それは、「そもそもわたしたちはなぜ日本国憲法を守らなければいけないのか」ということである。概説書はすぐに「憲法の意味」や「主権の三つの意味」といった細かい議論に入っていて、憲法を遵守すべき根本的な理由が何も挙げられていないのである。
誰しも子供のころ、「なぜ人を殺してはいけないのか」と考えたことがあるだろう。それに対して、「人を殺すのは悪いことだから」と言われても、「なぜ悪いのか。悪いとはどういう意味か。悪いときと悪くないとき(戦争や死刑)の違いは何か」と納得できなかった人も少なくないと思う。かくいうわたし自身が子供の頃、一時期これをだいぶ考えた。子供なりの結論は以下のようなものだった。わたしは、わたしの友達や家族が殺されたら困る。きっと誰しも、友達や家族を殺されたら困るだろう。だから、「人を殺すのは悪いことだから」というよりも、みんながお互いに「まわりの人を殺されると嫌だから」、人殺しを禁止することにしたのではないか。
子供のころと同じような疑問を感じたのである。なぜ憲法を守らなければならないのか。守らなければならないことになっているのか。
いろいろ調べてみて、一番説得的だと思った主張は、「なぜなら、わたしたち自身がこの憲法を守ることに決め、今なお守り続けることに決めているからである」というものだ。つまり、別に憲法の内容が「正しい」から守らなければならないのではなく、憲法の内容は実は究極的には「無根拠」だが、とにかくそれを守ると「決定」したのだ、という説明である。カール・シュミット『憲法論』という本にそのことが書いてある。要するに、法にはもともとそれを支える「底」はなく、法をつくるとは究極的には「暴力」なのだが、いわば「暴力」によって「底」を仮構する行為なのだ、ということである。
このいわゆる憲法制定権力論は、現在の日本の憲法学ではほとんど論じられていない。それには様々な理由があるようだ。たとえば、上記シュミットの論理では、国民主権や基本的人権も普遍的な価値ではないことになり、それを「戦後」(あるいは「近代」?)が許容しない、ということ。また、日本国憲法成立史の問題。すなわち、GHQによるマッカーサー案をもとにした現在の憲法を、「わたしたちが決めた」と言えるのかどうか、という議論。
しかしながら、民主主義や人権が普遍的な価値ではないことも、日本国憲法史の真実も、とうに明らかになっているのだから、むしろ憲法を、いつからあるのかわからない抽象的な理念ではなく、具体的な決定として捉えることは、様々な面でより有益だと思う。
ドイツ語で憲法のことをVerfassungというが、それは「状態」という意味である。つまり憲法とは、「これがわたしたちの国だ」という政治的状態の決定の宣言なのである。そしてその憲法=「これがわたしたちだ」をもとにして、すべての法律がつくられる。したがって、日本で人を殺してはいけないのは、日本国憲法があるからだと言うことができる。日本国民が日本国憲法の遵守を決定したからだと言うことができる。憲法というものは、そうしたあらゆる禁止と許可の仮構的な「底」をなしているのである。これほど重要なことを、どうして憲法自身に定められた義務教育で教えず、日本の憲法学も説かないのか、不思議でならない。
憲法制定権力論が重要であると同時に避けられているのは、これが抵抗権に接続するからではないかとも、個人的には思う。国民が国家に逆らう権利が抵抗権である。抵抗権の興味深い本質は、それが権利として考えられているにも関わらず、常に非合法にならざるをえないことである。しかしながら、合法/非合法の根本的な「底」としての憲法が、究極的には無根拠で絶対普遍のものではないとするとするならば、国家がその憲法のもとに圧政を行うとき、新たな別の「底」をつくりなおす行動として抵抗を選択することは、誰からも否定されえないだろう。フランス革命の本質にはそうした法の哲学があった。だからこそ人権宣言第2条は、あらゆる人間がもつ自然権を、「自由・所有権・安全および圧制への抵抗である」として、抵抗権を含めているのである。日本国憲法は、抵抗権を明文上は保障していない。
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