2010年10月18日月曜日

憲法(3)

 どうやら「契約としての憲法」の考え方にも、ロック的なそれとルソー的なそれがあるようだ。小室直樹はロック的に考えていて、カール・シュミットはルソー的に考えている。小室直樹の『痛快!憲法学』(タイトルで侮るなかれ、すごい本)ではもっぱらロックが扱われ、シュミットの『憲法論』ではルソーが圧倒的に重視されている。
 
 ロック的とルソー的は、立憲君主制的と共和制的と言い換えることができる。ロック的な「契約としての憲法」は、人民が国家権力と結ぶ契約であり、国家権力の暴走を規制するための憲法である。それに対してルソー的な「契約としての憲法」は、人民が人民自身と結ぶ契約、先週の議論を継ぐなら「わたしたち」が「わたしたち」と結ぶ契約としての憲法である。
 
 現実的には、これは両面とも重要だろう。いつ暴走するかわからないリヴァイアサンとしての国家権力を制限するために憲法があるというロック的な憲法観は、依然として日本では欠けており、必要だ。しかし「国民対国家」というロックの図式が現在の世界でどれほど有効か疑問もある。今回はルソーについて検討することで、前回までの議論を発展させると同時に、ロック的な憲法観への批判も明確化させていきたい。
 
 さて、まずはじめに、ルソーのいわゆる「社会契約」とはなにか。それをごく簡潔におさえておこう。

 「社会契約」において各個人は、まず「自己をそのあらゆる権利とともに共同体全体に譲り渡す」。譲渡先の「共同体全体」をルソーは「主権者」あるいは「人民」と呼ぶ。しかしながら他方、各個人が自らを譲り渡したその共同体とは、各個人自身がその一部である共同体なのであり、各個人は「主権者」あるいは「人民」の一部でもあるから、これは「自己との契約」でもある。こうした主権者/自己との二重契約が「社会契約」である。そこで各個人は、あらゆる権利を譲り渡すにもかかわらず、完全に自由である。なぜなら、自分自身以外の権力(たとえば王権)に服従するわけではなく、主権者に従うことはすなわち自分自身に従うことだからだ。
 
 立憲君主制を採用しておらず、国民主権を採るならば、ルソーのこの考え方は論理的に筋が通る。つまり、「契約としての憲法」においては、「わたし」および「わたしたち」が複数の顔をもつ、ということである。「わたし」は法をつくる者の一人であると同時に法に従う者でもある。ルソーはこうした複数の「顔」にそれぞれ別の名を与えている。
 
「政治体が受動的に法に従うときは≪国家≫Etat、能動的に法をつくるときは≪主権者≫Souverainと呼ばれ、それを他の同じ公的人格と比べるときは、国際法のうえで≪国≫Puissanceと呼ばれる。構成員についてみると、集合的には≪人民≫Peupleという名称をとり、主権に参加するものとしては個別的に≪市民≫Citoyens、国法に従うものとしては≪臣民≫Sujetsと呼ばれる。」
(ルソー「社会契約論」、井上幸治訳、中公クラシックス、2005年)
 
 ルソーの考え方は、論理的には欠陥がないにもかかわらず、なぜか複雑な感じがする。ここに何か大事なポイントがあるのではないか。

 つまり、ロック的に「国民」と「国家権力」を対立させ、「国民」はその「人権」を保護されるべき集団、「国家」はそれを侵害しかねない力とし、したがって「国家」を規制するために「契約としての憲法」を課す、という二項対立の図式は非常にわかりやすい。それに対して、「わたしたち」が権力を行使する側でもあり権力に攻撃されかねない側でもある、同時に複数の者であり、同時に両極端として存在しているという思考を、現代のわたしたちは感覚的に受け入れ難い。

 おそらくそれは、ルソーが「自己同一性の思考」を少しはみだしているからだ。「わたしたち」がこれでもありあれでもある、ということは、「わたしたちとは…である」と言いたがる精神に反している。しかしながら一方で、現代において「わたしたちは国民である」とか「国家権力とは…である」と断言することにどれだけの有効性がなおあるだろうか。むしろ、「わたしたち」は時と場合によって「顔」を変え、あるいは同時に複数の「顔」をもつと考えるべきケースはますます増えていないだろうか。「自己同一性の思考」が好む「権力と抵抗」「抑圧と被抑圧」「友と敵」といった「二項対立」や「視覚的図式」を超えた思考や実践がわたし(たち)に可能か、という問いが、憲法-シュミット-ルソーを考えることの根底に横たわっているのだ。
 
 そしてそれは当然ながら芸術の問題でもある。次週の考察は以下の文章から始まる。
 
「ドラマの核心は、『劇的な衝突』とヘーゲルが名づけた葛藤の中心にある人間主体にあった。この葛藤が、敵対者への間主体的な関係から本質的な自我主体を構成するのである。ドラマ演劇の主体が存在するのは、この葛藤の空間においてだけであるとも言える。その限りにおいて主体とは間主観性そのものであり、葛藤を通して構成されるライバルの主体である。そういう間主観性の時間は、葛藤を通して敵を同一化する単数の時間であるために、均一な時間とならざるを得ない。そもそも敵同士が出会うことのできるような時間が必要になる。」
(ハンス=ティース・レーマン『ポストドラマ演劇』、同学社、2002年)
 
「敵」を「敵」にしてしまう「時間」ではなく、「わたしたち」が別の「わたしたち」と出会い、複数の「わたしたち」に絶えず変身し続けてしまうような「時間」は可能なのだろうか。それは哲学や演劇だけの問題ではなく、憲法の問題でもあり、政治の問題でもある。

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