ギリシャ喜劇・悲劇は共同体の制度のど真ん中にあった。シェイクスピアもラシーヌもゲーテも権力のど真ん中にあった。現代演劇はそうではない。特に日本では趣味の共同体にとどまりかねない。演劇がなにを「アーカイブ」として参照して作品化するかが重要。それはどこに観客席を見出すかとほぼ同義。
演劇は現実政治のプロセスとは別のプロセスを描くことで政治を「制御/拡張」してきた。その実効性が認められていたからこそ、演劇は権力の制度のど真ん中に位置を占めていた。現代演劇はもはやそうした地位にない。だが社会で通用している合理性を拡張・補完する機能は果たせる。
というか、フーコーが渡辺守章との対談で述べたように、そもそも現実政治自体が必ずしも合理性を徹底するものではなく、政治は「劇場」をつくる。演劇が合理性を拡張・補完するとは、政治やマスメディアがつくっている「劇場」とは別の「劇場」をつくるということ。
今は「合理性の拡張・補完」のチャンス。お金より物語や詩に救われるとか、証明はできないけど死んだ人のことを考えた方が社会がうまくまわるとか、「新たな慣習」が生まれる可能性がある。「合理性」が本来秘めている豊かさの展開こそ、芸術や言論が現在取り組みうる最も面白いテーマの一つだと思う。
今日は国民投票プロジェクトに行ってきて、直接の感想ではないけれど、最近の関心に引きつけて書いてみた。政治には政治の「観客論」があるわけで、それとは別の、あるいはそれを拡張/補完/制御する「観客論」の可能性を演劇はもっているということ。
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