2010年10月26日火曜日

国際法(4)

[国際法(1)(2)(3)

 具体的な国際法についてはまったく論じないまま進めてきた。

 国際法、そしてその舞台である国際社会は、ピラミッド型になっていない。国連安全保障理事会における五大国の権限という問題はあるが、それでも基本は「主権平等」である。また、新興国が勢力を伸ばすことによって、今後も多極化の度合いは高まっていくだろう。

 国際社会、あるいは地球は、一つの国家ではない。国際法という基礎的なルールはあるが、それが全てを解決するわけではなく、また常に適用されるわけでもない(イラク・イラン・北朝鮮とイスラエル・アメリカを比較せよ)。だからこそ、カール・シュミットの「国家以前の法」の理論を参照したのである。

 シュミットによれば、法とは、空間を構成することであり、秩序をつくることである。それは物理的な空間のみならず、経済空間、文化空間、思想空間などを含む。そうであるならば、物理空間、経済空間、文化空間、思想空間には、必ず特定の法による特定の秩序が与えられている。「空間」は、そのように見ていかねばならない。場所確定(Ortung)こそ秩序(Ordnung)なのだから。もちろん、このように語る言語空間も特定の法と秩序によって機能している。
 
 ドゥルーズが語る空間の撹乱、同時存在、組み替え、遊びが貴重なものとなるのは、そのためである。空間をかき乱すことは法と秩序に動揺を与える。しかしそれは、飽くまでかき乱すべき空間において起こらなければならない。また、空間と秩序は抵抗や反抗を織り込み済みで構成されていることにも依然として留意すべきだろう。奇妙な文をつくればいいということではないのだ。

 別にどうしても空間をかき乱すべきだというのではない。空間を法=秩序としてとらえたとき、どこに満足を見出すか、不満をみつけるか、何を変えたいか、どこへ行きたいか、複数の空間に住みたいか、一つの統一的な空間を望むか、そうした選択肢を検討することが現代における「自由」なのではないかと思うのである。法も秩序もない空間としての「自由」ではなく、法と秩序としての空間を選択する行為(その撹乱まで含めて)として「自由」を考えた方が、現実的に楽しいのではないだろうか。

 空間の選択。その選択の当事者として、どのレベルの空間選択に関わるかについては、「日本」や「会社」や「業界」や「私生活」など幅広くあり、個人の嗜好に従えばよいだろう。しかしどの空間に生きることを選択しても、その空間の法と秩序に関わることに変わりはない。法と秩序。あと50年くらいのあいだに、どの空間の法と秩序に関わっていこうかと考えるのである。

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