論。スポーツや食事や飲酒。ネット上に存在するさまざまなサービスを利用してもいいし、地域のコミュニティで活動したり、パートナーや家族をもつこともリズムの基礎をつくる。ひとに迷惑かけなければ新興宗教やナショナリズムでも別にいいと思う。ぼくは地震の数日後にはやっぱりクライストを翻訳していたし、村上春樹の小説を読んでいた。今は走っている。誰がなんと思おうと、自分にとっての「安全基地」があることが重要。

 「安全設計+柔軟性」。これがぼくの暫定的な根本思想です。また何かあったら変わるだろうけど、それはそれでよい。


柔軟に避難する猫。太っていても逃げる時だけは狭い場所に入れるのがすごい。

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